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田子乃古道 9 元吉原からの東海道の道筋

(我が家からの夕景-8月28日撮影)

9月1日、日曜日で町内の防災訓練で、午前9時のサイレンとともに、五叉路の集合場所に出向いた。日差しは暑くて、日向に長い時間いると熱中症になりそうな真夏日である。さいわい、今日は小学校のグラウンドまで出向くことはせずに、幾つかのチェックと備蓄食料の入れ替えに伴う、各戸への試食品の分配をして、解散となった。高齢化の進んだ町内では、そういう配慮も必要なのだろう。

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見付宿から、元吉原宿に宿場が移って、東海道の往還も大きく変わった。田子乃浦の港を舟で渡すコースから、北へ迂回して富士川を渡るコースへと変わった。

「田子乃古道」の解読を続けよう。

さて見付通りの往還かわって、吉原町通りと成る。町より北へ往来に付、今の川合橋、廿六間巾、三間通り定まり、舟渡し止む。なおまた、北へ向き七、八町行きて依田村、この村は今泉村の打ち出し村にて、高八百石。この村至って困窮村なるに、さる御役人様、所の困窮は名に依ると申して、依田村にてはよた村ににるゆえ、依田橋と云う橋有る故、やはり依田橋というべしと御下知これ有り候に付、依田橋村とこれより申すなり。
※ よた(与太)- 愚かで役に立たないこと。また、そのさまや、そのような人。

村より西へ曲りし所に依田橋と云う板橋有り。橋長拾壱間と有り。次村、田嶋村を西に曲りて、山神社北添い、この所に一里塚あり。また西へ中河原村、屋敷は道より壱丁余り下り、西に有り。

海道は二つなり。下海道は前田村より五貫嶋へ掛けて、富士川の裾を渡し、川瀬、幾瀬にも成り、天気には難義に成り、雨天満水の度々は迷惑におよび、通路なりがたし。右に付、一瀬に水神の森を堺いて、岩渕通りへ流し落す。加嶋通り誠に助かり、雨天の耕も出来候なり。なお又、上海道と申すは、田嶋一里塚より道奥村(これは依田原村の小名なり)へ掛けて、津田村、荒田嶋村の境へ出て、高嶋村、潤井川を渡る。上下へ分るゝ追分あり。
※ 富士川の裾を渡し - 富士市立博物館発行のパンフによれば、富士川の河口近くは瀬が幾つにも別れ、そこをどうやら徒歩渡りしていたらしい。
※ 天気 -「天気には難義に成り」の「天気」は晴天の「天気」ではなくて、天候の意味だろう。つまり、「天候によっては難義になり」と解する。
※ 一瀬に水神の森を堺いて、岩渕通りへ流し落す - これはほぼ、明治初めまで利用されていた旧東海道の富士川の渡しに近い。
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