平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
長松院を訪ねる

横岡城跡と松葉城跡を見学したあと、「島田金谷の考古学と歴史」で名前の出てきた長松院に立寄ることにした。
1496年、横岡、松葉両城が落城した同じ年の7月、今川氏親が遠江長松院に対する乱暴狼藉の禁制を出している。このような禁制は戦場になる地域の寺社にだされることが多く、敵味方いずれに対しても長松院に対して乱暴狼藉を禁じる旨の書付である。最もその効果は味方の兵たちにしか届かないけれども、そのこと自体、戦が近いことを示している。
そして9月には、氏親が長松院に金谷郷深谷を寄進している。この深谷を支配していたのは鶴見氏と思われるから、この時には、横岡、松葉両城とも落城していたことが分かる。つまり両城の落城はこの2~3ヶ月の間に起きたことと考えられる。直接の戦いの記録が残っていなくても、状況証拠を積み重ねていけば事実が浮かび上がってくる。
この後、長松院には氏親(2度目)、義元、氏真から、深谷郷の安堵状が出されている。
長松院は掛川の日坂から東山に至る道を2キロほど入った右側にある。細い道を入ると奥に広い駐車場があった。かつてはもっと広い伽藍を誇ったお寺なのだろうが、今はこじんまりしたお寺であった。これだけの歴史あるお寺であるが、案内板がないのが残念である。
参道脇に大須賀鬼卵の墓と、河合宗忠の墓碑が並んであった。

(大須賀鬼卵の墓)
大須賀鬼卵(1744~1823)は河内で生まれ、東海道を点々と、吉田、三島、府中、日坂と住所を替え、日坂を終の住処にした文人である。絵画を好み狂歌連歌に長けた人で、57歳のとき、「東海道人物志」を著している。品川から大津まで、53の宿駅ごとに、その地に住む学者、文人、諸芸に秀でた人々を列記した本で、現代ならベストセラーだったようだ。
日坂では「木蘭(きらん)屋」というたばこ屋を営み生業とした。そのたばこ屋の障子戸に書かれていたという狂歌が墓碑にも刻まれている。
世の中の 人と多葉粉(たばこ)の よしあしは けむりとなりて 後にこそしれ
この歌は白河楽翁(松平定信)の目にとまり、褒美を賜ったと伝わる。
鬼卵は晩年、長松院に参禅して仏卵と号した。鬼が仏に目覚めた訳である。齡83歳で卒し、長松院に葬られた。
もう一方の河合宗忠は松葉城の最期の城主、川井成信の法名だという。川井と河合でややこしいが、川井が、後世に河合に改められたと推量される。長松院は川井氏の菩提寺であった。落城の時、成信は城から落ち延びて、長松院まで来て自決したと伝わっている。せっかくの墓碑だが、明治に作られたものは漢文で解読が難しい。
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