goo

天下統一と諏訪原城-島田金谷の考古学と歴史

(西原から冠雪の富士山-今日)

(昨日の続き)
応仁文明の乱で、今川義忠に蹴散らされて、遠江守護斯波氏の守護代狩野氏、横地氏、勝間田氏が没落し、遠江の覇者が空白状態になった。東から今川氏、西から織田氏を後ろ楯に徳川氏、北からは武田氏が虎視眈々と狙う草刈場となっていた。

そして、遠州を制するもの天下を制すとまで言われた戦略上重要な地域となった。最初に遠江を制したのが今川氏で、遠州をほぼ手中にし、1560年、今川義元は京を目指す途中、桶狭間で信長の奇襲に遭い、敗れた。勢いを失った今川氏を背後から武田信玄が襲い、1568年、信玄が駿府に入った。この時、今川氏の頭越しに、信玄と徳川家康は大井川を境に領地を分けるという密約を結んだと言われる。

今川氏真は敗北して懸川城に入っていたが、今度は家康に攻められ、懸川城を家康に明け渡し、大井川の河口近い小山城へ入った。氏真は大井川を越えて、より堅固な田中城に入りたかったけれども、小さな小山城に入った。その理由として、大井川の増水で渡河出来なかったのではないかといわれている。やがて氏真は小山城も追われて、小田原の北条氏を頼って落ち延びる。

今川氏が消えて、武田氏と徳川氏は遠州の地で直接戦うことになった。1570年、武田氏は東の北条氏と、領国の境を狩野川・黄瀬川とすることで和議し、西へ兵を進めた。高天神城を攻め、1572年には、北から三方原の戦いで家康を破り、浜松城へ家康を追い詰めた。信玄の病死の後、武田勝頼は1573年、懸川城、久野城と攻め、見付に陣を進め、家康と対峙した。その年に高天神城を見据える形で諏訪原城を築城した。

1574年、高天神城を攻め、1575年には北部山岳地帯を通って長篠で信長軍と戦った。信長軍には秀吉、家康も加わっていた。武田軍の騎馬隊に対し、信長軍は鉄砲隊と馬防柵で戦い、武田軍は敗走した。家康は武田軍を追って、二俣城、光明城、犬居城と攻撃し、8月に諏訪原城を落城させた。

すぐに、諏訪原城は牧野城と改称された。周の武王が殷紂を牧野に破ったことに因んで、牧野城にしたという説がある。この説によれば、大茶園のある牧の原の地名は、牧野城から名前を取ったことになる。

家康軍は馬伏塚城→横須賀城→牧野城と兵站線とし、要の高天神城を攻撃する。勝頼軍は田中城→小山城→高天神城を兵站線として、互角の構えであった。しかし、不運なことに、勝頼は和議を結んでいた北条氏と不和になり、十分な援軍を高天神城に送れない事情があった。そして高天神城が家康の手に落ちた。これで、家康、勝頼の攻防は峠を越した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 深谷郷から見... 横岡城と松葉... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。