たいじゅさんから送られた貴重な古文書?より ありがとうございました
明治43年1月15日、三重軌道は四日市・室山間の軌道布設を願い出た。その年の3月18日、三重県知事から、四日市鉄道(四日市・菰野間)の方が有力であるが、三重軌道との国道付近での交差が危険であると申し添えが来た(三重軌道は焦ったか?)。この時出されている計画図がこれだと推測される。
ここに“ダイヤモンドクロッシング”と呼ぶ交差点がある。
三重軌道側が描いた略図か?
そして、7月21日、三重軌道が四日市鉄道と話し合った結果を答申している。
“四日市軌道は貨物を、三重軌道は人を運ぶのを主としている(ってこれ逆ではなかったのでしょうか?)。交差を避けるのであれば二社の共有路線は不可能で、浜田の北起の運河(阿瀬知川)から両社並行して関西線の四日市駅へ伸ばすしかないが、三重軌道は公道を、四日市鉄道は専用道路を各々で敷くしかない”と答えている。
椙山満先生も、三重軌道は貨物(阿瀬知川沿いに走らせるのが有利)で、四日市鉄道は菰野、湯の山方面への人を運ぶに有利であると書かれていたが?逆になっていて混乱する。
軌道鉄道の認可には、人の利用が有利で、貨物はその次ではなかったのだろうか?三重軌道は初めから四郷地区の産品を四日市港まで運び出すのが目的だった。だから人の乗り降りが多くありそうな諏訪新道を取ったのでは?一方、四日市鉄道は認可されるのに余裕があった?と勘繰りすぎでしょうか。三重軌道さんの焦りが垣間見えるようです。つづく