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昨日の続きです。
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初来日したレニングラード歌劇場公演の二日目に潜入してみました。
演目は初日と同じボリス。
ロシアの古典です。
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1991年11月14日(木)18:00
東京文化会館
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ムソルグスキー/ボリス・ゴドゥノフ
(全2幕 95分 60分)
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演出 スタニスラフ・ガウダシンスキー
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ボリス・ゴドゥノフ/ウラジーミル・ヴァネーエフ
フョードル/ユーリア・ゲルツェヴァ
クセーニャ/タチヤーナ・ドムニーコヴァ
乳母/マイヤ・クズネツォーヴァ
シューイスキイ公/ヴィクトル・ルキヤーノフ
ピーメン/ウラジーミル・プルートニコフ
シチェルカーノフ/アレクサンドル・ネナドフスキー
グリゴーリイ/ウラジーミル・シチェルバコーフ
マリーナ/ニーナ・ロマーノヴァ
ランゴーニ/ニコライ・ログビーノフ
ヴァルラアーム/ヴァレーリー・コチキン
ミサイル/ヴァレンチン・シエヴェレフ
宿屋の女主人/ニーナ・ポターシェヴァ
聖愚者/ニコライ・オストロフスキー
役人ニキーチチ/セルゲイ・サフェーニン
ミチュハ/イゴーリ/サムーロフ
側近の大貴族/ヴァレーリー・コルジェンスキー
貴族フルシチョーフ/ゲルマン・リュチコ
居酒屋の警察官/カレン・アーコポフ
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指揮:ウラジミール・ジーヴァ
レニングラード国立歌劇場
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以上、キャストで知っている人は一人もいなかった。
ダブルキャスト、トリプルキャストを組んで万全の体制であるが、どっちにしろ誰も知らない。
国際的な歌い手はいないのであろうか。
それとも聴き手の単なる無知?
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この公演でよく覚えているのは、前列ど真ん中に陣取った河童であったが、第1幕第2場の戴冠式の場面で、幕があがるなり風の向き、空気の流れが客席のほうに向かってくるのだが、その空気の流れに乗って思いっきりカビ臭い匂いがいたたまれないほど強烈に吹きこんでくるのであった。
ツアー用の道具だと思うのだが、ツアーを何年もやっていないわけではなく、また、ぶっつけ本番で広げた舞台装置であるわけでもないと思うのだが、とにかく強烈なカビ臭が全身にぶち当たる。
換気の悪い焼肉屋に行ってスーツの覚悟を決めるような趣きであった。。
歌のドラマが始まると吸引力の強いボリスの世界に引き寄せられ匂いのことはじきに忘れてしまったが、鼻にはあとあとまでカビがついていたようだ。
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オーケストラの音はボリショイとはかなり違う。
ボリショイの重心の低いヘヴィー級のサウンドではなく、むしろ線が細いとさえ思わせるようなスタイリッシュなブラスであり、アンサンブルの密度が濃く、音が敷き詰められており空虚な穴がない。
弦も同様で動きが素早く機能的な感じだ。
土着のモスクワ、洗練のレニングラード、といったところか。
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幕は全9幕を5+4の2幕構成にしたもの。ムソルグスキーのオリジナル・オーケストレーション。但し省略、カットが多く、トータル時間は短い。
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ボリスの世界は一回はまったらもうのがれることは出来ない。
ブラックホールの中心に向かうようなストーリーの厚み、ロシア長編小説そのまんま。
映画だと、惑星ソラリス、の世界だなぁ。
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権力者の心理描写に意味があるかといえばおおいにある。
彼も苦しみ、その心の動きを全く独自の音楽で覆い尽くす。超ユニークなムソルグスキーの世界がここに展開される。
ボリスこそ観て聴かなければならない。
苦しむボリス。
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そんななか、第1幕4場の旅籠でのやりとりはものすごい迫力の音楽の動きとともに軽い笑いが印象的だ。このような音楽こそムソルグスキーしかなしえなかった技であろう。
第2幕第1場のマリーナとグリゴーリイの愛の二重唱は、どうも男のほうのひ弱さが前面に出てくる感じがあり、やわな男としっかり女の二重唱といった印象があるのだが、それでも唯一光がのぞく場面であり久しぶりの日光浴といった感じ。
あと、個人的にはピーメンにあまり重心は置かずに聴く。
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ボリスは権力に苦しみ、死ぬ直前、息子のフィヨードルにその権力を移譲する。
しかし、それをシュイスキイがさえぎる。幕。
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このあとどうなるのであろうか?
権力の苦しみは普遍的なものとなり、果てしもなく続いていく。
このオペラはそのようなオペラ、ムソルグスキー独自の音楽表現オペラ、作品の穴をものともせず心の慟哭のストーリーが進んでいく。
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ということで、ドラマチックなオペラの断片が記憶の彼方からエコーするだけとなってしまったが、ロシアの深いオペラは味わえば味わうほどもう一度観たくなる。
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続く