ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

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「身体(からだ)の言い分」再読

2010-05-25 11:08:56 | 本や言葉の紹介

武蔵浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 最近、以前に読んだ本を再読する羽目になることが多いです。
 「これ面白そう」と借り出してみるともう読んだ本だったということが多くなり……ということは、順調に老人力がついてきているってことであります。たはは。
でも再読するとまた面白い。
 今回は「身体(からだ)の言い分」(内田樹・池上六朗 毎日新聞社)から、特に心に残ったところをご紹介させてください。


池上  何か縁があって触れた仕事というのは、無意味に触れてくるわけではないから、自分が必ずできる仕事なんです。そんなときに臆病風に吹かれて一歩引いてしまったらだめなんですよ。せっかく扉が開いたんだから、入ればいいんですよね、そこへ。

内田 ほとんどそうなんですけどね。でも、おもしろいことに、若い人で「扉が開いた」そのチャンスの時に、ぴょんと飛び込む人ってほんとに少ないんですよ。ほとんどの人は扉が開いたときには、おびえて後ずさってしまう。「ぼくにはまだそんな準備はできていませんから」とか遠慮して。そんなのわかってるって(笑)。わかったうえで「やらない?」と訊いているのに。結局、キャリアの扉は自分で開けるものだと思っているんですよ。
 ぼくのところにもいろんな学生や卒業生が人生相談に来て、「どんな職業がいいんでしょう」とか訊いてくるんです。これが、どうも明らかに向いていないこと、まるで適性のないことをやりたがる傾向にあるんです。(中略)
 自分に適性があると思っていることに関しては、ある程度客観的な査定ができますよね。(中略)
 適性のない分野ほど自己評価を間違えるということに気づいていない。


内田 今生きているってことは、まさに進化の頂点に立っているみたいなものなんだから。存在する必然性があるに決まっているんですよね。

池上 最新バージョンなわけですから。望みようがないのにね。これ以上。だからこの体を生かすように考えなければどうしようもない。


内田 「取り越し苦労をしてはいけない」というのは、言葉は簡単ですけれど、じつはすごく難しいし、重要なことだと思うんです。(中略) ある程度年をとってくるとだんだんわかってくるわけですよ。取り越し苦労って、かなり危険なものだということが。これは、怒りや嫉妬と同じくらい人間の心身をむしばむ有害なものなんです。取り越し苦労って、要するに、時間を先取りすることだから。(中略) 未来というのは何が起こるかわからないから未来なのに、それをわかったつもりになって、その上、起こるか起こらないかわからないことのうちのマイナス要素だけを確実に起こることだと思い込んで苦しむわけですから。(中略)
 取り越し苦労をしている人って、傲慢な人間だと思うんです。何が起こるか自分はわかっていると思っているという点でまず傲慢だし、お気楽に過ごしているほかの人間に比べて、自分のほうがずっと濃密で重厚な人生を送っていると思っている点でも。態度悪いですよ。


池上 今の自分はこれまでの生き方の通信簿ですから。

●池上六朗氏によるあとがきから
 ふっと思うは神の心、あれこれ思うは人の心、という言葉があると聞いています。あまり計らずに、ふっと思う時と所を得ますと、潜在していた蔭の可能性、「お蔭さま」が、ご縁という形で顕れ向こうからやってきます。それは今の自分にとって都合のよいことだけとは限りませんが、そのことによってふっと気がつくことがあります。そのご縁が都合のよいことであれ、都合の悪いことであれ、すべて自分の経てきたことの顕われとあきらめれば、解決の方法はおのずと開けてくるようです。



 うーん、大人の発言。