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「妙井渡」と「こはま」実地踏査 その2

(二軒屋原から垣間見える大井川)

(昨日の続き)
菊川の里から地元で色尾道と呼ばれる山道をたどり、原に登って茶畑の間を東に向かって歩いた。途中、金谷から大井川を挟んで島田方面も見晴らせる、牧之原公園に立寄った。ここから見る大井川は少し距離があって、「東関紀行」にいう「すながし」という形にはほど遠いと思った。「すながし」に見えるためには、もっと川に近付いて真上から覗く位の視点が必要である。牧之原公園から川下の方に大井川が足元を洗うほどに突き出た地点が見える。もっと東へ進めばそういう場所がありそうだと思った。

茶畑の中をさらに東へ向かう。旧金谷中学跡地を越すと二軒家原である。茶畑の最も北側に付いた農道をひたすらに歩いた。左側は杉檜や椎をはじめとする照葉樹が鬱蒼と茂って、急な崖を覆い、大井川の展望を奪っていた。しかし歩くうちにちらちらと枝分かれした大井川の流れが木間に見える。昔、まだ植樹がされないで、樹木が大きく育っていなかったころは、大井川が眼下に見えていたに違いないと思った。それを眺めて「東関紀行」の筆者は、見下ろす大井川の景色を、まるで「すながし」を見るようだと表現した。それで決まりだと思った。

二軒家原から少し下って、金谷から大井川右岸を登ってくる道、色尾道の通じていた権現原・谷口原を縦断する道、昔馬道と呼ばれた湯日の谷を進む道(湯日街道)、それが交差した変則十字路に至った。湯日の谷を下っていく道を選んで、現在の車道よりも山側の、山すそにあったといわれる馬道に近い道路を歩いてみようと思った。旧集落もその道沿いに点々とある。しばらくその道を歩いてみたが、湯日小学校前で現在の車道に合流した。そのあとバスも通る道を延々と歩いた。時々右手の山上の富士山靜岡空港の発着時の轟音が谷間に響き渡った。色尾の集落は湯日の谷の出口にあった。

左手の山腹に、二つの神社と一つのお寺があり、色尾道と名前が付いたほどだから、何か昔をしのばせるものがあるはずと、それぞれの境内に入ってみた。唯一見つけたのは、桜神社に、西南の役、日清戦争、日露戦争の従軍記念碑があった。それでも自分が求めている時代からすると、極々最近の話である。

色尾から大井川の川原に近い、大柳という所まで行ってみた。その辺りにかつては榛原驛、初倉驛があったというのだが、今は田んぼと畑で農作業をする人たちが見られるだけで、みるべきものはなかった。


(夕暮れの近づく大井川)

夕暮れの近づく大井川を、島田大橋を渡って島田駅まで戻り、電車で帰った。本日の歩数は道草も多かったために、44,765歩、距離にして28km~30km歩いたことになる。目標は軽くオーバーしてしまったが、さすがにこの距離を歩くと疲れた。(次回実地踏査の結論を書く)
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