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演奏会の合間に昔の演奏会のことを書いてます。
今書いているのは1983-1984シーズン、観たオペラ、聴いたオーケストラのことです。
このシーズン、またその前後は、ほとんどがニューヨーク・フィルハーモニックとメトロポリタン・オペラハウスのことだらけです。シーズン・サブスクライバーで、狂い聴き、狂い観、といったところでしょうか。
それでは、今日はこれです。
ブラームスのソロのディクテロウはこのオーケストラのコンマスです。
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1984年2月9日(木)8:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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第10,451回公演
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ハイドン/交響曲第104番 ロンドン
ベルク/3つの管弦楽小品
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ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン、グレン・ディクテロウ
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ズービン・メータ指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
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WQXR-FM 1984.6.3 at 3:05pm放送予定
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この前のハーグ・フィルの演奏と比べてみると、うまいへたは別にして、違い、その質の違いというものを感じないわけにはいかない。
例えば、メータの棒でこのようなハイドンを聴いていると、いったいこれが的確なテンポなのかどうかわからなくなることがある。別に極端に速いテンポやおそいテンポで奇をてらうような演奏をおこなっているわけではないのだが、どうも気持が落ち着くといったテンポではないような気がしてならない。全4楽章が終わった後のその造型というものを思い出してみてもどうも散漫であり、音楽が正しく確立されていない不安感をいだく。
ブラームスでもやはり同じようなことを強く感じるのだが、メータはまだここ(NYP)を土台とか足場のように考えているようであり、自分が過渡期にあるのを意識しているようでさえある。
例えば、ヨーロッパのオーケストラを彼が振った場合、結果は違ったものになっているかもしれないし、それらは毎年夏のヨーロッパの音楽祭などにおける演奏会の実況録音を聴いてもある程度は感じられることなのだ。
ブラームスのこのようなほとんどシンフォニーとでも呼べばよいような協奏曲に立ち向かうとき、お互いに問題意識がなければ、それなりにそれこそ何の問題もなく音楽は進むのであろうが、今日みたいにこちら側にそれなりの問題意識があるときには、このようなありきたりの演奏では物足りないのだ。もっと中身の濃い演奏が欲しいときがある。中身とはなんだろう。それはこの前のハーグ・フィルが図らずも示してくれた。
おわり
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難しい言葉が好きなドナル・ヘナハンの評がいつもどおりニューヨーク・タイムズに掲載された。
ディクテロウに対しては、コンマスにありがちな、安住の地があるばかりに目的、情熱がないような演奏が多い中、彼はそのようなことがない演奏を行ったとしている。
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