花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

壬申の乱とくるべ遺跡

2021年06月27日 | レモン色の町

壬申の乱に関しては、皆様よくご存じと思います。首謀者は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)でなく別に黒幕がいたという説もあります。ロマンです。

太古の昔から、天皇の席をめぐり、殺し合いが繰り広げられてまいりました。まず、仏教導入派の曽我氏と、神道を守る物部氏の論争で曽我氏が勝利(587年)しますが、その後、曽我氏の横暴が続き、曽我入鹿(そがいるか)は天皇候補者であった聖徳太子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自害に追い詰めます。

頭にきた、中大兄皇子中臣鎌足は、曽我入鹿を殺害(大化の改新645年)しますが、中大兄皇子は天皇になる間もなく、朝鮮半島では百済から援軍の要請が来ます(白村江の戦663年)。しかし、朝鮮半島への進出野望もむなしく、4回の海戦ですべて惨敗。中大兄皇子は天智天皇(てんじてんのう)となって国内の体制固め(律令国家)に入ります。

天智天皇は、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と共に律令国家建設に励みますが、大海人皇子よりも自分の息子である大友皇子(おおとものおうじ)を後継者にと思うようになりました。それを察知した大海人皇子は、危険を感じ吉野へ身を隠します。ある日、吉野で天智天皇の死を知った大海人皇子は挙兵します(壬申の乱672年)。どちらが仕掛けた戦かはわかりませんが、大海人皇子は、吉野から鈴鹿の関を超え伊勢の地を回って(この時伊勢神宮に向かって遥拝しました)不破の関を押さえます。これは朝廷軍(大友皇子)が東国への援軍要請をできなくするためでした。朝廷内の反天智天皇勢力も挙兵し1か月で大友皇子は破れます。

天智天皇の後を継いだ天武天皇(大海人皇子)は、律令国家建設に励みます。大海人皇子がくるべ遺跡を通過の際には、我が軍に着くようしっかりと念押しがあったのでせう。

富田思い出の写真集より

ところで、この時、天武天皇が伊勢神宮へ向かって勝利を祈念した”天武天皇神宮御遥拝の碑”が立つ垂坂山の碑、昭和30年頃はほとんど禿山状態でした。家屋の建設が盛んで伐採が行われたためでしょうか?同じ場所とは思えませんでした。

手前の立つのは、国土地理院の三角点です。

追記:因みにこの碑が立ったのは、大正4年 御即位記念 とありました。

大矢知の遥拝所の(右側)は、昭和16年5月21日 三重懸指定 と刻んでありました。どちらにも天皇崇拝(というよりも戦争の・・・)のにおいがしております。


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