ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

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脳科学から見ると自分は道化師

2013-01-29 18:38:29 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二 朝日出版社)は、池谷さんが20年前に卒業した高校で、後輩の高校生たちに脳科学の「最前線」を語った講義をまとめたもの(講義は2008年に行われたもよう)。脳とからだの関係や実存とはなにかなどまで考えさせてくれる本です。
 そうなんだよねえと思ったところを、ほんの少しですが抜粋して紹介します。


 2-14 「正しい」は「好き」の言い換えにすぎない
  「正しい」というのは、「それが自分にとって心地いい」かどうかなんだよね。その方が精神的には安定するから、それを無意識に求めちゃう。つまり、「好き」か「嫌いか」だ。自分が「心地よく」感じて「好感」を覚えるものを、僕らは「正しい」と判断しやすい。
 実際、普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違ってるよ」と偉そうに注意するときって、その「間違ってる」を、「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えても意味は同じだよね。「正しい」「間違い」って、脳にとっては、個人的な、あるいは社会的な意味での「好悪」のバランスの問題になってくるんじゃないかな。
 次は、じゃあ「好き嫌い」ってどうやって生まれるのかという話になってくる。
 好き嫌いというのは本能で決まる部分があるとはいえ、学習の結果として克服することもできる。とりわけ人間の場合はそれが顕著だ。だから僕らって趣味や思考は多様だよね。だれもが個性的。

3-2 僕らの「心」は環境に散在する
 心臓がドキドキしているとか、汗をかいているとか、こういった兆候は無意識の世界から生まれて、その変化が再び脳によって感知されて、意識に影響を与える。つまり、なんらかの形で知覚できるようになるわけ。
 そして身体の反応を参考にしながら、僕たちはなんとかしてこれを説明づけたいと欲する。理由を知りたい、原因を追求したいというモチベーションが、僕らの脳にはプログラムされている。
 身体状況を説明するための根拠を、僕らは過去の「記憶」に求める。以前はこうだったから、今回もこうに違いない、と。
 こうすれば説明がつく、と過去の記憶を参照しながら、現状に納得のいく説明をつけていく。
 このプロセスは、広い意味でアブダクションと呼ばれる推論だ。現象を矛盾なく説明するような仮説を考え出すんだ。ただし、それが正しいという保証はどこにもない。当面の問題が解決できればそれでいいってわけ。だから「作話」という奇妙な現象も生まれてくる。
 こうした、身体と脳の相互作用、無意識と意識の相互作用のプロセスの全体、これが「心」の姿だと考えてもらえればいいんじゃないか。
 そのどれが欠けても、私たちの「心」は形成されない。だから「心は脳だけに局在する」と短絡的に考えるよりは(まあ、それでもいいんだけど、でも)、むしろ心は全身に、あるいは周囲の環境に散在すると言った方が適切だと思うんだ。

2-33 僕らは「自分が道化師にすぎない」ことを知らない
 (人間は)いつもゆがんだ主観経験の中を生きている。単に、その推論に論理的矛盾が生じない限り、「自分はウソをついている」ことに気づかないだけのこと。
 不幸にして、日常生活の中では、僕らは「自分がウソつきである」ことに気づくチャンスは少ない。だって行動や感情の根拠が不明瞭だからこそ「作話」するわけでしょ。
 僕らは「本当は自分が道化師にすぎない」ことを知らないまま生活している。根拠もないくせに、妙に自分の信念に自信を持って生きている。
  そんな傲慢な僕らは、やはり「人間って生き物は主観経験の原因や根拠を無意識のうちにいつも探索している」という事実を、もっときちんと認識しておくべきなんだろうね。そうすれば、もう少し自分に素直に、あるいは他人に対して謙虚になろうって思えてくるでしょ。

 

 だれもが「自分にとって正しいこと」をもってるんだよね。そして、自分が思っている正しいことを人に押しつけてしまうことが多い。でもその正しいことって、根拠がないことかも……。
 自分自身に対しても謙虚にならなきゃね。

アホネエ、「先ず隗より始めよ」(まずかいよりはじめよ)という言葉を知っとるけ?

 はいはい。

 よけいなことですが、池谷さんの読み方をけっこう長いことイケタニさんだと思ってました。イケガヤさんなのよね。