書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

荻生徂徠 「徂徠先生答問書」

2014年11月29日 | 日本史
 井上哲次郎/蟹江義丸共編『日本倫理彙編』4(金尾文淵堂 1911年3月)所収。

 畢竟天地は活物にて神妙不測なる物に候を、人の限ある智にて思計り候故、右の如くの所説〔陰陽五行説、天人相関説等〕御座候共、皆推量の沙汰にて手にとり候様なる事は無御座候。所詮君子の学問と申候は、国家を平治する道を学び候事にて、 (「上」、同書158頁。原文旧漢字、以下同じ)

 先の寺地論文で見た欧陽脩の言説と酷似している。これは偶然なのかどうか。

 さらに徂徠は続けて言う。

 ・・・人事の上の事学び尽しがたく御座候。格物致知と申事を宋儒見誤り候てより、風雲雷雨の沙汰、一草一木の理までをきはめ候を学問と存候。其心入を尋ね候に、天地の間のあらゆる事を極め尽し、何事もしらぬ事なく、物しりといふ物になりたきという事迄に候。 (同上、158-159頁)

 それは道ではなく儒者の虚栄心のなせるわざに過ぎぬ。このあたりの徂徠の口吻はじつにきつい。そして、彼はさらに言を継ぎ、そんなことが人間にできるものかと吐き捨てるように言う。

 宋儒の説は人のならぬ事をたてて人を強ゆるにて候。 (同上、159頁)

 このあとに、徂徠の朱子学に対する最も致命的な批判と罵倒とが来る。

 理学者の申候筋は、僅に陰陽五行などと申候名目に便りて、おしあてに義理をつけたる迄に候。それをしりたればとて誠に知ると申物にては無之候。其様に知候をしりたりと覚候浅猿さ〔後略〕。  (同上、159頁)