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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

古賀勝次郎 「西洋の法と東洋の法 『法の支配』研究序説」(上)(中)

2013年12月17日 | 世界史
 『早稲田社会科学総合研究』6-1, 2005/7, pp. 1-19。
 『早稲田社会科学総合研究』6-2, 2005/12, pp. 21-37。
 
 西洋のそれに近いという意味で儒教の法思想は自然法的であり、同じ意味で法家のそれは実定法的だというのだが、「命令は命令である」「法律は法律である」という考え方からいえば、法家についてはそうだろうと思う。だが儒家はどうだろうか。孔子孟子時代ならまだしも、宋学以降はそう言い切ってよいのかどうか、いまの私にはまだ判断がつかない。
 儒家は、法と倫理が分化しない点でその法思想は自然法的であり(荀子でさえ)、法家は、それを峻別した(管子は未だし、商鞅・韓非子以後)という点において、実定法的である。ただし問題は儒家が法について殆ど語らなかったところにあると著者は言う。また強力な絶対神が存在し、その権威のもとで自然法と実定法(即法と道徳)が総合もしくは調和せしめられた西洋とはちがい、「天」はその権威において弱かったとも。

Giulio Aleni(艾儒略) 『職方外紀』

2013年10月19日 | 世界史
 (『中國哲學書電子化計劃』『職方外紀』守山閣叢書本。および『維基文庫』『職方外紀』四庫全書本)

 「序」がいきなり「造物主之生我人類於世也、如進之大庭中令饗豐醼、又娛歌舞之樂也。」で始まることに驚く。まさにWest meets Eastである。
 さらいふたたび、巻一「亞細亞總説」が、「亞細亞者天下一大州也。人類肇生之地、聖賢首出之鄉。」で始まるので驚く。同上の感想。
 閑話休題、巻二「欧羅巴総説」では物理学を「察性理之道」(性理を察するの道)と訳してある。「費西加,訳言察性理之道」。形而上学(黙汰費西加)は「察性理以上之学」と。ところが巻四に「格物窮理」を実学の意味に使っている例があるので別の意味で驚いた。「至百年前西國有一大臣名閣龍者素深於格物窮理之學又生平講習行海之法」。閣龍はコロンブスである。ならばこの「格物窮理之学」は、天文学・地理学の類いを指しているであろう。
 内容は、今からみればそれほどたいした事は書いてはいない(量的にも少ない)。だが上に述べたような発見があった。

Японский резидент против Российской империи

2013年08月05日 | 世界史
 副題「Полковник Акаси Мотодзиро и его миссия 1904-1905 гг.」

 日露戦争時における明石元二郎の活動に関する著作。「イナバ・チハル(Инаба Чихару)」という人が著者。この本には著者紹介がないが、ある書評によれば日本の歴史研究者の由。翻訳者の名もみあたらないが、著者自らがロシア語で書いたということだろうか。
 内容は、明石の活動は、ロシア革命の進展にも、日露戦争の帰趨にも、なんの影響も与えず効果もなかったというもので、ロシア側の史観に沿ったものと言える。

(М.: РОССПЭН, 2013.)

アントニー・ジェンキンソン著 朱牟田夏雄訳・注 越智武臣解題・注 「モスクワからブハラへの船旅」

2013年02月24日 | 世界史
 生田滋/越智武臣/高瀬弘一郎/長南実/中野好夫/二宮敬/増田義郎編集『大航海時代叢書 第Ⅱ期』第17卷所収(同書1-55頁)。
 著者アントニー・ジェンキンソンについては、ウィキペディア英語版に項がある(Anthony Jenkinson)。原題は「一五五八年、ロシアのモスコー市よりバクトリアのボガール市に至るアントニー・ジェンキンソン氏の船旅。本人よりロンドンのモスコヴィー貿易会の貿易商らに宛てて認められたる記録」。
 つまり、これは政府文書ではなく、Muscovy Company という一民間会社(但しイギリス国王の認可を受けた勅許会社)の社員による、会社への探査報告である。ただし彼はこの旅で、ボガール(ブハラ)に至るまでの中央アジア地域(トランスオクシアナ)の主要な支配者たちにロシア皇帝からの親書を届ける役目も負っていたから、ロシア政府の特使でもあった。船旅というのは、彼は主として水系を船でゆく旅程を取ったからである。なお彼は、未踏の土地探検を行う者として、またこのような一種国策会社社員の義務として、途中の人文地理や物産・交通・政治状況・治安事情など種々の情報を詳細に伝えるほか、通過・宿泊地点相互間の方角、距離、経度・緯度を克明に記し、地図を作成して報告書に添付している。
 なお文中、エンバ川が源を発する地として、“コルマック人”とその国についての言及があるのだが(但し伝聞としてであり、ジェンキンソン自身は現地を通らず実見もしていない)、訳注を見るとこれはカルムイク人の事らしい。しかし現在のオイラート族の一派であるカルムイク人が、ジュンガリアのイリからヴォルガ河畔に移住してくるのはこれより数十年後のことであるから、これは当時同地にいた別の民族のことを言っているのだろう。あるいは訛伝か。ちなみにエンバ川の源流はいまのカザフスタン領内にある。

(岩波書店 1983年2月)

吉田金一 『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』

2013年01月02日 | 世界史
 当時のロシア語外交文書では清皇帝を「ボグド・ハン」、自らのロシア皇帝を「ツァーリ」と呼んでいた(注)。漢文文書では前者は「大清皇帝」あるいは「中国大皇帝」で後者は「察罕汗」、満州語文書では前者を漢語「察罕汗」の元となった満洲語、後者を「大汗」あるいは「聖皇帝」と現代日本語訳できる満洲語の語彙で読んでいたことを確認。
 
 注1。ただ、私の見た限りでは、当時の文書で「ボグド・ツァーリ」と呼んでいる例がある。一文書のなかで「ハン」と「ツァーリ」が通用している例もある。

 なお、満文『聖祖実録』に収録されている満洲語訳「ネルチンスク条約」文は、漢文『聖祖実録』収録の漢訳同様、省略および語彙の改竄があり、正文のラテン語訳が当時の国際法に基づく対等国家間の条約の体裁になっているのに対し、伝統的な冊封体制下の宗主国から朝貢国へ下げ渡す諭旨になっているという(注2)。285-291頁で、ロシア外務省『露中条約集』〔1889〕所載の満文テキストと比較しての検討がなされている。

 2。ということは、現地に立てられた界碑(2箇所に2本)に刻まれたもの以外、19世紀もなかばにいたるまで、清には正確なこの条約のテキストはなかったということ、そして朝廷政府の誰も、条約の真の内容を知らなかったということか。

(近代中国研究センター 1984年2月)

堀川徹編 『世界に広がるイスラーム』

2012年10月17日 | 世界史
 「講座イスラーム世界」の3。
 なんか凄い題だなと驚く 。
 松田孝一氏の「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」を読む。湖南省楓樹ウイグル族回族郷の、元代のウイグル人(高昌ウイグル)の子孫たちと、彼らの元代における動静について何か言及はあるかと思って見てみたが、ない。元代にはイスラームではなかったからというのがいまのところもっとも合理的な説明ではないかと思える。

(栄光教育文化研究所 1995年2月)

Акимбеков С. 『История степей』

2012年05月23日 | 世界史
 副題「Феномен государства Чингисхан в истории Евразии」
 (日本語訳:スルタン・アキムベコフ 『ステップの歴史 ユーラシア史におけるチンギス・ハーン国家という現象』)

 世界史ではないにせよ「ユーラシア史はモンゴル帝国より始まる」というどこかで聞いた主張。
 ちょっと毛色が違うのは、チンギス・ハーンは中国の中央集権制度を取り入れ、彼の息子たちはそれをユーラシアに広めたという点。著者によれば、ジョチ・ウルス崩壊後に出現したその継承国家たるロシア帝国(モスクワ大公国・モスクワ・ツァーリ国を含め)の専制体制は、正にモンゴル帝国を経由した中国の専制体制の影響というより輸入だという。そして17世紀に成立する清朝も、もちろんモンゴル帝国(元)の後継者であるとともに伝統中国の専制の正当な後継者であり、つまりユーラシアは中国とモンゴル帝国双方二重の意味での継承国家によって二分されたというのが、著者のとなえる雄大な構図である。
 そのなかでカザフスタンは両者の中間で独特の自立した地位を保ったというのが、カザフスタン国民である著者の主張である。大・中・小ジュズの存在がその根拠らしいが、このあたりにくるとよくわからない。モンゴル帝国の影響を最後に受けて成立したからだというのだが、それはつまりは歴史が浅いということである。歴史が浅いということが自慢になるのかしらん。

(Алматы: Центр Азии, 2011)

Георгий Владимирович Вернадский 『Монголы и Русь』

2012年03月06日 | 世界史
 ジョージ・ベルナツキー『モンゴル人とルーシ』。モンゴル帝国(ジョチ・ウルスとその後継国家)とロシア(ルーシは当時のロシアの名)の関係史。2009年10月02日「土肥恒之 『興亡の世界史』 14 「ロシア・ロマノフ朝の大地」」より続き。
 ユーラシア学派のうちに入るとはいえ、モンゴル支配を何でも賛美するわけではなく、ベルナツキーは、少なくともこの本ではそれほど極端な主張をしていない。二百数十年の間支配され、その後も16世紀、完全には17世紀半ばないし18世紀までその後継国家との密接あるいは複雑な交渉が続いたのであるから、何らかの影響をルーシが受けるのは当然であり、その視点からロシア史を叙述するという立場のようである。政治・経済・社会的な影響には、直轄ないし間接支配・略奪・破壊・搾取(貢税)といった負の面におけるものも当然含まれるが、著者は価値判断を下すことなく、すべてを中立的に記している。モンゴルの支配によるそれまで分立していたルーシの合同、結果としての中央集権国家の誕生といういわば肯定的なものも含めて。
 それに、ベルナツキーは、ハーンとツァーリの称号について、それぞれ別のものとして、それ以上何の触れるところもない。ツァーリの称号は最初ビザンティン皇帝に対して、ついでモンゴルのハーンに対して用いられたロシア側の自称と述べるのみである(412頁。この点については後述)。

 以下は、2010年11月04日「ラヒムジャーノフ 『カシモフ・ハーン国(1445-1552)歴史概論』 ③」からの続きとなる。
 注1、「1432年のモスクワ大公即位にあたり、ヴァシーリー二世は、ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)の手から、モスクワで君主たるべしとのヤルルィク〔引用者注・勅書〕を受けた。」の根拠となる史料がわかった。同様の記述がこの本にもあり(341頁)、その注(162)および巻末の参考引用文献リスト(485頁)で、Псковские летописи 1, Псковская первая летопись, А.Н. Насонов, ред. (Москва-Ленинград, 1941) であることが明らかになった。
 なおベルナツキーは、ラヒムジャーノフが“ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)”としてある箇所から“ハーン(ツァーリ)”を省いている。もとの Псковские летописи (『プスコフ年代記』)がそうなのかどうか。
 
(Москва: Ломоносовъ, 5.2011)

岡田英弘 『世界史の誕生』

2011年12月19日 | 世界史
 2011年12月17日「宮脇淳子 『最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡』」より続き。

 〔1368年〕、元朝の皇帝トゴン・テムル・ハーンは中国を放棄してモンゴル高原に撤退した。しかし元朝は亡びたわけではなかった。モンゴル高原のモンゴル人は、依然としてチンギス家のハーンたちを戴いて「大元」の国号を使用し、明朝を皇帝とは認めず、明朝の中国を「イルゲン・ウルス」(領民のウルス)と呼んで、対立を続けた。 (「第6章 モンゴル帝国は世界を創る」本書210頁)
 
 とすると、『明史』「韃靼伝」の“去國號,遂稱韃靼雲”のくだりは、“遂稱韃靼雲(ママ。云?)”だけでなくその前の“去國號”も含めて曲筆ということになる。チンギス裔(チンギス・ハーン男系子孫)の最後のハーン、リンダンが死んだあと、その妻と子は後金(清)のホンタイジに元朝伝来の玉璽を献上しているから、「大元」という国号は使用され続けていたのだろう。すくなくともその国体意識はあったと見なすのが自然である(注)。
 あるいは、ここは主語が「明朝」に換わっているのを、私が読み違えたか。
 それにしても、“領民のウルス”とは、凄い表現である。もとの我らが領民どもが建てた国というほどの意味だろう。暖簾分けしてやったというくらいの意識か。あきらかに見下している。

 。そういえばエセンは、「大元天聖大可汗」と称してハーン位に就いていたな。チンギス裔でないので認められず、あっというまに殺されたが。そうだ、ダヤン・ハーンも、いまは中国では「達延汗」とか「太陽汗」だのと漢字を当てるが、あれは「大元のハーン」の意味だと、むかし岡田先生と宮脇先生に教えていただいたっけ。

(筑摩書房 1992年5月初版第1刷 1994年12月初版第6刷)

レフ・グミリョフ 『暗黒伝説 大ステップの友と敵』(モスクワ アイリス 2003年)

2011年10月13日 | 世界史
 ロシア語原書名:Гумилев Л. - Черная легенда. Друзья и недруги Великой степи. М.: Айрис пресс, 2003.

 2011年09月07日「ピェンゼフ 『ウイグル分離主義と1920年代ソ連の諸民族団結運動の関係』 から」より続き。

 2003年刊行のこの本は、グミリョフの全集(全13巻)の第9巻である(巻末の案内から)。各巻テーマ毎に彼の関連する著作(著書・論文・インタビューほか)が網羅的に収録されている(「日ソ」の文献紹介による)。
 この巻には、ロシアのユーラシア的性格の探求にまつわるそれが集められている。つまりモンゴルと、それ以上にタタール(テュルク系諸民族)との関係である。(新)ユーラシア学派たるグミリョフの面目躍如といったところである。
 ピェンゼフが引用した部分はインタビューである。インタビューなら当然ともいえるが、だが論文でさえ、注というものがほぼ皆無である。むかし谷沢永一氏が柳田国男の著作を和辻哲郎のそれとならべて「注がない、だが文章が流麗で読ませる、だから誰も本気で批判しない」と評していたが(注)、グミリョフの場合にもこれは当てはまるかも知れない。

 。『読書友朋』「方法論信仰の元凶」(大修館書店『読書談義』1990年4月、渡部昇一氏との共著、314頁)。