河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2536- マーラー10番アダージョ、ブルックナー9番、ノット、東響、2018.4.15

2018-04-15 18:44:56 | コンサート

2018年4月15日(日) 2:00-4:15pm ミューザ川崎

マーラー 交響曲第10番嬰へ長調から、アダージョ(ラッツ校訂版) 29

Int

ブルックナー 交響曲第9番ニ短調WAB109 (コールス校訂版) 27-11-25

ジョナサン・ノット 指揮 東京交響楽団


双方、たとえ相似形のメロディーラインのようなものがあったとしても、この究極のプログラム・ビルディングというのは内容同士の引きつけあい、並べることによる干渉の作用といったことよりも、未完―未完、のコンビネーション趣向の妙を狙ったもののように聴こえてくる。また、未完成作品が完成した時のイメージの膨らみをもたらすようなものではなくて、こうやって聴いてみるとノットの意思はそれぞれ完成作品のような佇まいでしたね。つまり、今日のマーラーアダージョを仮に、別作曲家の作品とカップリングした演奏会としたとしても、今日と同じ解釈、表現になっていたと思う。ブルックナーも同じ。
まあ、聴いた後で思った話ではあるのだが。


マーラーアダージョはねじれた歌のような主題が提示部で二つ、再現部で同じく出現。ここらあたりはメリハリよくわかるのだが、全体的にはかすんだような響きの印象で、暗中模索のミュージック。
ノット東響のコンビはハイテンションで充実した演奏で、妙に気張ったところが無くてノットの意思がストレートに表現されていく。濃い、というのはどういうことだろうとふと考えるのは、今日の演奏自体非常にゆっくりしたもので、またやみくもな激圧でもなくて、引き延ばされていくような感じ。なのだが、薄口ではなくて、濃い。音楽的充実度と演奏の充実感のもたらすところのものだろうか。宇宙遊泳しているがコスモス空間に隙間は無い。
音楽の着地ポイントをノットは初めから見据えているのだろうと思う。聴き進めるうちに、先にありそうな着地ポイントに近づくにつれ音楽は溶解して消えていくようだ。このアダージョ楽章は溶けて無くなる。まさに、響きの世界、パーフェクトなコンプリート作品と聴こえてくる。完成品でした。これまで割とノットを聴いていて、こういった表現が多く有ったなと思わず一人でうなずく。なるほど。

それから、東響の充実した演奏の頂点は再現部にあるブラスセクションによる突然のコラールへの入り。すーっ、ズッシーン。言葉にならない。柔らかく生き物のような響き合い。鉄板に壁ドンの世界とは真逆。実に素晴らしいアンサンブルアタックでした。昨年の川崎祭りでのハルサイの充実した演奏を思い出しますね。

2387- 浄夜、ハルサイ、ノット、東響、2017.7.22 

とにもかくにも、このコラールの見事さというのは、普段比べるのは第一義的な是とはしていないのですけれども、この国にこのような音を出せるオケは他にない。イエローサウンド最高潮の瞬間でした。

Ab9 duration
Ⅰ 5-4-4-t7-0-2-2-c3
Ⅱ 4-3-4
Ⅲ 4-4-6-7-c4

1時間超えのブルックナー、やにっこいのはニ短調と大体勝手に普段から思っているし、長いのがさらに長く感じるのが定番。それでも、最後の吹き抜けるような音楽に達すればいいのにこの曲は途中で終わってしまう。そこに一つの美学がありそうと思うのはなにも日本人だけとは限らない。終楽章があればさらなる妄想が闇の中を闊歩するのかもしれない。そのようなイメージの膨らみを断つかのようなノットの3楽章でコンプリートにした演奏。

割と自由なフォルムの9番、再現部第1主題はdurationのsplitを0としました。ここらへん作品がウルトラな溶解を魅せていますね。
巨大な第1楽章でした。主題を逐次追っていけばさっと終わるブルックナーなれども、今日のノット東響の演奏はデカかった。ノットの構築感は縦・横がっしり派というよりも、斜めにゆがんでいくようなところがあって、それがそれが、あまりの説得力に、実は空間の方がゆがんでいるのではないのかという不思議なディストーションを魅せてくれる(大体いつも)。
入念に磨かれた主題、奏する東響の音響美、やにっこさを越えたニ短調でしたね。お見事な演奏。

東響の見事さはスケルツォ楽章でもずぬけている。目に焼きつくのは弦セクションの全プルトが同じような猛弾きに徹していること。音圧の幅がでこぼこせずフラット、横広に迫力あるサウンドを堪能できる。ウィンドハーモニーの厚みと広さ、ブラスセクションのマッシヴな鳴り、ティンパニのやや早めの打撃ポイント、等々、なんだか、全てが決まりまくっているのだ。決まっているときの迫力というのは、その音の絨毯の上にこちらが乗っかっていってしまいそう、宇宙ロケットに乗っているような重さを感じさせない感覚、ですな。

アダージョ楽章は自由に楽想をなぞりながら聴く。ここでもノット空間はゆがむ。息の長い主題を丹精込めてコクのあるものとしてひとつひとつ進めていく。境目の強調は無い。この楽章で終わりをむかえるのかといった一種ロマンティックな情緒的こだわりの音楽表現ではない。ペシミスティックなものは追い求めてもいない。
崩れてしまいそうな自由な形式をその通りに進めていくうちにノットの棒は少しずつ息が長くなる。このまま溶解するように消えていくのかと思われた、3楽章まででコンプリートな作品ととらえていると思われたが、コーダで少し持ち直し、テンポに平衡感覚が戻り、唯ひとつ、ここは、この先がありそうだとかすかに思わせながらすっきりとエンディングした。巨大な作品の聴後感というのは、なにやら、放り出されたような状態になった。これはこれで見事なもの。

ふと、このコンビ、いつかきっと、マーラー10番全曲版、ブルックナー9番全曲版、やってくれるだろうね、と、電気が走った。
おわり

 


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