書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

劉知幾著 増井経夫訳  『史通』

2017年02月15日 | 地域研究
 わかりやすい。わかりやすぎることに懸念を抱く。現代日本語として間然するところがない。唐人の劉知幾が私のような現代日本人とおなじ概念と語彙表現で思考著述していたはずはないのである。清の浦起龍『史通通釈』で読んだときはもっと判りづらかった。

(平凡社 1966年3月)

付記
 浦起龍の『史通通釈』だが、読み返してみて同書に対する意見が変わった。『史通』「雑説中」に「馬遷持論,稱堯世無許由;應劭著錄,云漢代無王喬,其言讜矣。」とあって、増井先生は上掲の訳書で以下のごとく訳しておられる。「司馬遷は堯の世に許由がいたという話を決して信じてよいことととは書いていないし、応劭も前述のように漢代に王喬がいたとは言っていないので、これが正しいことなのである」(275頁)。ここは劉知幾の思考の時代離れしている箇所で、日本語訳もこのとおりだと思う(もっとも原文どおりもっと直裁でもよかったとさえ思っている。どちらも「いなかった」と)。ところが同じ箇所に浦起龍が注して、「司馬遷は(許由が)存在しなかったと結論づけてしまっているわけではない(史公亦非遽以為無)」などと、原文にない躊躇のニュアンスを付け加えている。断言を怯むのは注者が怯んでいるだけの話であり、テキストとは何の関係もない。注や解釈は原典をダシに注釈者がおのれの夢を懐疑的に語るためにあるのではない。