河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2691- 4つの最後の歌、森麻季、ブルックナー1番、高関健、2019.4.13

2019-04-13 23:25:45 | コンサート

2019年4月13日(土) 2pm コンサートホール、オペラシティ、初台

モーツァルト 魔笛 序曲  6

シュトラウス 4つの最後の歌  3-4-5-6
 ソプラノ、森麻季

Int

ブルックナー 交響曲第1番ハ短調   13-13-11-16
1868年リンツ稿
2016年ウィーン出版のトーマス・レーダー校訂による新全集版(日本初演奏)


高関健 指揮 東京シティフィルハーモニック管弦楽団


マジックフルート、明るくてシャープ、エンジンかかっていて持ち味がいきなり全開。気持ちの良い演奏ですね。

森さんの歌うシュトラウスは割と幅広な低音から、このオーケストラサウンドに似た高音まで、声色に変化を見せながらストレートな歌い口、一様な滑らかさとはまた違ったもので、このような表情の変化付けも相応に惹きつけるものはあった。
高関シティのオーケストラ意思表示が思いの外、明快。彫琢された伴奏付けであって、歌とはどの程度併せてリハを重ねたのだろうかとふとよぎるものがあった。つまり、聴き合いによるシナジー効果が見えず、それはもしかしてリハ時点で認識して精度向上が出来るものではなかったのかという話し。



ブルックナーの版はこっちが好き、あっちの稿が好み、といったたぐいの話にあまり興味がない。でも、それらの出来上がり経緯の読み物はしっかりと読むことにしている。出てくる音の差異から良し悪しや好みをすることは全くの主眼対象外。そのようなことはしなくてもよいものだろうとも思う。

トーマス・レーダー校訂の新全集版、1868年リンツ稿のブル1。聴くイメージとしては、初期リンツ稿のオリジナルなフレッシュ版。最初の最初の物件、が、なんで、今頃出てくるのかという不思議さがあるものの、実際どういった響きだったのだろうという興味は湧く。後のものに比べてどうだといった話はあるのだろうが、こっちは良い、あっちは良くない、そういったところにはまるで興味がない。

ABr1 duration
Ⅰ 1-2-2 3 1-1-2 1
Ⅱ 3-3-3-3-1
Ⅲ 4-3-4
Ⅳ 1-1-1 2 1-2-2 6

00番0番1番2番のあたりだと、1番と2番は比較的馴染みがある。
その馴染みな作品がかなりの巨大さで迫る。巨視的を横に置き微細に迷路を探索する高関のスタイルはどうであれ彼の真骨頂には違いない。鎮座するブル1。わけても後半の2楽章は止まっているかのようだ。止まって模索するブルックナーは指揮者が求めていたものかどうかはわからないが、期せずして静止しているような鳴り具合だ。迷路が解けない。
終楽章のソナタは努力して聴きつつも型が途中から行方不明になってしまった。こちらの混乱なわけだがそれでも惹きつけさせてくれる指揮というところがあり、わからないなりに竹藪をかき分けて聴く、に、まい進。
透明なアダージョ楽章、鎮座形の終楽章。前半2楽章と後半2楽章の造形バランスは良く取れていて構築物件としてのスケールの大きさをこの1番で垣間見ることが出来たのは大いなる喜びであった。オーケストラの切れ味がシュトラウスほどではなかったのは少し残念なところもあるが、高関の振るブル1説得力、構築するにはエネルギーが要ったと思う。
この作品、また色々と聴きたくなってきた。


客入りは半分以上あったと思うけれども、空席が目立つ。週末土曜の2時。他オケとバッティングの嵐で、聴くほうは身は一つ、優先度をつけて選択するしかない。秀逸な内容、というのは結果論になるけれども、プログラムビルディングやキャスティング等々でバッティング負けしてしまうのはいかにももったいない。平日公演というのも辛いところもあると思うし、厳しい競争ではある。
おわり