河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

707-フォンク ハーグ・フィル 1984.2.6

2008-11-04 00:10:00 | 音楽

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ハロウィンがらみの3連休が終わったところで、また昔のコンサートのことを書いてみます。

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1983-1984シーズンの聴いたコンサートから。

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198426()8:00pm

エイヴリー・フィッシャー・ホール

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グレイト・パフォーマー・シリーズ

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フォーレ/ペレアスとメリザンド、組曲

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3

 ピアノ、ジョン・ブロウニング

シューマン/交響曲第2

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ハンス・フォンク 指揮

ハーグpo.

グレイト・パフォーマー・シリーズというのは、主に外国のオーケストラの公演をシリーズにしたもの。

ハーグ・フィルと言えば、その昔、コンサート・ホール・レーベルから出ていたLPを思い出す。

ブルックナー/交響曲第7

カール・シューリヒト指揮

ハーグ・フィル

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痩せた録音ながらダイレクトにつかんだ硬めの音質はその録音のせいばかりともいえなかったであろう。

演奏は味わい深いもので聴くほうも噛みしめて踏みしめて聴いた記憶がある。

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この日のフォンクの棒による来紐公演はどうであったのか。

なぜか忘れていたものを思い出したような気がした。それも素朴さとか郷愁とかではなく、なにかもっと別のもの。

例えば演奏すること自体に音楽の表現語法というものがあるとすれば、まさしくそれを思い出したような気がする。

ニューヨーク・フィルハーモニックやフィラデルフィア管などアメリカのオーケストラ表現との、そのなんという大きな違い。表現方法が100違っていたように思う。

コントラバスが波を打ったように歌う様。

管楽器における独特のアクセント。

弦の要所を押さえた演奏。

ヨーロッパの土地に根差した演奏の表現語法のように思える。

あれだけ達者な奏者の塊であるフィラデルフィア管でさえこのような演奏を行うことはできないような気がする。これは根から発した相違である。

たしかにハーグ・フィルは決して感嘆するようなうまいオーケストラではないが、それを補って余りあるシューマンの表現力を持っている。

シューマンは名演であった。

特に第1楽章、第2楽章の波打つ表現力はあの「ライン」さえ越えて「エロイカ」のように響いた。

これは指揮者についてもいえることで、第1楽章後半の即興とも思えるような表現にはいたく感動した。第1楽章が角度45度の登り坂のようにだんだんと熱くなっていく様は、さながらブラームスの第1番第4楽章の雰囲気であり、また金管のほとんどヨーロッパ的!とでもいうべきアウフタクト時の迫力ある演奏は「エロイカ」そのものである。

2楽章も第1楽章の続きみたいなもので、たたみこむ激しさがある。このスケルツォの後半に例の第1楽章の金管のファンファーレがでてきてようやくここまで終わる。ここまで非常な激しさであるが、決してはめがはずれないのは奏者のシューマンに対する深い理解があるからとしかいいようがない。

ひとつ例をあげれば、あのシューマンの激しい小刻みな音型のなかにあって、フルートが必死になってメロディーをあわせながら歌おうとしているその姿を見るだけで、我々は納得できるのではないだろうか。

この指揮者ともどもシューマンの良さも久しぶりに思い出したような気がする。

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しかし、マンハッタン人にとっては第3楽章は退屈極まりないものになるであろうことは聴く前から予想していたことだ。

日本人は普段からヨーロッパ指向の解釈を多く聴いていて、またそれに好意的であるからこのように深く沈みこむような音楽も感じとることができるのだがアメリカ人は日常の落ち着きのなさがここでも必ずと言っていいほど出てきて、聴いていて不愉快になる。思考することに対するある一面が埋没しているのかしら。(注:当時の文章にかなり手を加えたがまだひどいもの言いだね)

彼らにとってこのようにリズム感が表立ってこない楽章は苦痛であり、聴いていて何も得られず、本当に早く過ぎ去ってしまわないかなあと思っているに違いない。いつも思うこっとだが、アメリカ人は日本人に比べて動物的なような気がしてならない。

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4楽章もあいかわらずシューマン流の小刻みな音型による激しい音楽だが、やっぱり違っている。明らかに違うと思う。主題から主題に移るちょっとしたフレーズにさえ歌がある。音が生き生きと生きている。

そして最後に今まで溜めておいた金管はただ一度だけ光を発すれば良いということを、そしてそれが最も効果的であるということを、彼らは指揮者ともども完全に理解している。これはシューマンの光であり、ヨーロッパの光そのものである。

私はとりもどしたような気がする。

ベートーヴェンは、比較的早めのテンポであり、指揮者が弱音をコントロールしているのに比べてピアノはまるでオルガンのように平板に弾いていた。ベートーヴェンというよりもハイドンみたいな雰囲気であり、平然としていた。

おわり。

後日ニューヨーク・タイムズに評を書いたのは辛口ドナル・ヘナハン。評の半分以上をピアニストのジョン・ブロウニングにさいている。

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