goo

田子乃古道 6 重宝黄八幡の籏の行方

(庭の隅のサフランモドキ)

「田子乃古道」の解読を続ける。

甲州の新子の大将勢を率(ひきつ)れて、今川と戦わんと押し寄る時、富士川満水にて通舟泊る。その夜、加嶋川成(川成嶋)に陣をはり、川の通路を待つ。その夜俄かに大波立ちて、陣中へ打ち入る。武田の重宝黄八幡の籏を波に取られたりと、高坂弾正が甲陽軍鑑に載せたり。この辺は波場とは見えたり。
※ 川成(かわなり)- 洪水のために土砂が流出し田畑が川原になること。また、その田畑。但し、こゝでは地名。田子の浦港と富士川に挟まれた海辺の地域に「川成島」という地名が残る。
※ 重宝(ちょうほう)- 貴重な宝物。
※ 高坂弾正 - 高坂弾正忠昌信。武田信玄の家臣。小諸、海津城代。「甲陽軍鑑」の著者。


また北條五代記に、今川家と北條家とは縁の義に依って、伊勢新九郎先手にて、大軍引率して富士川の広川原に充満し、相州勢、川成島の陣を目がけて、俄かに夜打ち、西南塞がり、東より相州勢押し来る。依って軍(いくさ)にかしこき甲州勢、一戦もせず引き退(しりぞ)く。その時、新羅三郎が廿六代伝え来たる武田家の重宝、黄八幡の籏を相模勢にうばい取られし事、北条家の重宝と成ると書きたり。
※ 伊勢新九郎 - 北条早雲のこと。室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。
※ 先手(さきて)- 本陣の前に位置する部隊。また、一番先に進む部隊。先陣。先鋒。
※ 新羅三郎 - 源義光。平安時代後期の武将。河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男。兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。義光の子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展した。


それにしても、方や、甲州側の記録「甲陽軍鑑」では波にさらわれたとあり、相手方、相州方の「北條五代記」では相模側が奪い取ったと書かれていて、立場により表現が違って面白い。

「黄八幡の籏」については、もとは相州古沢新城城主北条綱成の旗印であったものを、永禄12年(1569)武田信玄が同城を攻めた際に得た旗で、綱成の武勇にあやかるようにと、信玄が真田信昌に与えたものと伝わる。朽葉練地に八幡と墨書されている。現在、長野市松代の真田宝物館に所蔵されているという。

ここに書かれた話とは真逆の話で、時代が違うと思われる。「田子乃古道」の記録が何年頃の話なのか、はっきりしないが、伊勢新九郎が駿河方面で活躍した時期は(1487~1519)だから、武田信玄が相州古沢新城城主北条綱成から奪った、永禄12年(1569)は、50~80年後のことである。つまり、元々新羅三郎ゆかりの武田家の重宝だった「黄八幡の籏」が、一度北条方に奪われ、北条家の重宝となっていた。それを、半世紀以上後に、信玄によって、武田家が取り返したということになる。確証はないが、いずれにしても数奇な運命の旗印ではある。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 田子乃古道 ... 田子乃古道 ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。