書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

維基文庫所収『夢渓筆談』の原文を確かめる

2015年02月20日 | 東洋史
 梅原郁訳注『夢渓筆談』(全3巻、平凡社 1978年12月/1979年9月/1981年11月)と照らし合わせるため。
 以下、巻数は両者共通、【】内の通し番号は梅原訳注のそれ。

巻三「辯証一」【54】
 「霊界の道理」→「鬼道」(63頁)
 「人間界の道理」→「人道」(63頁)
 「そういう道理があるのかもしれない」→「或有此理」(63頁)

巻二十「神奇」【347】
 「この理法は全くその通りである」→「此理信然」(231頁)
 「奥深い理法」→「至理」(231頁)

巻二十四「雑誌一」【423】
 「そのようなことはなく」→「無此理」(6頁)

巻二十四「雑誌一」【430】
 「必然の理というものだ」→「此理必然」 (12頁)

巻二十四「雑誌一」【437】
 「その理(わけ)をつきとめることはできない」→「莫可原其理」(19頁)

『補筆談』巻三「雑誌」【582】
 「長生きや病気を治す原理」→「養生治病之理」(233頁)
 「理がきわまって玄(みち)が化する」→「理窮玄化」(233頁)
 「この理法に深く通達すると」→「深達此理」 (233頁)

 以上、坂出祥伸「沈括の自然観について」で指摘される沈括『夢渓筆談』中の「理」の用例と意味とを原文に当たって確認してみた。彼が予め抽象的・一元的な「理(原理、法則)」を想定せず、事象の一つ一つに個別・具体的な「理(原理・法則、それに因果関係?)」を見ていたことは確かなようである。
 坂出氏が仰るように彼は「不可知な世界にのみ気のはたらきを限定し」た。しかしそれは、「知り得ないことは分らない」「憶測で物を言わない」という、一種非常に科学的な態度の表れではなかったか。故にとりあえずは未だその偽であることが証明されていない通説を充当しておくという。