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表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め64弾丸列車⑭

2020年06月03日 | レモン色の町

昭和7年に鉄道省に入った竹内外茂技師は東大工学部機械学科に入学している。島安次郎の長男 島英雄の7年後輩である。彼は“弾丸列車計画”を初期のころから担当することとなる。

昭和の初めころから、東海道線は輸送量の増加で飽和状態が読めていた。加えて陸軍の大陸進出である。清水トンネルと丹那トンネルが相次いで開通した昭和9年「関西線と東海道線のほかにもう一本、伊勢の桑名あたりから京都へ抜ける(鈴鹿越え)鉄道があってもいいのでは」という案が出され、東京大阪間にもう一本増設しては、いっそのこと高速列車で北京まで伸ばしてはということになった。

この頃、満鉄の『あじあ』号は高速列車をより身近なものにしていた。竹内は島英雄とともに『あじあ』号の調査に赴く。「国鉄の最高速度だった『燕』がまだ百キロも満たないのに『あじあ』号は百二十キロから百三十キロを出した。“やりやがったな”ということですよ」竹内 談。

そして、国内の狭軌と大陸の広軌論争に及ぶ。朝鮮海峡をトンネルでつなげば、広軌の列車そのままで大陸とつなぐことができる。昭和13年には関門海峡トンネル(世界初の海底トンネル工事)に着工しており朝鮮海峡トンネルも実現可能だということだった。

「内地から大陸へという考え方は、東海道の行き詰まり調査を始めるとき、鉄道部の上層部の局長クラスにはすでにあった、我々には直接伝えてはいなかったが、言い方として“北京まで”としていた。それではどうやるのか。大陸への一貫輸送ならば、連絡船で行き来していたのでは時間がかかってしょうがない。関釜連絡船が走っている下にトンネルを掘って鉄道を通すのが最良の方法だということになったのです」

島親子の弾丸列車計画への挑戦が始まる。

 


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