河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

364- ラ・ボエーム、ベルリン・コーミシェ・オーパー、クプファー・プロダクション、1991.6.13 (1991-13)

2007-07-30 20:27:01 | オペラ

1991年の生聴きしたコンサートからピックアップして書いてます。
網羅的な記録ではありません。

1991年も中盤6月です。
この時期、ベルリン・コーミッシェ・オーパーが初来日しました。
400人の引っ越し公演です。
この劇場はフェルゼンシュタインが戦後作り上げた劇場で、旧東ドイツにありました。
1989年のベルリンの壁崩壊、1990年のドイツ統合、そのあと1年も経ずに日本に初来日しました。
まるで何事もなかったかのようなドイツのハイレベルな結束力、優秀な民族であることの証でした。

この劇場の当時の首席演出家はハーリー・クプファー。
クプファーの演出はバイロイトでは1970年代後半から、さまよえるオランダ人、で見ることができましたが、そのバイロイトに関して言うと何と言っても1988年を開始年とするダニエル・バレンボイム指揮によるレーザー光線のリングサイクルの大ブーイング。
初年はみんなあんなものさ、とはいうけれどね。
5年間で音楽は丸みをおび、演出は斬新さから陳腐へと様変わり。
いや、聴衆の方が変わっただけなのかもしれない。
日本で2002年に行われたクプファー演出のリングサイクルの3連発はバイロイトの後の新演出であったと記憶する。
飽くなき挑戦です。

1991年というとクプファー演出のバイロイトのリングサイクルの4年目にあたりますが、この来日の折、クプファーが日本に同行してステージに顔を出したのかどうか、もう記憶にありません。
6月はバイロイトの演出、マイナーチェンジに忙しかったのではないでしょうか。

それで、ベルリン・コーミッシェ・オーパーの方はどうだったの?

1991年6月
6日(木)青ひげ 上野
7日(金)青ひげ 上野
9日(日)青ひげ 上野●
13日(木)ラ・ボエーム 上野●
15日(土)ラ・ボエーム 上野
18日(火)ラ・ボエーム 相模大野
20日(木)フィガロの結婚 神奈川
21日(金)特別コンサート オーチャードホール
22日(土)フィガロの結婚 神奈川
23日(日)フィガロの結婚 神奈川●
27日(木)ラ・ボエーム 名古屋
7月
1日(月)フィガロの結婚 名古屋

●は河童潜入


11回公演と特別コンサートが1回。
指揮はヨアヒム・ヴィラート、ロルフ・ロイター。
青ひげはフェルゼンシュタインの演出。ラ・ボエームとフィガロの結婚はクプファーの演出。
特別コンサートには、カウンター・テノールのヨッヘン・コワルスキーが出ております。

1991年当時でこの来日公演の最高席が2万7千円ということで、一流どころから見るとワンランク下の格付けだ。
日本人にはなじみがないとはいえ、なじみのないかたちが、「まぼろしのオペラハウス」というよりも「よくわからない2流どころのオペラハウス」の来日公演のように主催者も感じていたのかもしれない。
それはそれで客にとってはもっけの幸いであった。
これとは全くの逆の現象が今年2007年のついこのあいだあった。
イタリアのスポレート歌劇場とパレルモ・マッシモ歌劇場の来日公演。
海のものとも山のものともわからない歌劇場来日公演のベラボーなチケット代、一流どころなみにふっかけていて聴く前から怪しかった。
日本にわざわざ来てどうのこうというレベルではないと思う。
評論も地方の隠れた素朴な美点を探し出すのが精いっぱいだったのではないか。
主催者の「隠れた名門」「最後の名門」など、吹き出し、失笑してしまうが、本当の名門なら今頃まで日本に来たことがないというのはこの時代にあり得ない。
外国の演奏団体は日本に来てはじめて聴衆の恐ろしさ、商売のうまみを知る。
名門はとっくの昔からそんなことは百も承知。

それはそれとして、ベルリン・コーミッシェ・オーパーのこの公演の目玉は演出にありそうだということはなんとなくわかっていたが、それよりもなによりも、ラ・ボエーム見たさ、というのが一番。
公演は、青ひげ、ラ・ボエーム、フィガロの結婚、の順番だが、明日から書くブログの順番は、ラ・ボエーム、フィガロの結婚、青ひげ、となります。

ベルリン・コーミッシェ・オーパーの1991年来日公演では、ラ・ボエームの公演は4回行われました。
そのうち初日の公演をみた。

1991年6月13日(木) 6:30pm 東京文化会館
ハーリー・クプファー、プロダクション (1982年6月5日プレミエ)
プッチーニ作曲ラ・ボエーム  (ドイツ語による公演)

ミミ、ザビーネ・パッソウ
ムゼッタ、マグダ・ナドア
ロドルフォ、ギュンター・ノイマン
マルチェルロ、アンドラス・ダーヴィッド
ショナール、エルマー・アンドレイ
コルリーネ、ハンス=マーティン・ナウ

ヨアヒム・ヴィラート指揮
ベルリン・コーミッシェ・オーパー

強烈なインパクトであった。今まで見たこともないボエーム。音楽というよりは劇。旧東ドイツにおける演出色の前面に出た音楽劇。今でこそどこかしこで演出性の強いオペラばやりであるが、昔とは変われば変わるものだ。
クプファーのラ・ボエームは1982年のニュー・プロダクション。1991年当時でも9年経過、既に当地ではなじみのものであったに違いない。初めて観るというのは恐ろしいものだ。

ここに、クプファー演出の見どころというのがある。
第1幕-ミミとロドルフォは偶然ではなく故意に会う。
第2幕-群衆の騒ぎはムゼッタとマルチェルロの場に収斂する。ムゼッタはバルコニーからマルチェルロに天使のごとく舞い降りる。
第3幕-ガラスの天。舞台は二人掛けベンチだけ。うわべだけ切迫した苦痛。
第4幕-質屋にマントを出すコルリーネは外の階段で歌う。のろわれて果てるミミはベットではなく椅子で息絶える。周りの友人は恋人に死なれたロドルフォを相手にしない。

暗い舞台である。
実際のところ、暗闇に艶やかに光る舞台。そして衣裳。シンプルな装置。贅肉のない素早い動き。劇のような動き。動きながらばんばん歌う。
ウィーンでは1984年にこのプロダクションが大当たりをとってかなりのロングランを記録した。コーミッシェ・オーパーのヒット作となったわけだが、これだけインパクトの強い演出は観たことがない。
誰一人傑出した歌い手がいるわけではないし、特別にすごい演奏でもない。しかし歌い手の演劇性の強い表現を歌とともに動きで完璧にしめすにはこの組み合わせでなければならない。当然、自国語のドイツ語の方が余計な心配をすることなく舞台の進行がはかれるわけで、演劇性の観点からいっても適切なことである。コーミッシェ・オーパーでは全オペラがドイツ語だそうだ。
ウィーンでこのプロダクションが評判をとったとき歌い手は誰だったのだろう。

そういえば、鍵をなくし、火まで消えて、なにもかも作為的な出来事だったのかもしれない。作られた出会いは熱しやすく、醒めるのも早いのかもしれない。黒い鉄格子、パイプのような舞台が現代の非情さをあらわしているようで、艶やかな暗さがそれに輪をかける。アタッカで第2幕に進み、これでもクリスマス・イヴなのかと思わせる暗いにぎやかさがなにか不吉なものを感じさせる。ここの主役はムゼッタとマルチェルロである。全てが最後の引き延ばし音とそれにつづく急激なピアニシモ、そこで終わって十分。パレードは回帰。
第3幕に装置はいらない。静と動。ミミとロドルフォ、ムゼッタとマルチェルロ。音楽は2発の打撃音に始まり、しんしんと進む。流れる音楽と波打つ音楽。絡みもつれる音楽は息の長いフレーズが大団円を描き2発の打撃音で終わる。この第3幕で音楽は閉じない。見事な継続のエンディング。そして、死んでいくものにこれだけ冷たくていいのか、無関心とさえいえるかもしれない、その見放された死はなにを意味するのか。ラ・ボエームは交響曲である。第1幕の導入・展開に始まり、第2幕の行進曲とワルツはスケルツォ・トリオ、第3幕はアダージョで悲しみの極致を大きな弧で表現し、最終幕では第1幕が回帰されるが、全ての音楽の終結は悲劇でなければならない。

ハーリー・クプファーのプロダクションは来日公演の模様がテープ化されている。来日公演に限らず同プロダクションのDVDとかテープが市販されているのかどうか知らないが、来日公演の模様がテープとして残っているのは非常に興味深い。
残されているのは18日の相模大野での公演。
ラ・ボエーム
1991年6月18日(火) 6:30pm グリーンホール相模大野

ベルリン・コーミッシェ・オーパー初来日公演は主催が中部日本放送(CBC)で協賛が鹿島建設。このテープは鹿島建設のいわゆる、かんむり公演であると思われるのだが、この場合、鹿島には感謝しよう。
非売品のようだし、今後手にはいる可能性は皆無だろう。河童はどうやって手に入れたのだろうか。
おわり


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