『早稲田社会科学総合研究』6-1, 2005/7, pp. 1-19。
『早稲田社会科学総合研究』6-2, 2005/12, pp. 21-37。
西洋のそれに近いという意味で儒教の法思想は自然法的であり、同じ意味で法家のそれは実定法的だというのだが、「命令は命令である」「法律は法律である」という考え方からいえば、法家についてはそうだろうと思う。だが儒家はどうだろうか。孔子孟子時代ならまだしも、宋学以降はそう言い切ってよいのかどうか、いまの私にはまだ判断がつかない。
儒家は、法と倫理が分化しない点でその法思想は自然法的であり(荀子でさえ)、法家は、それを峻別した(管子は未だし、商鞅・韓非子以後)という点において、実定法的である。ただし問題は儒家が法について殆ど語らなかったところにあると著者は言う。また強力な絶対神が存在し、その権威のもとで自然法と実定法(即法と道徳)が総合もしくは調和せしめられた西洋とはちがい、「天」はその権威において弱かったとも。
『早稲田社会科学総合研究』6-2, 2005/12, pp. 21-37。
西洋のそれに近いという意味で儒教の法思想は自然法的であり、同じ意味で法家のそれは実定法的だというのだが、「命令は命令である」「法律は法律である」という考え方からいえば、法家についてはそうだろうと思う。だが儒家はどうだろうか。孔子孟子時代ならまだしも、宋学以降はそう言い切ってよいのかどうか、いまの私にはまだ判断がつかない。
儒家は、法と倫理が分化しない点でその法思想は自然法的であり(荀子でさえ)、法家は、それを峻別した(管子は未だし、商鞅・韓非子以後)という点において、実定法的である。ただし問題は儒家が法について殆ど語らなかったところにあると著者は言う。また強力な絶対神が存在し、その権威のもとで自然法と実定法(即法と道徳)が総合もしくは調和せしめられた西洋とはちがい、「天」はその権威において弱かったとも。