2014年10月2日(木)4:05-9:45pm オペラパレス、初台
新国立劇場 プレゼンツ
ニュー・プロダクション、プレミエ・ナイト
ワーグナー作曲
ハリー・クプファー、プロダクション
パルジファル 106′ 69′ 77′
キャスト(in order of appearance)
前奏曲での登場
1.僧侶3人
2.アムフォルタス、エギルス・シリンス
2.グルネマンツ、ジョン・トムリンソン
3.クリングゾル、ロバート・ボーク
3.クンドリ、エヴェリン・ヘルリツィウス
4.聖杯騎士2人+4人
5.アムフォルタスに水をやる子供
第1幕以降
1.グルネマンツ
2.クンドリ
3.僧侶3人
4.アムフォルタス
5.パルジファル、クリスティアン・フランツ
6.ティトレル、長谷川あきら
他
新国立劇場合唱団
二期会合唱団
飯守泰次郎 コンダクティング、
東京フィルハーモニー交響楽団
(タイミング)
前奏曲 12′
ACTⅠ
46′(パルジファル登場36′付近)
場面転換
48′
int 45′
ACTⅡ69′
int 35′
ACTⅢ
53′(聖金曜日40′付近)
場面転換
24′
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特に印象的な場面が三つあって、一つは、第1幕でティトレルがメッサーよりも高い位置につける椅子で現われたのち、彼の見下すその下の巨大メッサーで、グルネマンツが抱きかかえたアムフォルタスをまるで邪魔な生き物のように転がすシーン。
二つ目は第3幕、幕開きでの光の道にうつぶせになっている槍をもったパルジファル。これのポジション構図は、第1幕前前奏曲冒頭と第2幕冒頭のクリングゾルと全く同じもの。
一つ目と二つ目は、クプファー自身が述べている「先のことは自分たちで考えてみてくれ」という不安定さを途中のプロセスレベルで構図としてあらわしいるのだと思う。
また三つ目は、第3幕最後、アムフォルタスがメッサーから落ちてグルネマンツに抱きかかえられるシーン、アムフォルタスは死をもって治癒される、その直前のところ。この構図は第1幕冒頭に既にでている。つまりこの演出の解が冒頭シーンで既に出ているということ。
アムフォルタスは死をもって救済されるというエポックメイキングなエンディングではあったのですが、そのあとの劇の流れは騎士たちが道を漂うように終わる。すなわち答えは自分たちで探せとクプファーが行っている通りの様相で終わりましけれど、このようなやりどころのない不可解な解に、あれら二つのアクションは通奏低音的な残像となり引っ掛かりの気持ちを最後まで持続させる、こういったクプファーの演出というのはやはりすごいものだと感じ入るしかなかったのです。
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第1幕の前の前奏曲で登場人物をぞろりと出させ、息をつかせない芝居をさせるクプファーの演劇性の意思表明は昨今の若い演出家等の流行追いなどとはまるで次元の違う徹底したもの、この12分で何かが完結するような趣きでさえある。
音は幕が開いてから鳴る。クプファーの言う「光の道」、やや左奥から手前中央に向けて大きく開け、道への光は下から照らされ、映像が道を流れる。一番奥に配置された3人の座った仏教徒、光は徐々に前に進み、グルネマンツが苦痛にゆがんだアムフォルタスを抱きかかえたストップモーション、さらに手前に槍をもったクリングゾルとクンドリがうつぶせ状態で現われる。この舞台ヴェールの脱がせかた。いかにもクプファーらしい、わぁあ、という感じ。これから始まる舞台神聖祝典劇という感じ。
道は光り方が変わったり割れたりする。上下に割れていろんなことをするあたり、新国立劇場のメカニカルな機能をフル活用した圧倒的なもの。これにこのあとメッサー(ナイフ)が移動してくる。メッサーと言っても長さが舞台の半分以上ありそうな巨大メッサーで、この上にアムフォルタスが乗った状態で移動が始まる。これも光の道と同じく、色変りが出来る、真っ赤な色から始まる。これでだいたい道具は出そろった。
それから、クプファー自身による解説がプログラム2ページにわたり掲載されていて、これをあらかじめ読んでいれば仏教徒の登場やアムフォルタスの死の救済、それに1幕後の拍手の許容など、割とすんなりと理解でき、あまり違和感はない。
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第1幕、新国立の移動機能をフル活用した場面転換は圧倒的。アムフォルタスは死なせてくれない騎士たちの聖杯への明かり点火要求の手をのばしたしぐさは何かのパロディのように見えますが、それが何かというのはちょっとわかりません。
いずれにしても儀式の雰囲気はあまり感じられず、厳かさよりももっとドロドロしたもののような気がします。これは第3幕アムフォルタスの死の後のどちらかというと宙ぶらりんな終わり方の雰囲気と同じものです。ここらあたりの起と結、クプファーの計算は高い。それから、同じ1幕のしぼんだ終わり方が無知の極みの表現とはいえ見事なワーグナーの音楽、2時間にもおよぶ帰結がこれなのか、先があるに決まっているといった感じでいいですね。これも演出とジャストフィットだったと思います。
1,3幕で中心的な役割を果たすグルネマンツ。トムリンソンは声がややぶら下がり気味。自分でもピッチの具合がわかっているみたいで徐々に修正してきましたが、見た目ちょっと要ダイエット。身体が重そうですね。
第2幕も道はそのままあるので森の中といった趣きはありません。道の色を変えて曲想に合わせて表情を変えていってます。踊り手たちと歌い手は別。このような場面というのは完璧でないといけないわけですから。
クリングゾルの槍は、ハープの音とともにパルジファルがうまくつかみます(そういう風に見える)、劇的な場面です。
ワルキューレ第2幕と同じようにこのパルジファルの第2幕も2回終わります。しつこいような気もしますが、圧力のあとの整理体操的な意味合いで余韻を保持して2度終わるような感じというのは悪くないですね。ワーグナーの音楽の極みの一つだと思います。
第3幕、クンドリの髪でパルジファルの足を拭くシーンが出てくるとは思いませんでしたがクプファーは忠実でした。
飯守が聖金曜日の音楽のところに頂点をもっていっているかどうか、きいてみないとわかりませんがワーグナー音楽の一つのカタルシス的高まりがここにある。曲も歌詞も素晴らしいの一語に尽きるのではないか。
終演後、クプファー、他の面々が登場、昔なら国内製で、日本でクプファーのプロダクションが出来るなんて誰が想像しただろう。
まさにエポックメイキングな一夜でした。
この日は初日、徒然なるままな文章、10月5日は2回目があります。
おわり
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