河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1475- 揺れゼロ、見事な演奏!ブルックナー5番、クリスティアン・アルミンク、新日フィル2013.4.11

2013-04-13 01:15:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2012-2013シーズン
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2013年4月11日(木)7:15pm
サントリーホール
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ブルックナー 交響曲第5番 (1951年ノヴァーク版)
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クリスティアン・アルミンク指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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第1楽章 20分
第2楽章 22分
第3楽章 13分
第4楽章 26分
Gp 約20秒

かなり長い空白の後の、ご近所の第一声はブラボーではなくしゃみだったのではないか。(私ではない、)
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アルミンクの肩の力が抜けた安定感のあるテンポの中に力強さが垣間見える、ゲネラルパウゼの間も棒を振りぬいていて速度の一貫性が強い意志を感じさせる、剛直さの中にあっても気張らないで、良い建物を造ってもらいました。ブルックナー久々の好演を聴き楽しむことが出来ました。インテンポの美学です。
このような揺れ動きのないテンポはハーモニーの重なりや膨らみ、音色色彩の変化を明確に感じさせ、ソロインストゥルメントのピアニシモから全ブラスの強奏に至るダイナミックレンジの周波数さえ形式感の中に埋め込ませる。経過句も昨今流行りの意味のない引き伸ばしは全くしない。そのようなことはブルックナーにおいては形式の破壊しか生まないという認識。
音楽のウェットな香りというよりも、幾何学的な構造物をまるでジャングルジムをこちらから見ているような透明感、そんな感覚に襲われる。3主題ソナタ形式は5番でギリギリ明確、でも実は強固な骨組みであったということを指揮者はあらためて教えてくれました。
見た目、しなってますが、インテンポを貫く強い意志は明白で、オーケストラも曲想につられることなくしっかりとした足取り、アルミンクの強力なコントロールがあったのでしょう。
アルミンクの棒はマーラー演奏とは異なり、なにか生まれたときからブルックナー・チップが埋め込まれていたような自然なもの。チップが無くても偉大な演奏を達成できる日がくるであろうことは間違いないと思います。
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第1楽章の提示部の3主題一束、同じ楽章再現部の3主題一束、再現部の最後はコーダへ突入するので少し変形しますけれど、この提示部と再現部の非常に細かいところ(例えばピチカート1個のポン)まで、ほぼニアリーイコール的意識下の表現。
再現部というあとでやってくる部分の親近性の感覚は時間的経過からすれば、時は過ぎゆくで、把握しづらくもあります。が、このような曲では時間的経過による過ぎ去りしものを把握する必要がある。時間軸を取り払ったような聴き方も必要な時があるのではないか。絵の鑑賞と少し異なるのが時間軸のある音楽なのでしょうが、一度、絵の鑑賞のように見る努力。これ、見えなかったものが見えてくる。かなりのコンセントレーションが必要なのも事実。でも、のど元過ぎれば、これもまた楽し。といった部分もあります。
アルミンクのこの対称性は西洋美学そのものだと思います、ただ、それをそのように表現できるのは時間軸のあるブツであるため、簡単な話ではない。割と曲想に乗った総崩れ的演奏が日本人指揮者に多いのは美学が対称性を求めない(拒む)ようなチップが埋め込まれているからという可能性も否定できません。総崩れは地震の歴史と同じで、何度も崩れるんだから木造でいいのではないかという文化。なんだかそれと似ている。総崩れは崩壊ではなく非対称大好き日本的美学だと。これでブルックナーをやられると、個人的には鉄筋コンクリートか、分度器もって、幾何学求む、みたいな世界にしてくれ。と飽くまでも個人的な好みではあるのですが。
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アルミンクの形式に対する強固な姿勢は端ばしにでてきます。第2,3主題に耳を傾けると、第1主題の主旋律だったものを、かなり強烈に(聴き手がだまっていても意識できるぐらい)強調する。コントラバスなんか、こぼれんばかりの大胆さで。
つまり、アルミンクの力学では、それぞれの主題の関連、緊密性、そしてその束である主題のまとまり毎の緊密性まで意識して表現している。例えばチャリのスポークは部品でありスポークがまとまりタイヤを支えてもそれ自体まだ部品、全体フレームを作って組み立てて一個のチャリになる、そんな感じです。もちろん、ブルックナーの曲はそういう曲なので地に根ざした発想はベクトル方向が同じであれば、そんなにもがかなくても可能ではあると思います。
アルミンクの棒はブルックナーの意に沿った美学の表現だったと思います。
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アルミンクの振りは、たたきつけたりしゃくりあげたりで、見た目、一貫性がない。名ばかり音楽監督という全世界的な潮流ですから、ミュージック・ディレクターといった名前を拝命していてもシーズン何回かしか振らない。見本がN響でしたけれど、どこのオケでも似たようなもの。このような流れの中で一見、一貫性のない振りは、不利、だと思います。
ブルックナーで味わうゲネラルパウゼの後のフル強奏における美しい縦ラインは練習からしか生まれない。指揮者さえコントロールしてしまうウィーン・フィルとかベルリン・フィルとの違いはこうゆうところに如実にあらわれてしまう。
ですから、腰を落ち着ける、これ大事なんです。
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5番の第4楽章フィナーレの序奏は一聴するとちっぽけなものです、ベートーヴェン第九の第4楽章の萌芽のようにはじまります。ただし第九と異なり、前楽章の否定はない。前にあったものを思い出させながら進む、一番極端な例が8番のコーダで突如現れる全ての旋律、その発想に戦慄が背筋をはしる。時間的経過を排してそれまでの事象(旋律)を全部覚えておけば、一大伽藍の構築物に身震いする。吉田秀和の名解説が今でも忘れられません、あのように音楽を言葉で表現できた氏は素晴らしかった。
それで、5番のこの思いだし回路、鉄筋コンクリートで出来上がりつつあるものをさらに瞬間接着剤でボンディングする。もう、離れられないのです。ブルックナーの場合、後押し的強化構造。ベートーヴェンの勝利への行進とは違います。
アルミンクのこのちっぽけなものの表現も悟った様な丁寧さで、粗末な扱いは全く無し。
序奏から提示部への弦の滑り込みがやや急いだ感がありましたけれど、すぐにインテンポに戻りました。ここらへんになると、プレイヤーの方も理解が進んでいるので指揮者のコントロールが乱れてもすぐに立て直す。自発的な表現といった具合です。音楽が一段と活きてきます。
この第4楽章は心地よい満腹感。これでもかのブルックナーの強烈フル強奏の建屋に圧倒されました。
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第2,3楽章はリズムの相似性から連続して演奏されるケースがあります。アルミンクの美学からしたらたぶんそうはならないだろうと。4つの楽章が美術館の壁に、4フレーム個別に鎮座しなければならない。そして、どの一つが欠けてもダメ。そうゆうことでした。
おわり


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