河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

936- シャルル・デュトワ N響 2009.12.5

2009-12-06 17:29:13 | インポート

2009-2010シーズン聴いたコンサート見たオペラより

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2009125()6:00pm

NHKホール

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ストラヴィンスキー/アゴン

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ショスタコーヴィッチ/ピアノ協奏曲第2

 ピアノ、キリル・ゲルシュタイン

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シュトラウス/ドン・キホーテ

 チェロ、ゴーティエ・カプソン

 ヴィオラ、店村眞積

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シャルル・デュトワ 指揮 NHK交響楽団

デュトワ、1シーズンぶりのN響定期登場。お得意の3曲プログラム。

今日はソリスト3人の演奏を堪能できた。それとともにN響のレベルの高さもあらためて実感。後半のドン・キホーテでは、チェロの響き、ヴィオラの艶、N響の合奏力、アンサンブルの見事さにほれぼれ。ばかでかいホールだが、合いさえすれば響きが透る。

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ドン・キホーテの演奏に接するのは確か、ダニエル・バレンボイム指揮のベルリン国立歌劇場だかシカゴ交響楽団だかどっちか忘れたが、とにかくそれ以来だと思う。難曲だ。

日本人演奏家の固有名詞にはあまり関心がないが、ヴィオラの店村は以前いた読響で協奏曲を弾くのを聴いて以来印象にある。ほどなくN響に移ったこともわりと記憶に残っている。

太くて奥深く、艶があり、なにしろヴィオラの存在感を示してくれる。このような奏者がいればオーケストラのヴィオラ・セクションにとどまらず弦の合奏は一層引き締まり緊密度を増してくるのだろう。

チェロのカプソンは大きな音で大きくうねりを作り歌う。ヴィオラに負けじとなっているようにも見えるが余裕ではある。

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ミゲル・デ・セルバンテスのドン・キホーテを題材にしている曲だが、それ自体読んだことがない。ここはプログラムの解説があれば便利だが、当日のプログラムには概要が載っているだけだ。冊子フィルハーモニーを会員でない人は買わなければならないが、これに譜面付きで詳しく載っている。

曲は11曲からなる変奏曲。題材の内容に沿った形であり、ドン・キホーテとサンチョ・パンサ、精神の闇、また旅のエピソード。変奏曲という構成はつながりがわかっていいと思う。流れに親近性が出てくるので正解だと感じる。どこまでも変奏の繰り返しではあるのだが、シュトラウスの技は面白すぎるくらい鮮やかで見事なタッチ。全く飽きのこないものだ。

やるほうは大変だと思う。ソリストたちもさることながら、冒頭のフルート、オーボエの軽快な響きから始めて、最後までアンサンブルのかたまりだ。結果的には分解して散らばっていかず中心に寄ってくるような合奏力、それにウィンドをはじめとするアンサンブルのバランスの良さが在京の他のオーケストラのレベルを圧していることが証明された。

今日の演奏ではさらに、ブラスなども刻みが正確というか全て万遍なく丁寧に演奏されていて、背中まで手の届いた非常に緻密なアンサンブル。これら正確性の積み重ねがある種、緊密度を高めていたようだ。これは指揮者の才覚によるところが大きい。ひとつバランスを失ったら立ち直るまで時間のかかりそうな曲だけにみんな集中力が並外れて高かった。テンションの高さが変な緊張感にならず能力のフル発揮につながるのはこれまたデュトワの棒だろう。

ブラスはトランペットの高音ピアニシモをはじめとして、全般にピアニシモのバランス・ハーモニーがきついところではあるが、心地よい緊張感でお見事。また編成はかなりでかいのだが、ときに薄められたバランスとフォルテの響きが錯綜していて聴いている方は面白い。ホルンは6本、テナーチューバのソロも活躍。ウィンドマシーンを筆頭にパーカッションの多彩さには耳をみはる。

最後の変奏のエンディングのピアニシモとそれに続くゲネラル・パウゼ風の拍手までの空白も余韻に浸るに十分。まるで小説を読み終えてストーリーを全部思い起こさせるような、あっけにとられたような、そんな雰囲気を醸し出していた。

前半2曲目のショスタコーヴィッチには、キリル・ゲルシュタインというピアニストが登場。デュトワより背が高く、2人で歩く姿は迫力あるなぁ。

ゲルシュタインというピアニストは初めて聴く。プログラムの紹介には、今多忙を極める若手のひとりとある。歯切れがよくスパッと弾き切る。

このショスタコの2番のピアノ協奏曲は個人的には諧謔の極みのように聴こえる。自身の祝典序曲のような第1楽章終結部。第2楽章は濃厚でこれ以上ないロマンティシズムのピアノが聴ける。あっけにとられてしまうような時代錯誤のように聴こえて思わずニヤッとしたくなる。息子のマキシム・ショスタコーヴィッチがピアノを受け持って1957年に初演された曲。ブラスはなし。(ホルンはある)

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1楽章2主題あたりからピアノを弾く腕がトリッキーになってきて観ている方もなにやら面白いなぁ、などと観る方聴く方両方楽しめる。作曲家特有のリズムの回転が始まり祝典序曲モードになりそのままストンと終了。ピアノの腕の魅せどころ。

続く第2楽章は1957年の作曲年次を100年ぐらい戻したくなるようなあまりにも濃厚でムンムンなフレーズが続く。マキシムよ。原点を探すのだ。と言っているのだろうか。

1楽章の動き、その反作用的第2楽章、生で観ているとその面白さが倍増する。

3楽章はアタッカではじまり、また祝典序曲モード。第6番の交響曲第3楽章のような感じもしなくはないが、ここはやっぱり祝典序曲の三拍子のファンファーレ以外の部分とそっくりだ。(河童蔵のCDでおもしろい組み合わせのものがあるので次回のブログで紹介。)

デュトワの棒は、速度を落とすことなく突き進む。突き進むのはいつもなら少し重いN響なのだが、今日はデュトワの棒さばきに乗せられて、弦の後拍もうまくそろってしまったようだ。

ピアノのサウンドがクリスタルな打楽器のような響きになるのはショスタコーヴィッチ特有なもの。鍵盤が垂直に軽やかに彫られる。ゲルシュタインの歯切れの良さは第2楽章の一見無機的なロマンティシズムでも息が途切れることなく緊張感が持続していて見事。

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最初の曲アゴン。

コンセプトといった意味のようだが誰にもとっつきにくい曲だと思う。解説を読んでも曲と結びつかない。バレエの伴奏にとどまるのかもしれない。

おわり

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