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「妙井渡」と「こはま」実地踏査 その3

(湧き水から牧之原台地に上がる-「こはま」はこの辺りにあったのではないか?)
(茶園の開墾時に土器や瓦が出たと伝わる)

(前回の続き)
色尾道を実地に踏査して、「妙井渡」と「こはま」がおおよそ推定できた。その結果を論拠とともにまとめておこう。

鎌倉時代に実際に旅をした人の気持になって踏査してみると、机上で考えていたのとはまた違うことが分かる。まずは「海道記」のメインの文は「妙井渡という処の野原を過ぐ」の短いものである。「妙井渡」に湧き水があることはその後の文と和歌で分かる。「妙井渡」は「妙井戸」だとすれば、まさに水場を表わす地名である。「野原」は牧之原台地上であり、そこに湧き水が出る可能性はほとんどない。湧き水が出るのは台地から少し下ったところであろう。

「靜岡県歴史の道 東海道」の説のうち、巌室神社元境内説は色尾道から外れてしまうし、馬道に近い沼伏の鶴ヶ池や、色尾道の終りの大楠神社は、下りにあって「妙井渡という処の野原を過ぐ」という表現にそぐわない。菊川宿方面からの色尾道の登りで、歩いて見つけた牧之原台地の直下にある、この湧き水は「妙井渡」の有力な候補になってくるだろう。

今は湧き出す量も激減し、水質も茶畑の肥料が溶け込んで優良とはいえず、飲料水に使われることはないが、昔からどんな日照りでも枯れることがない湧き水として大事にされてきた。土地の人の話では、この湧き水の近くに「いど沢」と呼ばれる沢があり、この湧き水はどうやら「いど沢」に流れ込んでいるらしい。この湧き水が「妙井渡」の有力な候補と云える理由である。

もう一方の「こはま」については、「東関紀行」のメインの文に「いくほども無く一むらの里あり。こはまとぞいふなる。」とある。「靜岡県歴史の道 東海道」の説によると、「こはま」は「こまは」で「駒場」の意味だろうとする。

「牧之原」にはもともと馬を生産する牧場があった。名前がそこから出ているという。現在、牧之原は南北に拡がる広大な土地を指しているが、往時はおそらく色尾道に沿った台地を示す地名だったと思う。馬の生産は交通の便利な街道沿いに設けるほうが何かと便利だったはずである。

「こはま(駒場)」の一むらの里は、牧之原台地上のどこかにあり、馬の生産を生業としていた。牧之原直下の湧き水を利用できるところと考えれば、「駒場」は牧之原台地に登った辺りにあったと考えたい。その辺りで茶畑の開墾時に土器や瓦などが出たと土地の人が話していた。その辺に村があれば、湧き水も利用できる。

大井川が「すながし」に見えるには、大井川を直下に見下ろすような場所が必要だが、駒場の東のはて、二軒屋原まで行くとそんな風に見下ろせそうである。つまり、「こはま」については歩いてみた結果、有力説でほぼ間違いないだろうと思った。

最後に、鎌倉時代の旅人になって、この色尾道を旅してみよう。

菊川宿を出て菊川を渡り、色尾に通じる街道はやがて牧之原に登っていく。牧之原台地に登りつく直前に、草の斜面の根元から、滾々と清水が湧き出してところがあり、旅人の喉を潤すとともに、すぐ上の集落の飲み水になり、牧之原で飼われる馬たちの水呑場となっている。土地の人は「妙井渡」と呼んで、どんな日照りでも涸れることがないこの水場を大切に守っている。

牧之原台地に登るとすぐに「駒場」という集落があり、馬の生産を生業としている。駒場を抜けると延々と台地上に野原が続き、所々で放牧された馬たちが草を食んでいる。この台地を横切った東の果て(二軒屋原)から、すぐ直下を流れる大井川が眺望できて、さながら「すながし」を見るようであった。

色尾道は少し下って、権現原、谷口原と過ぎ、台地が尽きるところから色尾の集落に下る。その後、街道は初倉驛を過ぎて大井川を渡る。
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