goo

横岡城と松葉城を見に行く

(横岡城跡、手前は井戸跡)

今川氏が遠州に攻勢を強めていた1496年、今川氏に付いていた松葉城の川井氏と、斯波氏に与していた横岡城の鶴見氏が戦った。二つの城は直線距離で6キロ弱しか離れていない。しかし山道を行き、峠を越えての山中の戦いになったと思われる。戦いは鶴見氏が川井氏を破ったけれども、勝った鶴見氏も今川氏親によって滅ぼされた。両城ともその後築城されることはなく、現在に至っている。

この二つの城跡を見て来たいと思い、息子を誘って出かけた。まずは横岡城跡である。すぐ近くにあることは知っていたが、見に行くのは初めてであった。我が家から車で5分ほど、大井川の河岸段丘にあり、城之壇という地名が残っている。女房の在所のお寺、観勝寺へ向かう山道を上り、丁字路で観勝寺とは反対側の左手に細い道を入ると、横岡城跡がある。小広い茶畑になったところが城跡なのだろう。案内板があった。鶴見氏の最期について以下のように書かれていた。

横岡城は、室町・戦国時代、鶴見因幡守栄寿の居城でしたが、明応五年(1496)今川氏親は駿河の相賀村(大井川の対岸)に贋旗を押し立て陽動作戦を展開し、いっきに長者原(背後)から襲撃し、鶴見氏を滅ぼしてしまいました。

茶畑の中に直径2メートルの大きな井戸が残っていた。今確認できる横岡城の唯一の遺構であろうか。大井川方面が開いていて見渡せる。往時は天正の瀬替え前で、大井川は横岡城の足下を流れていたと推測される。

松葉城は大代川の谷を遡り、庄司のトンネルを抜け、県道81号線に入り、狭い山道を越して倉真温泉へ出る手前の山の尾根にあり、道路左側に松葉城跡への登り口と案内板があった。松葉城の最期について、以下のように書かれていた。

明応五年(1496)5月松葉城(城主河合成信)は勝間田城主・勝間田播磨守と志戸呂(横岡)城主・鶴見因幡守に攻められ落城した。

鶴見氏だけかと思っていたが、勝間田氏と挟み撃ちになっていた。疑問点が一つ出てきた。勝間田氏は1475年に今川義忠に攻められて落城したはずが、20年後に再び名前が出てくるのはどうしたわけであろう。滅んだわけではなかったのか。再興したのか。これも調べなければならない。


(松葉城跡)

所要時間15分の山登りをした。途中、新東名がすぐそばを通っているのが見えた。昔、鶴見氏の兵が尾根を歩いたであろう、その直下をトンネルで新東名が抜けている。狭い尾根上に「松葉城趾」の石碑が建っていた。尾根上に幾つかの曲輪に分かれていたにせよ、松葉城跡の規模の小ささが知れて、これで挟み撃ちにあったのではひとたまりもなかっただろうと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 天下統一と諏... 長松院を訪ねる »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。