河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2370- ラ・ボエーム、日生劇場、伊香、園田、新日フィル、2017.6.24

2017-06-24 22:28:06 | オペラ

2017年6月24日(土) 1:30-4:00pm 日生劇場

日生劇場 プレゼンツ
プッチーニ 作曲
伊香修吾 プロダクション
ラ・ボエーム  (宮本益光新訳による日本語上演)

キャスト(in order of appearance)
Before Act  (黙役)
1.マルチェッロ、桝貴志
1.コッリーネ、三戸大久
1.ショナール、近藤圭
1.ムゼッタ、高橋絵里
2.ロドルフォ、樋口達哉

Act
1-1. マルチェッロ、桝貴志(Br)
1-2. ロドルフォ、樋口達哉(T)
1-3. コッリーネ、三戸大久(BsBr)
1-4. ショナール、近藤圭(Br)
2.ベノア、押見春喜(Bs)
3.ミミ、北原瑠美(S)

4.パルピニョール、青柳貴夫(T)
5-1.アルチンドロ、小田桐貴樹(Bs)
5-2.ムゼッタ、高橋絵理(S)

合唱、C.ヴィレッジシンガーズ
児童合唱、パピーコーラスクラブ

園田隆一郎 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


(duration)
無言劇+ヴォイスオーヴァー的な会話 5′
ActⅠ 33′
会話 3′
ActⅡ 20′
Int
会話 2′
ActⅢ 24′
語り 3′
ActⅣ 29′

暗くなり指揮者登場はわからないまま幕が開く。少しだけ光がさす。舞台は空っぽで何もない。唯一真ん中手前に小さな墓石だろうか。そこにロドルフォを除く3人とムゼッタが花を添える。少し置いてロドルフォが現れお花を。そして5人四方に散らばっていく、と、この5人と思しき会話が映画のヴォイスオーヴァーのように流れる。
悲劇ラ・ボエームの結末のそのあとのお墓参りのようなシーンから始める演出はインパクトの強いものであった。5分ほどの動きと会話がおわり、いつの間にかポーディアムに立った指揮者のもと第1音が奏でられる。
1幕から2幕への場面転換、3幕前、同じように会話が入る。それに3幕から終幕の場面転換では会話ではなく語りですね。

前奏曲も序曲も無いエキスのみで出来上がっているこのオペラにまことにふさわしい印象的なシーン。このオペラの冒頭にそのような曲があればそれに乗って無言劇が行われるところだろう。無い事を逆手に取った演出ですね。
日生劇場に響く新日フィルのシルキーで心地よいサウンドの中、舞台が始まる。

演劇的な要素が濃い演出、オペラが始まっても同じように色々とある。
冒頭から4人の動きが激しい。これだけ動いてまともに歌えるのだから、相応なリハなどを積んでいると思う。終幕あたまでの1幕冒頭回帰、そしてダンスとここらへんの動きも達者。日本語上演なので歌うほうでの余計な負担が軽減されているところもあるのではないか。
全般にわたってこのように動きがいいとキャストのメインロールがどうだこうだという話はあと回しで良くて、まずこの劇をまとめるにはロール全員が同じように動くことが一つのポイントになってくる。
これをみながら昔、もっともっと演劇性の強烈なボエームの事を思い出した。

364- ラ・ボエーム、ベルリン・コーミシェ・オーパー、クプファー・プロダクション、1991.6.13 (1991-13)

クプファーの演出はひとつの頂点だと思う。この上演はドイツ語でおこなわれております。

今回の上演は宮本益光さんの新訳による日本語上演でこれに日本語の字幕がつくという非常にわかりやすいもの。
日本人が日本語で歌うというのは本当に負担軽減になるものなのかどうか、それはこっちが勝手に思っていることであって実際のところは聞いてみないとわからない。
観ているほうとしては例えば第1幕のあたまと終幕冒頭は相似形でありながら、言葉で含みを持たせたようなところがあるし、そういったところは言葉で意図されたものがこちら側により浸透してくるといった効果もあったかに思う。母国語で歌われるとそういったところの理解がすすみ易い。

言葉や動きの事だけでなく舞台の動きも練り込まれている。終幕4人のダンスは最初明るいものだが、ガラス窓の外は少しずつ風が強くなっていく。そして少しずつ全体が暗くなっていく。観ているほうの心の動きまで掌握しているような演出。
2幕モミュス、ムゼッタはマルチェッロのほっぺを思いっきり殴って手を握り合い二人で去る。2幕の舞台はゴチャゴチャと混みいったもの、そんな中で6人衆の動きをきっちりわかるような配置の妙。
3幕の行商人と兵のやり取り、日常のやり取りが暗い中でしっくりと表現されている。
等々、このプロダクションは6/18とこの日だけの2回公演のようですが、こういった面白みを観るにはもっと多い上演が望まれるところではある。リヴァイヴァル上演、貸出上演、これから先もっとやってほしいものだ。細部がよくきまっていて、終わる前にそういったことが脳裏をよぎる始末。

結局、こういった細部の丹念な積み重ねが濃い演劇性のみならずドラマチックで躍動する舞台を築きあげる要素になっている。
ここニ三十年、序曲の中でパフォームするといったことがやられていて、ワーグナーのようなスタティックなものだとかなりサマになるのだが、イタオペだとどうも安い感じがしてしまう。付け足しのように見えるんですね。ワーグナー物からのアイデアの真似だからかなあと勝手に思っているのですが、そういった事が多くて、たまに濃い演出もあった記憶はありますが全体的にはどうも今一つという印象があったのです。今回の伊香演出はそういったことを全く感じさせない。クプファー演出を思い出したけれども、古さは感じない。古さというのは陳腐と置き換えてもいいが、そういった事を感じさせない。むしろ何か新しい新鮮な現代性を感じさせてくれた。新鮮というのはこちらが周りの事を知らないという事に寄るのかもしれない。でも一つの方向性は感じる。それはもしかして日本語上演によるところがあるのかもしれない。そこらあたりが微妙にうまく絡み合っているのかもしれない。
演出は古くなり、音楽だけが残る。だから演出は何度でも創作し続けなければならない。そうかもしれない。現代性は問われ続けられるものかもしれない。それはこれからの話だろう。

4幕ラストシーン直前。ミミが二人だけになりたくてベッドで一芝居打って、二人になりそこでこれ以上ない糸を引く様な音楽がつながる。第1幕のデュエットシーンでの歌そのもののフシが今度はオーケストラだけで奏される。二人がするのは動き。渾身のパフォーム。プッチーニ節ここに極まれり。園田、新日フィル、身も心も中から砕け散るようなウルトラ絶品の演奏。
そして、仲間たちがもどり、ミミはこの世を離れる。コラージョ、ここからあっという間にエンディングとなるのだけれども、伊香プロダクションではもうひとつ動きを作る。
屋根裏部屋が左右にツーと動いて消える。ミミとそのベッドは奈落の底に沈みこむ。舞台は空になる。そして奈落から墓石があがってくる。そこにいるのは5人。冒頭でオペラが始まる前の無言劇的なシーンに戻るのである。
ラ・ボエーム、ソナタ形式を思わせる構造、第1幕導入提示展開と終結、2幕スケルツォとトリオ、3幕見事に弧を描くアダージョ、終幕では1幕再現と展開それにフィナーレ、この強固な形式を後押しするような冒頭、結尾の見事な演出というほかない。秀逸な演出で見ごたえありました。
プログラム冊子を拝見すると、五島記念文化賞オペラ新人賞研修成果発表と書いてありました。

ロドルフォ樋口は歌、動きともに好調。彼の歌はこれまで何度も聴いてますしなじみのあるもの。舞台は総じてグレイな色合いの中にブラウンな色調があり、光が効果的。シックでいい舞台。樋口ロドルフォの色はそれにしっくりと合うもので、深みがあって息が続き歌い込まれているもの。1幕でのソロ、デュエット見事な歌でした。3幕での弧を描くミミとの絶唱、シルキーなオーケストラサウンドに乗って、無限の美しさ。
ロドルフォを入れた4人衆はバランスが良く取れていて、激しい動きの中でもきっちりとした歌唱でしたね。マルチェッロの立ち位置はわきまえた加減を感じるもの。
ミミ北原は最初から役になり切っている。最初ちょっと弱すぎるミミと感じたがあれは動きのほうですね。歌のほうは少しドライで中太な線が安定感の高いもので、いつか崩れるといった余計な心配もない。役とは別の強さと芯を感じさせてくれた。
ムゼッタ高橋はまず、サマになるというか絵になる。気が強そうでわがままで実は寂しいのかもしれない複雑な女性を見事に演じましたね。ワルツは魅力的。ここ、ミミをくいました。
洒落た2幕、悲劇の4幕、両面感じさせてくれました。素晴らしかったです。ビューティフル。

オペラ振り園田の棒、これも鮮やか。ピットでの新日フィルのサウンドがいつも聴いているオンステージでの音と同じ。前向きで積極性のあるタクトだったのだと痛烈に思う。
プッチーニに泣き節全開とはせず、締めるところはサッと切り上げたりする。ムーティの妙技とオーヴァーラップするところがある。プッチーニは振らないムーティ、でもなんだか冴え技はそんな感じ。
オーケストラとともに舞台の上を見ながらの指揮姿、説得力ありますね。自在な棒はこのようなオケでさらに躍動する。鮮度高し。秀逸な伴奏を終始展開してくれました。

ラ・ボエームにジャストフィット、みんな最高!、ボエーム最高!!

おわり


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