2011年12月16日「中国では明時代になるとなぜモンゴル(蒙古)をタタール(韃靼)と言い換えたのか」 より続き。
元朝が一三六八年に中国を失ってモンゴル高原に撤退したあと、一六三四年に、元朝の創始者フビライ・ハーン直系のリンダン・ハーンが死ぬまでの北アジア史を、われわれモンゴル史研究者は北元時代と呼ぶ。 (「第三章 モンゴルとオイラトの抗争」「2 北元時代の始まり」 本書98頁)
つまり北元は『明史』がいうように1388年に終わったわけではない。それは明を元に正統(唯一の後継者)としてつなげたい中国側の都合による判断にすぎないということである。中国側は、元の皇統(フビライ系)の(一時的)断絶をもって北元の終わりとするが、モンゴル側にとっては、なにもフビライ系に限らず、チンギス・ハーンの系統であるかぎり、誰がハーン位についても問題はなかったのである(チンギス統原理)。認識(定義)の違いの原因のひとつはここにあろう。
また宮脇氏は、北帰後のモンゴル人が自らを「韃靼」と称したことはなく、蒙古(モンゴル)と名乗り続けていたとされている(98頁)。とすると、『明史』のこの部分(遂稱韃靼雲)は、曲筆ということになる。
なお、宮脇氏はまた、「韃靼」は「タタル」であって「タタール」ではないと念を押しておられる。
この韃靼ということばは、タタルの漢語音訳であって、タタールではない。タタールということばも存在したが、これはロシア語である。〔中略〕モンゴル高原東北部の、もともとトルコ族ではない諸部族の総称としての、タタルという民族名が古代トルコ語にあった。このことばがロシア語に入り、複数形タタール Татары の形で使用された。ロシア人は、モンゴル帝国時代に帝国の全遊牧民をタタールとよび、それがヨーロッパ諸国にまで広がった。ただし、ロシア以西のヨーロッパ人にとって、十四世紀以降のタタールは、ジョチ〔チンギス・ハーンの長子〕の後裔だけを指すことばである。 (同上、100頁)
ということは、私は前回、「韃靼」のあと(タタル)とルビを付けねばならなかったのだな。
さて、ではなぜ「韃靼」ということばが再び用いられたかという問題だが、この所でも直接的な答えは見あたらなかった。
かれら〔北元時代のモンゴル人たち〕が元朝と深い関係にあったモンゴル帝国の後裔であることを知りながら、わざと韃靼(タタル)とよんだのは、明朝の側である。かれらを蒙古(モンゴル)とよぶと、北アジアの民こそが元朝の後裔ということになり、元朝の正統を継いだことを自任する明朝にとっては具合が悪い。そこで、唐末以来モンゴル帝国時代まで、北アジアの民をよぶ呼称として使用されたことのある「韃靼」ということばを復活させたのである。かれらを韃靼とよぶだけで、北アジアの遊牧民にはモンゴル帝国の記憶など何も残らず、文明の中心を離れて野蛮な昔の遊牧民の群れに戻ったかのような印象を与えるのに役立った。 (同上、99-100頁)
つまり、蒙古以外、韃靼しか、北アジアの遊牧民を汎称できる名詞が当時の漢語(古典中国語)にはなかったということだろうか。だから蒙古を使うまいとすれば必然的に韃靼とならざるを得なかったということか? いまだ疑問を存す。
・・・・・・それにしても、一昨年モンゴル関係の論文を書く際に何度も読んだはずなのに、論文に関係した部分以外、まるで頭に入っていない。俺は馬鹿か?
(講談社 1995年2月)
元朝が一三六八年に中国を失ってモンゴル高原に撤退したあと、一六三四年に、元朝の創始者フビライ・ハーン直系のリンダン・ハーンが死ぬまでの北アジア史を、われわれモンゴル史研究者は北元時代と呼ぶ。 (「第三章 モンゴルとオイラトの抗争」「2 北元時代の始まり」 本書98頁)
つまり北元は『明史』がいうように1388年に終わったわけではない。それは明を元に正統(唯一の後継者)としてつなげたい中国側の都合による判断にすぎないということである。中国側は、元の皇統(フビライ系)の(一時的)断絶をもって北元の終わりとするが、モンゴル側にとっては、なにもフビライ系に限らず、チンギス・ハーンの系統であるかぎり、誰がハーン位についても問題はなかったのである(チンギス統原理)。認識(定義)の違いの原因のひとつはここにあろう。
また宮脇氏は、北帰後のモンゴル人が自らを「韃靼」と称したことはなく、蒙古(モンゴル)と名乗り続けていたとされている(98頁)。とすると、『明史』のこの部分(遂稱韃靼雲)は、曲筆ということになる。
なお、宮脇氏はまた、「韃靼」は「タタル」であって「タタール」ではないと念を押しておられる。
この韃靼ということばは、タタルの漢語音訳であって、タタールではない。タタールということばも存在したが、これはロシア語である。〔中略〕モンゴル高原東北部の、もともとトルコ族ではない諸部族の総称としての、タタルという民族名が古代トルコ語にあった。このことばがロシア語に入り、複数形タタール Татары の形で使用された。ロシア人は、モンゴル帝国時代に帝国の全遊牧民をタタールとよび、それがヨーロッパ諸国にまで広がった。ただし、ロシア以西のヨーロッパ人にとって、十四世紀以降のタタールは、ジョチ〔チンギス・ハーンの長子〕の後裔だけを指すことばである。 (同上、100頁)
ということは、私は前回、「韃靼」のあと(タタル)とルビを付けねばならなかったのだな。
さて、ではなぜ「韃靼」ということばが再び用いられたかという問題だが、この所でも直接的な答えは見あたらなかった。
かれら〔北元時代のモンゴル人たち〕が元朝と深い関係にあったモンゴル帝国の後裔であることを知りながら、わざと韃靼(タタル)とよんだのは、明朝の側である。かれらを蒙古(モンゴル)とよぶと、北アジアの民こそが元朝の後裔ということになり、元朝の正統を継いだことを自任する明朝にとっては具合が悪い。そこで、唐末以来モンゴル帝国時代まで、北アジアの民をよぶ呼称として使用されたことのある「韃靼」ということばを復活させたのである。かれらを韃靼とよぶだけで、北アジアの遊牧民にはモンゴル帝国の記憶など何も残らず、文明の中心を離れて野蛮な昔の遊牧民の群れに戻ったかのような印象を与えるのに役立った。 (同上、99-100頁)
つまり、蒙古以外、韃靼しか、北アジアの遊牧民を汎称できる名詞が当時の漢語(古典中国語)にはなかったということだろうか。だから蒙古を使うまいとすれば必然的に韃靼とならざるを得なかったということか? いまだ疑問を存す。
・・・・・・それにしても、一昨年モンゴル関係の論文を書く際に何度も読んだはずなのに、論文に関係した部分以外、まるで頭に入っていない。俺は馬鹿か?
(講談社 1995年2月)