ジョージ・ベルナツキー『モンゴル人とルーシ』。モンゴル帝国(ジョチ・ウルスとその後継国家)とロシア(ルーシは当時のロシアの名)の関係史。2009年10月02日「土肥恒之 『興亡の世界史』 14 「ロシア・ロマノフ朝の大地」」より続き。
ユーラシア学派のうちに入るとはいえ、モンゴル支配を何でも賛美するわけではなく、ベルナツキーは、少なくともこの本ではそれほど極端な主張をしていない。二百数十年の間支配され、その後も16世紀、完全には17世紀半ばないし18世紀までその後継国家との密接あるいは複雑な交渉が続いたのであるから、何らかの影響をルーシが受けるのは当然であり、その視点からロシア史を叙述するという立場のようである。政治・経済・社会的な影響には、直轄ないし間接支配・略奪・破壊・搾取(貢税)といった負の面におけるものも当然含まれるが、著者は価値判断を下すことなく、すべてを中立的に記している。モンゴルの支配によるそれまで分立していたルーシの合同、結果としての中央集権国家の誕生といういわば肯定的なものも含めて。
それに、ベルナツキーは、ハーンとツァーリの称号について、それぞれ別のものとして、それ以上何の触れるところもない。ツァーリの称号は最初ビザンティン皇帝に対して、ついでモンゴルのハーンに対して用いられたロシア側の自称と述べるのみである(412頁。この点については後述)。
以下は、2010年11月04日「ラヒムジャーノフ 『カシモフ・ハーン国(1445-1552)歴史概論』 ③」からの続きとなる。
注1、「1432年のモスクワ大公即位にあたり、ヴァシーリー二世は、ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)の手から、モスクワで君主たるべしとのヤルルィク〔引用者注・勅書〕を受けた。」の根拠となる史料がわかった。同様の記述がこの本にもあり(341頁)、その注(162)および巻末の参考引用文献リスト(485頁)で、Псковские летописи 1, Псковская первая летопись, А.Н. Насонов, ред. (Москва-Ленинград, 1941) であることが明らかになった。
なおベルナツキーは、ラヒムジャーノフが“ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)”としてある箇所から“ハーン(ツァーリ)”を省いている。もとの Псковские летописи (『プスコフ年代記』)がそうなのかどうか。
(Москва: Ломоносовъ, 5.2011)
ユーラシア学派のうちに入るとはいえ、モンゴル支配を何でも賛美するわけではなく、ベルナツキーは、少なくともこの本ではそれほど極端な主張をしていない。二百数十年の間支配され、その後も16世紀、完全には17世紀半ばないし18世紀までその後継国家との密接あるいは複雑な交渉が続いたのであるから、何らかの影響をルーシが受けるのは当然であり、その視点からロシア史を叙述するという立場のようである。政治・経済・社会的な影響には、直轄ないし間接支配・略奪・破壊・搾取(貢税)といった負の面におけるものも当然含まれるが、著者は価値判断を下すことなく、すべてを中立的に記している。モンゴルの支配によるそれまで分立していたルーシの合同、結果としての中央集権国家の誕生といういわば肯定的なものも含めて。
それに、ベルナツキーは、ハーンとツァーリの称号について、それぞれ別のものとして、それ以上何の触れるところもない。ツァーリの称号は最初ビザンティン皇帝に対して、ついでモンゴルのハーンに対して用いられたロシア側の自称と述べるのみである(412頁。この点については後述)。
以下は、2010年11月04日「ラヒムジャーノフ 『カシモフ・ハーン国(1445-1552)歴史概論』 ③」からの続きとなる。
注1、「1432年のモスクワ大公即位にあたり、ヴァシーリー二世は、ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)の手から、モスクワで君主たるべしとのヤルルィク〔引用者注・勅書〕を受けた。」の根拠となる史料がわかった。同様の記述がこの本にもあり(341頁)、その注(162)および巻末の参考引用文献リスト(485頁)で、Псковские летописи 1, Псковская первая летопись, А.Н. Насонов, ред. (Москва-Ленинград, 1941) であることが明らかになった。
なおベルナツキーは、ラヒムジャーノフが“ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)”としてある箇所から“ハーン(ツァーリ)”を省いている。もとの Псковские летописи (『プスコフ年代記』)がそうなのかどうか。
(Москва: Ломоносовъ, 5.2011)