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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

なぜ楓樹ウイグル族回族郷に清真寺があるのか

2011年12月13日 | 東洋史
 (承前

▲「百度百科」「枫树乡(楓樹郷)」項
 〈http://baike.baidu.com/view/1841720.htm

 ここには、同郷には清真寺(イスラム寺院)があるとなっている。それも洪武帝の勅願にかかるものだそうだ。きわどいところだが、ここへやってきた頃の彼らは、まだ仏教徒ではなかったろうか。
 もともとマニ教・仏教を信仰していた西ウイグル王国のウイグルがいまはイスラム教徒になっているということだろうか。
 関連部分の原文。

清真寺
  走进枫树乡清真寺院门,菊花盛开,使整座古寺沐浴在浓郁的清香之中。“大明镇南定国将军哈勒·八士合葬之墓”耸峙在院内右方,给人一种肃穆、安详的气氛。墓体由青石砌筑而成,长2.32米、宽1.25米、高2米的方形石台,红漆“塔埠”顶立玉碑;墓体右侧为墓主生平介绍,镶于墓身之中,左侧刻有“桃源县人民政府重点文物保护单位”等字样。手抚墓前朱元璋御笔钦赐的“威震南方”石碑,凭吊之情油然而生。
  清真寺旁是明太祖敕建的“荐楼”、“镇南堂”、“忠勇坊”等。荐楼,取颂扬祖之意。雕梁画栋、刻桷丹楹,中置一位龙凤幡绕之武将,并供奉诏敕,珍藏赐品,陈列甲胃,韬藏弓矢。睹物兴怀,令人想到翦氏先祖镇南平蛮、剿寇灭巫之伟绩。镇南堂是湖南维吾尔族唯一的宗祠,洪武二十二年秋,朱元璋御笔钦赐“威震南方”的金匾悬挂在镇南堂上,以示纪念。
  清真寺的前身是最早修筑的“镇南经殿”。据《湖南通志》、《翦氏族谱》载,洪武二十六年,凉国公蓝玉被诛杀前重涉翦旗营,是时讲经殿已筑,距枫树口(哈勒始祖当年在此遍植枫树,由此得名)正西550步处;明成祖十年改为镇南经殿,康熙二十年重修改为清真西寺,民国五年(1915年)翦山胜重修时又更名为清真寺,1966年被拆除。1988年经国务院宗教局、湖南省宗教局批准、赞助,占地3800平方米的清真寺经5年苦心修建,于1993年落成。是年6月,经常市政府批准,由桃源县政府组织实施,将哈勒·八士墓与碑迁往枫树乡清真寺内。
  仰望清真寺气势雄伟,造型古朴,寺顶呈圆弧形,上塑一轮弯月,具有浓郁的新疆和阿拉伯清真寺建筑风格。走过花径的尽头,即为教长室、殡仪馆、沐浴室和大殿等建筑,殿顶勾画着精美别致的花卉图案,殿内宽敞明亮,每天可同时容纳200多人礼拜。湖南维族穆斯林信奉伊斯兰教,至今仍然保持着浓郁的宗教色彩和民族特点。宰牲时,必请阿訇或大师父操刀,否则决不食用。每年在清真寺过古尔邦节和开斋节。


 原文では、この郷のウイグル族はイスラム教を信仰すると書いてあるのみである。
 この文面を注意深く読んでみると、だんだんそのおかしさに気が付いてくる。
 洪武帝が建てたという建物は“荐徳楼”“忠勇坊”“鎮南堂”などという名で、どうもイスラム教に関係するものではなさそうである。それらの名称はかえって儒教的・伝統中国的でさえある。もしかしてこれらは単なる平定の記念碑的な建造物ではなかったか。“鎮南堂”など、まさにそのにおいが濃い。さらにいえば、鎮南堂に洪武帝がたまわったという扁額も、「威震南方(威は南方を震わす)」という字面で、ますますその疑いを強くする。そもそもこれら一連の建物は、もともとは「鎮南経殿」という名称で、ここがイスラム寺院に改築されて清真寺(清真西寺)と呼ばれるようになったのはさらに時代を下った清朝時代、康煕帝の時代(17世紀末)だという。つまり彼ら西ウイグル王国の末裔たちは、当初はイスラム教徒ではなかったのであろう。なかにはいたかもしれないが。
 この宗教の変化は、彼らがここへ移り住んできてからも先祖の土地たる新疆東部(ウイグリスタン)との交流が続いていたことによるものか。それともこれはこの地で近接して住む回族の影響であったのか。また彼らの元来の言語は(まだ生きているというが)、現在の新疆ウイグル自治区において使われるウイグル語と比べてどれくらいの差異があるのか。
 博雅の士の教えを請う。