2009年09月29日「
井上浩一/栗生沢猛夫 『世界の歴史』 11 「ビザンツとスラヴ」 から ②」より続き。
●ビザンツ帝国は、1333年以降、オスマン帝国(当時は侯国)に貢納金を支払っていた。1402年のアンカラの戦いでバヤズィト1世の率いるオスマン軍がティムール軍に破れてその捕虜となり、オスマン侯国が一時的に消滅すると、支払いを止めた。ただしその後を継いだメフメト1世およびムラト2世によって侯国が再興されると、ふたたび貢納金の支払いを再開した(1424年)。
ビザンツ帝国が滅びたあと、第3のローマとしてその衣鉢を継ぐという正義を掲げたモスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)は、17世紀の末まで、クリミア・ハーン国に貢納金を納めていた。いくらビザンツ帝国の後をついだ第三のローマだからといっても、そんなところまで真似しなくてもよかろうに。
冗談はさておき、はじめてこのことを知ったときは、あのピョートル1世(大帝)のロシアにしてなんと、と驚いたのだが、しかしこれは貢納金という名前のせいもあるかもしれない。
中国では、宋(北宋《960-1127》・南宋《1127-1279》)が、それぞれ遼(916- 1125)、金(1115-1234)に貢納金を支払っていたのは有名な事実である。当時の人は歳幣(毎年の贈り物)などと飾って言っていたが、実態は貢納金(銀。ほかに絹といった現物もあった)にほかならない。北宋も南宋も、それにはさまざまな理由があるが、北方のこれら二王朝に軍事力では太刀打ちできなかったからである(くわえて北宋は、遼への対応で手一杯な北宋のいわば足下をみて西方で独立を宣言し軍事的な攻勢に出た西夏(1038- 1227)にも歳幣を支払わざるをえなくなった)。現に、中国側が圧倒的に不利な立場にあった南宋時代の初期は、そのものずばり歳貢と呼ばれて(或いは否応なく呼ばされて)いた。
しかし実情を知ってもまだ、私がそれほどの衝撃を受けないのは、これらの貢納金(北宋時代は遼へは銀10万両・絹20万疋、のち増額、西夏へは銀5万両・絹13万疋・茶2万斤。南宋時代は金へ銀25万両・絹20万疋、のち増減)が、北宋・南宋の経済的実力からすればたいした額ではなかったことや、結局は両国間の貿易で宋側の輸出超過の結果、結局はほとんど宋へと還流していたことを知っているからである。表向き体よく繕ってあるからではない。
●バヤズィト1世が、コソヴォで行われたセルビア・ボスニア連合軍との戦闘で戦死したムラト1世の後を急遽襲い、バルカン半島の戦場から情勢不穏となったアナトリア(小アジア)側へと素早くとって返して、サルハン、アイドゥン、メンテシの諸侯国を討った戦い(1390年)の際には、ビザンツ皇帝(マヌエル2世)も、セルビア、ブルガリア、アルバニアといったバルカン軍などといっしょに、オスマン家の臣下のひとりとして従軍させられていた。
これも一読して衝撃を受けた。バヤズィト1世の行動自体は秀吉の「中国大返し」を想い出させるような快挙であるが、ほとんどコンスタンチノープル一市だけに縮小したとはいえ、それに扈従させられたマヌエル2世の惨めさは、痩せても枯れてもあの1000年の歴史を持ったビザンツ=東ローマの皇帝がと、そぞろ哀れの情を催させる。しかし、これとて北宋・南宋時代の中国のほうがより悲惨かと思える。北宋は金に滅ぼされた。南宋は当初、金の臣下として扱われ、南宋皇帝は金皇帝から冊封を受けた。北宋の都の開封は徹底的に略奪されたうえ、皇帝は捕虜としてはるか北のはて、満洲地方の奥地(現在のハルピン市)まで連れ去られ、そこで何年も幽閉されたあげくに死亡した。金軍にねこそぎに拉致された北宋の皇族のうち、わずかに逃れることのできたひとりが、あちこちを転々としたあげく、長江よりまだ南の杭州にたどりついて南宋を作った。
(講談社 2008年10月)