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金谷宿の助郷 (前) - 島田金谷の考古学と歴史

(講座会場の金谷会館脇の、かなや公園)

午後、「島田金谷の考古学と歴史」講座に出向く。本日のテーマは「川越と助郷-江戸時代の金谷の人々の日常生活」である。

1601年、東海道金谷宿は、江戸から陸路51里、品川から24番目の宿として整備された。金谷6人衆と呼ばれた、河村八郎右衛門(柏屋)、河村六郎右衛門(藤屋)、河村藤右衛門(柳屋)、横山伴右衛門、山田三右衛門(山田屋)、近藤五郎兵衛が代々宿役人を勤めて、金谷宿を支配した。

物資輸送に必要な伝馬は、当初は36疋でスタートしたが、年々通行量も増加し、1638年には伝馬100疋、人足100人に増員され、伝馬が不足となり、近傍郷村へ伝馬の援助を依頼するようになった。はじめは宿駅と近傍郷村との相対による馬出役の依頼であったが、1694年には定助、大助の村が指定された。金谷宿の定助郷村14ヶ村、大助郷村30ヶ村になった。
※ 定助(じょうすけ)- 定助郷。江戸時代、宿駅の常備人馬が不足した際に、その補充を常時義務づけられた近隣の郷村。
※ 大助(おおすけ)- 大助郷。江戸時代、享保10年(1725)までに東海道、中山道、日光街道などにおかれた助郷。加助郷と似た機能をもつものや、定助郷に転化したものもある。


助郷の制度は郷村にとって大きな負担であった。賃銭は出るものの、わずかな額で、費えをカバーするものではなかった。各宿場とも助郷村の不満がつのり、たくさんの免除の嘆願書が出されている。

1710年、比木村(現御前崎市)から出た免除の嘆願書を以下へ読み下し文で示す。

   恐れながら口上書を以って申上げ候御事
(中略)
一 今度金谷町より、右の村、助郷仰せ付け下され候ようにと、御願い申上げ候由、承り及び申し候に付、恐れながら御伺い申上げ候、この村方の儀は、金谷町より道のり遠く、六里半、殊に村の内、上より下まで、壱里半御座候、これにより、前々御料・私領へ相渡り申し候えども、いずれの宿よりも御役付の儀、御願い申上げ候ことも御座なく候所に、今度、御巡見様へ金谷町より御訴訟申上げ候由、承知仕り、当書の趣、御訴え申上げ候御事

一 金谷町へ当村より道のり7、8里御座候わば、一日の御役に罷り出で候にも、三日宛掛かり申し候、その上近年猪、鹿、だいぶ発向仕り、作物荒し、昼夜百姓ども困窮仕り候所に、金谷町助郷仰せ付けられ候わば、耕作仕りかね、百姓相続き申すまじくと、迷惑に存じ奉り候御事

一 当村の儀は老牛馬、悪馬にて漸々作仕り候、殊に金谷町西は坂道、東は大井川、東西難所にて御座候えば、悪馬にて大切なる御伝馬助役相勤まり申すべき様、御座なく候御事

右の通り、恐れながら、聞こし召し分けさせられ、御慈悲に先規の如く御助役御免あそばされ下され候わば、有り難く存じ奉り候、以上
  宝永七寅四月日

(以下略)

1725年、助郷村改定にで、定助、大助の区別無しに改定されたが、その中に比木村の名前は入っていない。上記の嘆願書が効を奏したのであろう。(続く)
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