平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「ゼロ発信」はブログの先駆け
赤瀬川原平著「ゼロ発信」を読んだ。
2000年問題が騒がれた2000年の1月から半年間、読売新聞に連載された新聞小説を単行本化した本である。読売新聞は何年来毎日見ているはずだったが、「ゼロ発信」の連載には気付かなかった。著者は小説と言っているが、日記のような、身辺雑記のような、今の人にはブログのようなと言った方が理解が早いだろう。一日1200字ほどで、一週間分をまとめて渡すというから、いわば一週間遅れのブログである。この「かさぶた日録」も毎日1000字を越すことを目標にしているから、量的には同じぐらいであろうか。
赤瀬川氏は年齢的にパソコンを使う世代ではない。しかし見事にブログが果す役割を先取りしていたように思った。ネタは著者の当時の活動の中心課題であった、路上観察、老人力、ライカ同盟、日本美術応援団、身辺ネタでは愛犬ニナ、愛猫ミヨなどペット話題、尾骶骨の怪我、出版トラブル等。どこが小説なのだと思うが、出てくる固有名詞が、M伸坊さん、Y売新聞社、K談社、P-クタワーなど、一応仮名だから、小説だと言う。「ゼロ発信」を見て見舞いの電話が来るなどと、抜け抜けとネタにしている点など、人を食った話である。氏に言わせるとたとえ事実を描写したものでも、一週間置くと小説になるらしい。あたかも熟成するように。
「かさぶた日録」も仮名にしている点から言えば小説なのかもしれない。なかったことは書いていない積りだが、意識的に書かないことはたくさんある。そこに創作意図があるといえばその通りかもしれない。そういえば最近小難しい内容が多くて読めないと女房が言う。本人は新しく知った知識を得々と書いているのだが、見る人には確かにえらい迷惑なことであろう。自分が認識したことを書き記すのが、このブログの本来の目的なのでご勘弁願いたい。
「ゼロ発信」は毎朝読んで、頭をゼロクリアして出勤しているという読者の反応には、なるほどと思った。いずれも、浮世離れした毎日の話に、ほんの一時でも現実から離れて気持を遊ばせることは大きな癒しになるのだろう。それはプロの物書きとしての赤瀬川氏だからできることなのだろう。「かさぶた日録」も、浮世離れはしているけれど、毎日見て(読んでる人は少ないだろう)くれる200人のうち、一時でも癒しを感じる人があるのだろうか。
「ゼロ発信」でもっとも読者からの反響が大きかったのは、愛犬、愛猫のペットネタだったという。何となく頷ける。当時、半年で終ったことを惜しむ声も多かったという。著者に言わせれば半年で十分だというだろう。締め切りに追いかけられた半年だったようだ。「かさぶた日録」を4年も続けている気が知れないといわれるかもしれない。しかし、今のところ終わりにするきっかけがない。当分無さそうである。
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