河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1691- レニングラード、クシシュトフ・ウルバンスキ、東響2014.10.12

2014-10-12 19:30:35 | インポート

2014-2015シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2014-2015シーズン
.

2014年10月12日(日)2:00pm ミューザ川崎
.
ショスタコーヴィッチ 交響曲第7番 レニングラード
 30′11′+16′+15′
.
クシシュトフ・ウルバンスキ 指揮 東京交響楽団
.
昨年のハルサイの印象が強く、曲も曲だけに聴くほうも意欲をもって。
ウルバンスキは曲が身についてしまっている。昨年のハルサイのようにびくつくような箇所は少なかったものの、棒の先が終始、胸より上にあり、かつ、拍が正確で、プレイヤーにはわかりやすいと思われるあたりは同じ。譜面台が無いのはハルサイのときと同じ。
純器楽的でストレートな表現。ディテールに特にこだわることもなく、普通の中規模管弦楽曲のような雰囲気で進んでいく。オーケストラもよくコントロールされていて統率がとれている。16型でヴァイオリン第1,2合わせて30人中、男どもがたったの3人という、弦だけとればほぼ女性オーケストラ、だからどうだというわけではありませんが、弾きは強くない。ウルバンスキはそれに不満があるようには見えないし、東響のイエローなサウンドは昔から変わらず練習の伝統みたいなものを感じるところはありますが、サラッと感はあるね。ゴシゴシ感はない。個人的には弦はもっと深く弾いてほしい気がします。
それ故なのかどうか、ブラスとの強弱バランスがあまりよくない。気張って吹いているわけでもないブラスセクションに弦が負けすぎ。これは聴衆の座る位置により印象がだいぶ異なるのは承知、またロシアのオーケストラのぶ厚い弦の響きを求めるわけではないが、ちょっと音の強さが少ない。このシンフォニーは一見派手に見えるが、ブラスが鳴りを潜める静かな部分が多い。弦の見せ所が多い曲と思います。
曲の持ち味だけでうなったところはあります、聴衆サイドとしては。
おわり


1690- パルジファル、四日目、ハリー・クプファー、飯守泰次郎、東フィル、新国立2014.10.11

2014-10-12 10:50:22 | コンサート・オペラ

2014年10月11日(土)2:05-7:55pm オペラパレス、初台

新国立劇場 プレゼンツ
ニュー・プロダクション

ワーグナー作曲
ハリー・クプファー、プロダクション

パルジファル  110′ 70′ 78′

キャスト(in order of appearance)
前奏曲での登場
1.僧侶3人
2.アムフォルタス、エギルス・シリンス
2.グルネマンツ、ジョン・トムリンソン
3.クリングゾル、ロバート・ボーク
3.クンドリ、エヴェリン・ヘルリツィウス
4.聖杯騎士2人+4人
5.アムフォルタスに水をやる子供

第1幕以降
1.グルネマンツ
2.クンドリ
3.僧侶3人
4.アムフォルタス
5.パルジファル、クリスティアン・フランツ
6.ティトレル、長谷川あきら


新国立劇場合唱団
二期会合唱団
飯守泰次郎 コンダクティング、
東京フィルハーモニー交響楽団

(タイミング)
前奏曲 13′
ACTⅠ
54′(パルジファル登場37′付近)
場面転換
43′

int 45′

ACTⅡ70′

int 35′

ACTⅢ
53′(聖金曜日39′付近)
場面転換
25′

141011_132701



この日はクプファーのパルジファル、ニュープロダクションの四日目です。
初日 二日目 三日目

救済者に救済を!と言うのは、崇拝対象であって武器ではない救世主(登場しない)の聖槍を悪欲で汚され奪われ、その武器ではない槍で傷を負ったアムフォルタスは救世主(の持ち物)の純潔性を奪ったということになるが、アムフォルタス自身が傷を負ったのでありもはや修復不可能、だから救世主による救済作業が出来るよう恥辱の不純から、だれか、救世主を解放させてくれとアムフォルタスと聖騎士たちは叫んだ、という理解でいいのでしょうか。
アムフォルタス役のシリンスはこれまで何度か観聴きしていますが、今回のパルジファル上演における深くて滑らかなバスの響きにあらためて魅了されました。本当に良かったと思います。アムフォルタスは第1幕と3幕場面転換後のみの出番ですが、真っ赤な巨大メッサー上で苦しむその姿は印象的です。白熱の演技と歌、好演でした。来年の東京春音楽祭のワルキューレではヴォータン役を歌うとのこと。このお祭りは演奏会形式なのが惜しまれるところです。大柄だけれども肥えていないシリンス、舞台で観たいものですね。ヴォータンということですから今回のパルジファル上演でのグルネマンツ役トムリンソンからのつながりを感じさせながらの公演となりました。

聖騎士の仲間になりたかったクリングゾルは自らを去勢して官能愛を断ち切ろうとしたが、それは内面からの本当のピュアな行為ではないとして、救世主やティトレルに仲間参加を断られた、だからその腹いせか復讐のために聖騎士たちを官能エリアに引き込みズブズブにさせようとした、という前提でいいでしょうか。
その自らを去勢したはずのクリングゾルは第2幕のあたまのクンドリとの掛け合いの前のところ、巨大メッサー上で聖槍を自分の股間にはさみ、先のほうをブルブル震わせる。反省の念なのか、本能の煩悩なのか、よくわからないが妙にリアリスティック。
そこにクリングゾルに邪悪化されようとしているクンドリがあらわれ掛け合いが始まる。クリングゾルはクンドリに、まさか童貞なの?と一蹴されるあたり、観劇していなければわからない面白みでした。クプファーの秀逸演出ですね。
クリングゾル役のボークは、よくきまっていて、他の歌い手たちに食われることもなく、ダーティーな雰囲気もほどほどにして、弾力性のある動きと歌で魅了させてくれました。現代風な悪役ですね。低音配役のこのオペラにおいてシリンスとともに安定感あり、安心して聴いていられました。これもよかったと思います。

同じくこの2幕では、最初のクリングゾルとクンドリの掛け合いの後、パルジファルとクンドリの果てしもない掛け合いとなります。歌詞をよく見てないと物事がわからなくなりますので、字幕スーパーを食い入るように見ながらでしたが、字幕の威力というのはこれまた果てしもない。クンドリ役のヘルリツィウスは初日こそ、そこそこの沸きでしたが、回を重ねるごとに熱烈なコールが多くなりました。体当たりの演技はもちろんのこと、やはりなんといっても強烈でドラマティックな歌が役どころにきっちりとはまっている。クンドリというのは、タンホイザーのヴィーナスとエリザベートの両方の性質を有しているとものの本に書いてありましたが、たしかにそうですね。極端なわざとらしい変化は見せないヘルリツィウスではあります、ここはクプファーの演出に全面的に負いながら、歌とその時々の演技に集中。見事な歌唱でした。彼女のピッチの正確性は際立っていると思いました。
第1幕ではあまりぱっとしないパルジファルですけれど、クンドリとのこの掛け合いから俄然光り輝いてきます。フランツはこれまで何度も観聴きしているので聴き慣れているせいか、その光り輝くヘルデンテノールとこれまたピッチの良さ、さらには歌いまわしの自然さ、どれをとっても並みの歌手の3枚ぐらい上をいく、と言ったあたりのことがごく普通な出来事のようでさえある。今回も好演。

一番大変なグルネマンツ、トムリンソンのノンヴィブラートのひきずり唱法は終始ピッチが低めで安定せず、他の4人に比べると特にピッチ上の問題が大きい。深みのあるバスできまればふところの深い味わいのあるものではありまして、現にそういうところも多々ありましたが、なにしろ引き伸ばし部分でのフラットな音程はどうかと思います。ここまで毎度毎度なので、もはや、無くて七癖であると判断できるような気がします。彼の過去の活躍はそれなりに知ってはいるつもりですが。

ティトレルはソロとしては唯一日本人の長谷川。短い歌ながら、ピッチにまるで狂いが無い。役どころは死の間際な不安定なもの、メッサー位置より高いところで巨大椅子に座りながら歌います。過去の冷徹さがにじみ出てくるような響きでまるで警告音のようなワーグナーの音符です。シーンにきっちりはまっておりました。


今回のクプファー演出ではアムフォルタスは本人希望通り死に絶える。クンドリは生きる。
アムフォルタスの最後のシーンは、巨大メッサーから落ちたところをグルネマンツに抱きかかえられる。死に至る直前のところですね。何回か書いていますけど、この構図は一番最初の幕開きで現われる構図と一緒です。つまり冒頭でアムフォルタスの死は予感されているという話です。拡散せずにうまく帰結をむかえるあたり、見事な演出というほかない。
2012年のクラウス・グートのプロダクションではパルジファルは外様風になっていたように思いますが、クプファーの演出では完全な後継者。ただ、クプファーの解説にあるように、解はない。先のことは聴き手に任された。最後は光る道奥に配された3人の僧侶のほうに、パルジファル、グルネマンツ、ややおくれてクンドリ、そして聖杯騎士たちがパラパラと歩き、まさに漂いながら、終わる。最後まで考えさせてくれるクプファーの演出。

それから西洋東洋の融合の印に3人の僧侶が光る道を出たり入ったり、また座ったり歩いたり、ごく少な目な時間での出演。違和感は感じず、なぜか胃に馴染むようお茶のような趣きさえある。舞台に一体化している。曲線の無い角々しい舞台に一種ぬくもりを与えているようにさえ思える。

それから光る道は下から光が照射されるので登場人物に影は出来ない。そこらへんは人間界の出来事ではないなという風味になっている。
おわり