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久しぶりに満を持していない演奏にであった。ブログを書く時の楽しみの一つは、最後にタイトルをいれるとき。でも今日は最初にタイトルが浮かんだ。
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2008年12月26日(金)7:00pm
NHKホール
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ベートーヴェン/交響曲第9番
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ソプラノ、横山恵子
メゾ、加納悦子
テノール、ウォルター・プランテ
バリトン、甲斐栄次郎
合唱、国立音楽大学
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指揮レナード・スラットキン
NHK交響楽団
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四半世紀前に、当時アメリカのビッグファイブの一角を崩しにかかった高性能オケだったセントルイス交響楽団をドライブしていたのは、今は特に上半身が昔とは似ても似つかなくなってしまったレナード・スラットキン、彼の棒に今日の演奏の責任があるというのはあまりにも酷というものだろう。
演奏の良し悪しは横に置くとしても評に値する演奏ではない。
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ホルン4本+1であとはオースドックスな2管。弦も少なく、かといってピリオド風な装いもなくいたってこじんまりとした音のサイズであり、これがスラットキンの目指したものなのかどうかよくわからないが、これはこれでいい。ばかでかいこのホールに合わないだけの話だ。
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それにしてもこのやる気のない演奏はどうだろう。個々人のプレイヤーはそれなりにみんなその気になってやっているのだろうが。いつものN響の姿が全く見えない。
総体としてのN響の響きはどこへ飛んでいってしまったのだろうか。これだとただ単に年末恒例第九行事、パンフレットを配ってしまったので演奏会をひらく、みたいな本末転倒な出来事だ。
N響の響き、イディオムが普段あるとしたら今日の演奏にはそれは全く感じられない。4+1ならんだホルンは全員トラだろうか。別に悪いことではない。
濃淡のないフラットな響きが、第九ではむしろ3番にトップをもってきているような感覚はわからないでもないが、空しく響く。プレイ・ミュージックはどこへ。
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別に1シーズン1回このときだけ演奏を聴きに来るような人たちにはこの演奏でいい。前の席でねっころがっていて歓喜の歌のところでむっくりと起き上がるようなオヤジ連中は音楽という文化を育てる聴衆ではないので、妙に邪魔な視覚以外全部無視できるものであるが、それにしても、だ。ゴー・ホーム。。
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今日の唯一の救いはチャリティー・コンサートであったことか。2枚で26,000円に値する演奏には限りなくほど遠いものであったが、チャリティーなので何かしらの役にはったのだろう。この意味で聴衆の心が安らぐというのは、本末転倒というより、それ以下、いや、それ未満、企画者も演奏家もしっかり自覚していただきたい。
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付け加えるならば、この粗末なプログラムは何だろう。
まともな曲の解説が載っていない。解説も違和感のある人物というわけではないが、ふさわしい人間がいるだろう。
メンバー表もなくかわりにコーポレイト・メンバーがでかでかと載っている。別に悪いことではない、チャリティーだし、でもこんな頁、誰もみない。。
おわり
僕が最後に第九を聴いたのは、朝比奈隆が亡くなった年の大フィル定期で、名古屋での朝比奈(結果的に)最後のコンサートの後、代役は若杉弘と発表され、早速二日公演のチケットを購入しました。
29日の公演の翌朝、朝比奈の訃報に接し(昨日の第九の演奏中と知りました)、これは今日の公演では、何か追悼の曲をやってくれるかも、と期待してフェスティバルホールに出かけたのに、黙祷だけだったので、一瞬ブーイングしようかと思いました。
年の瀬、朝比奈さんの第九聴いてみたかったですね。
これ以上の追悼の演奏はない。というのがこれです。
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本当の第九
朝比奈追悼なら、ジークフリートの死ではなく、ブルックナーの9番第3楽章ということになるのでしょうか。
2009年もよろしくお願い申し上げます。
朝比奈の第九は歌う側に回った事があり、色々想う処はありますが、故人の悪口は控えさせて頂きます。
京響の初代常任・チェリウスさんが亡くなられた時、やはり若杉さんが定期の客演に来られていて、冒頭に“ジークフリートの死”を演奏し、拍手は無しでした。
どうぞ良いお年をお迎え下さい。