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「松平記 巻四」の解読 7

(散歩道のハコネウツギ、5月18日撮影)

午後、はりはら塾から、講座再開の連絡が郵送されてきた。6月の講座から再開できることになった。少しずつ、日常が戻って来つゝあって大変嬉しい。願わくば、再度中止にならないことを祈るばかりだ。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

一 岡崎、家康は永禄十一年(1568)四月に遠州を大方手に入れ、堀江の大沢右衛門尉、二股の二股左衛門尉、高薗の浅原、頭陀寺(ずだじ)の松下、皆な家康に降参なり。久野城主久野三良右衛門も同じく、家康へ付くなり。所々皆なしたがえ、同十一月には、今泉四良兵衛、菅原新八郎、案内者として、井谷へ御出で、菅原二良右衛門、鈴木三良太輔、近藤石見、三人を手に入れ、十二月十三日、已(すで)に井谷へ馬入り有り。井谷城落ちて本坂に至り、刑部の城を攻め落とし、菅沼新八郎内の者、菅沼亦左衛門篭り、頓(やが)て浜松城攻め落とし、酒井左衛門尉を篭(こ)めらるゝ。

一 高天神の小笠原与八郎、真虫(馬伏)塚の小笠原美(作)守も、氏真へ忠を致すか、信玄へ忠を致さんかと、更に心を落しつけぬ躰なり。然れども、榊原、小笠原主膳、同伊予守才覚にて、家康へ両人随うなり。

一 信玄の内、秋山伯耆守、信濃の伊奈より人数を連ねて、遠州愛宕山へ出で、見付に陣を張り、奥平道文(定勝)、菅沼伊豆守、同新九良、田嶺新三郎、家康と一味して合戦、然れども討ち負け候間、秋山伯耆守、遠州引間へ人数を出し、遠州を手に入れんとす。然れども、扨(さて)に、大井河を切りと成し、駿河は信玄へ渡し、遠州は家康へ渡し申すべく由、約束せしめ、秋山は山科へ引き入れ置くに、高原へ上りて、京の谷を通り、佐夜の中山へ出て駿河へ入る。岡崎衆、今少し、秋山を謀(たばか)り留めて討ち取り、美濃衆をも、皆なこの方へ手に入れべきものをと、後悔すれども甲斐も無し。

一 今度、駿河没落の時、家康一腹(いっぷく)の弟、松平源三良と酒井左衛門尉が女(むすめ)を、先年吉田城を大望(たいもう)と成され、和談、三河平均(へいきん)に御退治(たいじ)の時、家康と左衛門尉、誓詞並び人質を以って氏真と和談にし、駿河へ越し給う時、三浦与一と云う者、預け置きけるが、今度、三浦、信玄へ別心(べっしん)して甲州へ行くとて、かの人質も、則ち甲州へ進上申しけるに、かの源三良、若人(わこうど)なれども、さすが家康の弟にて、心はやき人なれば、大雪降り、多き番衆油断しける中に、雪を踏み分けて、家康の方へ、その歳の内に皈(かえ)り給うに、ゆゝしきと諸人申しける。されども、雪に焼けて両足の指、皆な落しけるとぞ聞こえし。
※ 一腹(いっぷく)➜ 同じ母親の腹から生まれること。同腹。
※ 大望(たいもう)➜ 大きな望み。たいぼう。
※ 平均(へいきん)➜ 平定すること。統一すること。
※ 退治(たいじ)➜ 仕事などを一気に処理する。
※ 別心(べっしん)➜ そむこうとする気持ち。ふたごころ。
※ 心はやし(こころはやし)➜ 心の働きが機敏である。勘が鋭い。
※ ゆゝしい ➜ 程度がはなはだしい。容易ならない。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)
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