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島田市の神社 12 大代神社

(小山の上の大代神社)

6回目の島田市の神社巡りの続きである。志戸呂の大井八幡神社より、さらに大代川に沿って遡る。新東名のガードを潜り、しばらく歩いたところで、家から出て来たおじさんに、大代のお宮の所在場所を聞いた。さらに1キロほど進んだところから、登っていくようなことを聞いたが、今一つ説明がピンと来なかった。

道から右へ入ってしまい、迷い掛けて、西の小山の上を見ると、遥かに白い鳥居が見えた。あれが大代神社かと、そこに向けて道を戻った。あの山の上なら、法昌院があり、そこまで車で来たことがある。誰かの葬式だったのか、今では記憶に無い。ようやく行く先に見当が付いた。

法昌院入口の石碑に導かれて、牛尾山と同じくらいの高さを登ったところに、大代神社はあった。境内は鎮守の杜に相応しく、杉の大木が何本も立って、木漏れ日が落ちていた。

金谷町史によれば、

大代神社 金谷町大代1282番地の三にあり、祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、誉田別尊(ほんだわけのみこと)の三柱で、例祭日は10月18日である。社伝によれば、文武天皇の御代に素盞鳴尊を勧請して氏神とし、大宝神社と称した。寛永十六年(1639)社殿を造営、元禄九年(1696)・享保二年(1717)・宝暦四年(1754)再建。明治四十三年、山王神社、若宮八幡神社を合祀して大代神社と改称した。除地高二石五斗八合。


(大代神社前から「たけ山」)

西に間近に見える山は、自分は「たけ山」と呼んでいる山で、島田の方から見ると、粟ヶ岳の北側にあって、並んで見える山である。今もって正式の山名を知らない。

その西隣に、龍燈山法昌院がある。お寺の前の小広いところに、「五和西小学校学び舎の地」という石碑が建っていた。かつては小学校があった所のようだ。


(龍燈山法昌院)

法昌院は、大代で代々名主を務め、御林守(おはやしもり)として、幕府直轄の御林を管理していた旧家、河村家の菩提寺であった。ちなみに大代神社も、河村家の御先祖が勧請した神社だという。


(法昌院の水琴窟)

法昌院本堂前の左右に水琴窟(すいきんくつ)があって、手水の水を流すと、澄んだ音色が幾重にも重なって聞くことが出来る。山間の、風の音がかすかに聞こえるだけの陽だまりにしゃがんで、しばし水琴窟の音色に耳を澄ました。この音色を聴けただけでも、遥々、ここまで来た甲斐があったというものである。法昌院の水琴窟は、お勧めである。
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