平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
島田市の神社 8 牛尾の御嶽神社
干柿が干し上り、干場が空いて来た。さすがにもう渋柿を売るところはないだろうなと思う。
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12月9日、晴れて風も弱く、けれども寒い朝であった。午後は「駿遠の考古学と歴史」講座があるため、遅くとも11時には帰ってこなければならないと思い、朝9時過ぎに、第5回目の島田の神社を巡る散歩に出かけた。前回巡った地図を見ていて、牛尾山の熊野神社の登り口から、少し東へ行った所に、もう一つ神社があることに気付いた。「御嶽神社」と記されていた。今日はまずそこへ行く。前回の帰りに歩いた道を行くのが最短だと思い、その道をたどった。
「御嶽」は「みたけ」と読むのか、「おんたけ」と読むのかによって、神社の性格が違ってくる。御嶽(みたけ)神社といえば、蔵王権現を祭った神社で、金峰神社ともいう。総本社は吉野の金峰山寺の蔵王権現堂である。一方、御嶽(おんたけ)神社といえば、覚明行者、普寛行者が創始した、木曽御嶽信仰に基づく神社である。起源は蔵王権現信仰であるが、別の信仰として分化したものである。牛尾の御嶽神社が、そのどちらになるのか、不明のまま詣でた。
山の麓に鳥居を見つけてそばまで寄った。農機具小屋ほどの簡易な本殿の、引き戸を開けて中を窺ったところ、縦長の提灯に、右に不動明王、左に御嶽大神と書かれていた。「御嶽大神」の4文字で、どうやら、御嶽(おんたけ)神社の方だと確信した。木曽御嶽を根本道場として、覚明行者、普寛行者を開山霊神と仰ぎ、江戸時代中期の天明・寛政年間(1781~1801)を中心として、山岳宗教から村里の布教へと展開して結社された宗派神道である。のちに、幕末、明治期に、熱心な御嶽行者で、神道家の下山応助が、御嶽教として立教、広めたもので、国常立命・大己貴命・少彦名命の三柱を御嶽大神として祭るという。
古文書を読んでいると、山岳で荒行を修めた行者が里に住んで、村人たちの悪霊退散、病気平癒などの祈祷をして活計(たつき)とした話は、あちこちで読んだ。昔、掛川の職場の近所に、修験者の末裔が住んでいて、お宅にお邪魔したことがあった。今は農業だが、家には祈祷所があって、お寺のように飾られていたのを思い出す。社の右側、山からの細い流れに、竹が差し込まれ、その先から一筋の水が落ちていた。わずかな水量であるが、今も滝行が行われるのだろうか。
(平成の瀬替え現場)
新東名の下を潜り、平成の瀬替えの工事現場を見に行った。山を削る工事は終り、今は牛尾山に沿った堤防の工事が進んでいて、来年の3月には工事も完了する予定が看板に書かれていた。
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