中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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昨日はすばらしいお手紙をいただき、感謝と喜びで胸がいっぱいに。
落ち着いて、温かい心と賢さと実行力を率直に発揮すれば、自分もまわりも幸せになっていくんだなあ。
子どもはちゃんとわかっているから、それを表現できるように導いてあげることが大切なんだなあ。
などなど、いろんなことを教えてもらえて、私は本当に幸せ者 ありがとう
シェアしていただけることがどんなにありがたいことか……私にとっては言葉に尽くせないぐらいのことなんです。
「ありがとうならいもむしゃはたち」って口走っちゃうぐらいうれしいの。
あ、「蟻が10歳なら芋虫は20歳」って、「タンカバイ」といわれる、的屋、香具師の行う口上だそうです。よけいなことをスミマセヌ。
いただいたお手紙、ちょうどご紹介しようと思っていた「師」についての文章とも重なるなあと思いました。
で、「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」(南直哉 玄侑宗久 佼成出版社)からの抜粋です。
第六章 師
●同伴、伴走を経て独り立ちさせる
南 (誰かが来て、その人によって自分が「師」として立つときに) そのときに、相手の志に共感できるか、理解してあげられるかどうかというのがものすごく大事なことです。そして、その相手がどこをねらっているのかということが理解できたら、それを邪魔しないようにしないといけないと思うんですよ。たとえ自分が正しいことを知っていて、「この人間に言うことを聞かせたい」と思ったとしても、その人間があるどこかをねらって踏み出そうとしていたら、まずはその人間の志に共感して、励ましてあげないといけないと思いますね。
つまり、師匠というものは〈半歩か一歩前で同伴し、伴走して、いずれその伴走から外れていくような人〉でないといけないと思うんですよ。そうではなくて、しっかりと手綱をつけて「違う、こっちなんだよ。こっちが正しい。俺が正しいと言う方向について来い」というのは、どうにも違うように思います。
玄侑 ごく基礎的なことというのは、もちろん鼻面を引き回してもらって、覚えるわけですけどね。
南 ええ、そうです。ごく基礎的な作法などはその通りです。しかし、それは師匠ではなくてもいいし、先輩でもいいんです。
「師」と言われる人は、少なくとも「言う力」より「聞く力」がないと駄目ですね。「ああせい、こうせい」ではなく、「どうなんだい?」というのがつねにないと、弟子は育たないと思いました。そのうえで、やっぱりいちばん大事なのは、〈お互いに、ねらっているところを理解し合っている〉ことだろうと思うのです。
師に必要なのは共感と励ましと聞く力、そして、独り立ちさせること。そうだよねえ。
親は師でもあるんだよねえ。
ってことは、「ありがとうならいもむしゃはたち」なんてことを教えてた(もっとすごいのも!)わが母は、反面教師だな、きっと。
本当にね、わが母は「マイマザー」だったしねえ。
わっかるっかなー?
「わがママ」ってこと。 チャンチャン