安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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茨城県北部で震度5強

2011-11-20 23:51:14 | 気象・地震
「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」について(第59報)- 平成23年11月20日10時23分頃の茨城県北部の地震について -(気象庁報道発表)

「気象・地震」カテゴリで地震の解説記事を書くのは久しぶりになる。東日本大震災の震源域やその周辺区域で、気象庁が報道発表を行う震度5弱以上の地震は10月は1回も発生せず、11月もこれまで皆無だった。本来なら「余震活動が順調に減衰し、収束に向かっている」と書きたいところだが、事態はそう単純ではない。震度4以下の余震はたびたび起きているし、なにしろ東日本大震災は1000年に1回といわれるほどの規模なのだ。これから一本調子に余震が減少するとは考えにくく、向こう1年くらいは油断できないと思う。

さて、報道発表の中身を見よう。表題から、気象庁がこの地震を東日本大震災の余震と見ていることは明らかだ。震源は茨城県北部、震源の深さ9km(暫定値)。地震の規模はマグニチュード5.3(暫定値)、発震機構は北東-南西方向に張力軸を持つ正断層型(速報)。茨城県日立市で震度5強を記録した。マグニチュードの割に揺れが激しいのは、例によって震源が浅かったためである。

発震機構が逆断層型で発生した東日本大震災と逆向きのエネルギーである正断層型となっていること、張力軸の方向が北東-南西でプレート境界とほぼ並行であること、震源深さが東日本大震災及びその一連の余震と同様、きわめて浅いことなどから見て、今のところ、当ブログも東日本大震災の余震という扱いで差し支えないと考えている。

注目すべき資料としては、リンク先報道発表資料の5ページ前半の震央分布図と後半に掲載されている「上図矩形内の時空間分布図(A-B投影)」だろう。これを見ると、余震全体の規模は小さくなりつつも、中規模の余震は次第に南に移動している。8月頃からは、むしろ茨城県など北関東が余震活動の中心になりつつあることがうかがえる。今後も、この地域では余震活動が活発な状態が引き続くと考えられるので、首都圏を含め、十分警戒を続けてほしい。

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福島県知事・佐藤雄平よ、都合のよいときだけ農家を利用するな!

2011-11-17 23:01:34 | 原発問題/一般
福島市大波地区で生産された米から「暫定基準値」を超える放射性セシウムが検出されたことは、昨日の記事でお伝えした。政府は大波地区産の米について出荷を制限することを決め、福島県にその旨を指示した。

ところで、県外にお住まいの方は福島の地元メディアのバカさ加減を見ることがなくて幸せというべきなのか、見るチャンスがなくて残念というべきなのかわからないが、国際基準の十倍~数十倍という途方もない水準の「暫定基準値」さえ守れないこの状況になっても、福島の地元メディアまだ風評風評と言い張っている。どこまで消費者・国民を愚弄すれば済むのか、はらわたが煮えくりかえるが、この国のメディアは今や子どもにまで「どうだっていい」と言われる程度の水準に過ぎないのだからもう放っておこう(こんなメディアは滅びるなら勝手に滅びればいい)。それより、当ブログが問題にしなければならないのは、福島県政と佐藤雄平知事が子どもの命を犠牲にしてまでも守らなければならないほど、この県の農家と農業は大切にされてきたのか、ということだ。

ここにひとつのデータがある。私の手元にある「福島県民手帳」掲載の「都道府県勢一覧」である。福島県の「販売農家戸数」は80,597戸。茨城県の84,845戸、新潟県の82,011戸に次ぐ3位である。販売農家戸数が8万戸を超えているのはこの3県しかない。人口はこの3県の中では福島が最も少ないから、人口に占める販売農家戸数の割合では、ひょっとすると福島は全国一かもしれない。なるほど、その意味では農家を抜きにしてこの県の政策は考えられない、ということになる。

しかし、データからは別の側面が見えてくる。例えば愛知県と比較してみると、同県の販売農家戸数は51,638戸で農業産出額は3,210億円。これに対し、福島県は愛知県より販売農家戸数が約3万戸も多いにもかかわらず、農業産出額は愛知県より低い2,505億円にとどまっている。販売農家戸数が福島県と同水準の茨城県との比較で見ると、茨城県は農業産出額が4,284億円もあり、福島県を大きく上回っている。

このデータからいえることは、愛知県は福島県より農家1戸当たりの農業産出額が多いということ。その推定される要因は、大規模農家が多いということと、ブランド化により農産物の単価が高いということが考えられる。茨城県の場合も同様である。

昔から、東北の中でも福島県産の農産物は品質がよいにもかかわらず、他県と比べてブランド化が大きく立ち後れているため、安く買い叩かれ農家が損をしているといわれてきたが、数字によってそれが裏付けられた形となった。福島県には小規模農家が多いということも裏付けられた。他県のようにもっとどん欲にブランド化、大規模化を追求していれば、事態は全く違ったかもしれないのだ。

福島県の行政はこれまで小規模経営の中で必死に生計を立てる農家たちを見ながら、大規模化への支援もブランド化への取り組みも不十分だった。そのような形で農家をいわば「放置」してきた福島県の行政が、今頃になって「農業を守れ! 風評被害を許すな!」と叫んでも白々しいだけだ。どう見ても自分の在任中、福島が元気に復興しているように取り繕うために農家を利用しているようにしか見えないのである。

福島には、今この事態になってもなお「県の言うとおりにしていれば悪いようにはならない」と信じ切っている人たちがいる。そういう人たちには目を覚ましてほしいと思う。原発事故が起きて以降の福島県政が当事者能力を欠き、右往左往しているように見えるかもしれないが実際はそうではない。厳しい言い方になるが、福島県政なんて所詮昔からこの程度なのだ。だから、彼らのいうことを額面通り受け取ってはならない。放射能汚染で帰れもしないのに「帰れるかもしれない」という幻想を抱くくらいなら、いっそ西日本などの耕作放棄地に思い切って移り、新天地で農業をやり直す選択肢があってもいいのではないか。

何も「福島を見捨てよ」と言っているのではない。いつまでも自分の土地に帰れるあてもなく、仮設住宅で悶々としながら苦しい日々を過ごすくらいなら、新しい道を切り開く選択肢があってもいいのではないかと問うているのだ。そもそも佐藤雄平知事は、食品の放射能測定値が基準以内だったときは自分が出てきて「ホッとしました」とコメントするのに、基準値を超えたら自分は出て来ずに県庁の役人に会見させている。「手柄は自分、失敗は部下」という、サラリーマンなら絶対に上司にしたくないタイプの知事だ。その上に、消費者を愚民扱いして600bq/kgでも風評呼ばわりするメディアしか持ち得ないこの県を鍛え直さなければならない。そのためには、篤農と呼ばれる人たちが一時的に県を離れるショック療法が必要なのかもしれない。

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本日の放射能測定値

2011-11-17 20:59:01 | 福島原発事故に伴う放射能測定値
・計測年月日、時間
 2011年11月17日 午後6時50分~7時00分

・計測場所
 福島県 西郷村転作促進技術研修センター

・計測時の気象条件(晴/曇/雨/雪の別及び風向、風速)
 天気:晴
 風向・風速:東 3m

・計測結果(単位:マイクロシーベルト/時)
(1)八雲神社境内
  大気中(高さ100cm)   0.82
  土壌(高さ10cm)    1.09

(2)福島県西郷村転作促進技術研修センター正門前
  大気中(高さ100cm)   0.43
  舗装路面(高さ10cm)  0.41

<放射線量測定に関するお知らせ>
次の定期測定は、11月24日(木)に実施する。

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福島県の「放射能隠ぺい」政策、最終破たんへ

2011-11-16 22:14:38 | 原発問題/一般
<放射性セシウム>福島市のコメから規制値超630ベクレル(毎日)

今日は、本来なら原発以外の話題を取り上げようと思っていた。労働問題に関し重要な事実をつかんだのでそれを皆さんにお知らせするつもりでいたが、表題のようなニュースを受け話題を切り替える。

原発事故以降、食品の流通に関する福島県の不誠実、というより犯罪的な政策についてはもはや当ブログごときが繰り返すまでもないだろう。正しい情報が公開されないこともあいまって、原発事故以降、真偽不明の様々な噂が浮かんでは消えた。

子どもに対する被曝限度を1年間20ミリシーベルトまで引き上げるよう要請したのが佐藤雄平・福島県知事だとか、「福島県には放射能被害はない。あるのは風評被害だけだから、県では風評被害という言葉以外使ってはいけない」と知事が県職員に指示したとかいう噂が飛び交った。それを聞いた大多数の福島県民が「あの知事ならやりかねない」と思ってしまうほど、佐藤知事の日頃の行いが悪かったことは事実だし、昨年、福島第1原発3号機でのプルサーマル受け入れを表明して知事選に勝ったときから、それは運命づけられていたのかもしれない(原発を受け入れるということは、事故が起きたときの結果もすべて受け入れる、そういう覚悟を持つということに他ならないが、そんな覚悟がこの男にあったとはみじんも思えない)。

それはともかく、今回、暫定規制値越えのセシウムが発見されたのは福島市大波地区産の米である。大波といえば、もともと線量が高い福島市内でも渡利地区と並んで突出して放射線量が高いホットスポットで、現在も「特定避難勧奨地点」への指定をめぐって揺れている場所である。そもそも、ここより放射線量が低い二本松市で500ベクレルギリギリの放射性セシウムが検出されているのに、それより線量の高いこの地域で検出されないほうがおかしいし、8月に行われた茨城県産の早場米検査でも1キロあたり52ベクレルもの放射性セシウムが検出されている。それにもかかわらず、福島県が行った早場米検査はほとんどの地域が「不検出」ばかりというあまりに見え透いた結果だった。福島県がまともな検査をしていないこと、福島県知事も県の行政も県民ではなく東電の方しか向いていないということはこの段階ではっきりと理解できたから、我が家では直接買い付けルートを持っている秋田県の農家の米しか食べないと早々に決めていたところだった。

福島県知事と県の行政が「放射能は目に見えないし、ネット普及率5割にも満たない福島では地元メディアさえ懐柔すれば汚染米でも何とか売り抜けられる」と考えているとしたら重大な結果を招くと当ブログは常々考えてきた。何事も、最悪を想定し最善を尽くすのが危機管理の基本だが、福島県は全くの逆で、楽観的な見通しの下に根拠なくその場しのぎの対応を続けてきた。その結果がこの有様だ。もはや福島県知事と県の行政が何を言おうと、誰からも二度と信用されないだろう。

今の福島県政、そして佐藤雄平知事のやり方は、はっきり言えば「自分の在任中さえ福島県が滅亡しなければよい。在任中何とか福島が元気に復興しているように取り繕うことができればそれでいい」としか考えていないように見える。しかし、そうしたやり方こそが本当に福島県を滅亡に導くことになりかねない。実際には、この県の消費者も生産者も、知事や県の行政が考えているほど愚かではない。当ブログは、子どもたちを放射能から守るため必死にお母さんたちが勉強し、国や県、そして原子力マフィアどものウソを次から次へと見抜いていく姿を目の当たりにしてきた。

生産者にしても、「500ベクレルさえ超えなければ安全だと国や県が言っているのだから、出荷したもの勝ちだ」としてどんどん出荷する心ない者も一部にいるが、それは全体から見るとわずかに過ぎない。実際には多くの心ある生産者が、自分たちが食べられないものを他人に食べさせるわけにいかないと考え、安全な食を提供するために正確な測定結果の公表を求めてきた。そのことは、福島米、販売は「不検出」分のみ 全農県本部が方針というニュースが示すとおりである。

愚かな消費者、「愚民」による「風評被害」が福島県の農産物全体に及ぶのを恐れた福島県政は、食品検査をまじめに行わないまま、すべてを白とも黒ともつかないグレーゾーンに置き、安全だと言いくるめて売り抜けようとする最悪のやり方を続けた。当ブログは今こそ問わなければならない――このやり方で一体誰が幸せになったのか、と。生産者は自分の生産物が安全なのかどうかも知らされず、後になってから放射能汚染を知らされるとともに、「騙しやがって!」とののしられる恐怖を抱えながら、それでも自分が生きていくために売ることを余儀なくされる。消費者は消費者で、何も見えない暗闇の中でどれが安全な食品なのかわからず、もがき苦しまなければならない。このやり方では生産者も消費者も不幸にしかならないのである。

正確な食品検査をやれば出荷停止が増え、福島県産品の名誉に傷がつく? 冗談じゃない。事実はそれとは全く逆だ。正確な食品検査が行われれば、グレーゾーンから黒になり、出荷停止に追い込まれるものも出るだろう。しかし一方、グレーゾーンから白になり、晴れて自信を持って出荷できるものも出てくる。福島産だから何でも危険ではないのだと証明されることのメリットのほうがはるかに大きい。食品の汚染をどこまで容認できるかは価値観の問題であり、人によって異なるだろう。しかし、少なくとも1キログラムあたり数ベクレル~50ベクレル程度の汚染にとどまるなら、「福島応援のために食べてもいい」という消費者も少なからずいるはずだ。生産者は食べてもらう喜びを味わえる。消費者も自分の中に持っている基準値以内なら喜んで食べられる。消費者も生産者もどちらもが幸せになる。だからこそ正確な検査と数値の公表が求められているのだ。

当ブログは、今のところ福島からできるだけ遠くの食品を選んで食べることで、内部被曝を限りなくゼロに近づける努力をしている。一方で、検査の結果安全が証明されようが福島産は何が何でもダメだ、というほど頑迷ではないつもりである。本当は私だって安全と証明されたら福島産を食べたいのだ。だが、安全が証明されないから避けざるを得ないのである。

頭の悪い佐藤雄平知事は、事ここに至ってもまだこんな単純なことが理解できないようだが、今回の1件で「すべてをグレーゾーンに置いたまま、安全だと言いくるめて売り抜ける」という「放射能隠ぺい」政策は最終的破たんへ追い込まれた。残念なことだが、私たちはもう3.11以前に戻ることなどできないのだ。いい加減で現実を認め、汚染と真摯に向き合いながら、正確な情報を提供する県政へ転換すべきだ。何度でも繰り返すが、多くの消費者は頑迷ではない。安全が確認されれば福島県産でもよいし、危険と確認されれば他県産でも拒否する。ただそれだけのことだ。この非常時、それすらも理解できないような知事に県政トップを委ねる気など私にはさらさらない。もし佐藤雄平知事がそれでも今のやり方を変えたくないというのであれば、残念ながら県知事の職から退いてもらうしかない。

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【転載記事】「原子力ムラ」と仲間内の論理

2011-11-14 00:33:28 | 原発問題/一般
以下の文章は、社会学者・内藤朝雄さんのブログからの転載である。内藤さんは、「今、子どもたちを被曝で殺そうとしているエリートたちが、最も言われたくないと思うはずのことに狙いを定めて書いた。この論理を活用していただければと思う」と、寄稿に当たって述べている。

今の日本の絶望的状況をよく表したものとして、ぜひ皆さんに知っておいていただきたい事実なので、あえて全文を転載することにした。

---------------------------------------------------------------------
「原子力ムラ」と仲間うちの論理     

 内藤朝雄       

『図書新聞』3029号、2011年9月10日

 福島第一原子力発電所が事故を起こし、大量の放射性物質が飛散した。事故直後から、政府の放射性物質の拡散予測システムが働いており、風向きや地形により放射性物質が濃厚に飛散すると予測される地域では、避難させずに放置しておけば多くの人々が被曝し確率的に殺される(確率的殺害については後半で説明する)ことがわかっていた。しかし役人たちは、ひどい被曝が予想される地域の人々に何も知らせず隠蔽した。そのことによって、これから数年から数十年(子どもの場合は数年から十数年)の間に、避難していたならば病気にならずにすんだはずの人々が確率的に病気になり、寿命を短縮せずにすんだ人々の寿命が確率的に短縮することになった。日ごろから、もちつもたれつで生きていた役人たちの仲間うちの論理が、人の命よりも優先された。

 それは、いじめ研究にたずさわる者が繰り返し目にする、いじめ自殺に対する学校関係者たちのふるまいと同じである。すなわち、人の命が失われたことに対して、マス・メディアが大々的に報道し、広い社会がゆゆしき問題としているにもかかわらず、学校関係者たちは、それを驚くべき露骨なしかたで軽視し、隠蔽しようとする。外の社会がなんと非難しようと、自分たちは日ごろのの仲間うちの世界に埋め込まれ守られているという、強烈な感覚を、学校関係者たちは生きている(拙著『いじめの講造:なぜひとが怪物になるのか』講談社現代新書)。

 またそれは、非加熱血液製剤によって薬害エイズが広がり感染した患者が次々と死んでいくにもかかわらず、仲間うちの論理で、非加熱製剤を投与し続けた医師たちのケースと同じである。安全な加熱製剤「クリオ」を使うことを示唆した助教授に対して、教授は「クリオを推すと君の将来はないよ」と言ったと報じられた。

 今回の原発事故で多くの人々は、こういう「ムラの仲間たち」のおかげで被曝して癌になったり死んだりしなければならない。「原子力ムラ」とは、こういう仲間たちの代名詞である。それは、原子力発電の利益に直接関わる(狭い意味での)「原子力村」の中枢から離れていても、農林水産省の流通・消費・安全担当や、文部科学省の小中学校担当のようなところにも、広がっている。どこを切っても同じ顔があらわれる金太郎飴の絵柄のように、「ムラ」があらわれ、人の命よりも仲間うちの都合が優先される。

 こういう人たちは「組織の陰に隠れていれば何をやっても許される」という安心感があるかぎり、自分たちがやっていることが大きな社会問題になってもまったく動じることなく仲間うちの論理で動き続ける。彼らから隠れ場所を奪うことが重要だ。そうでなければ、いくら社会問題にして批判しても、彼らは同じ事を続ける。彼らから隠れ場所を奪うことで、人々を被曝による病や死から救うことができる。

 ルポライターの広瀬隆と明石昇二郎は、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの山下俊一・長崎大大学院教授(現在、福島県立医大副学長)らを、「福島県内の児童の被曝安全説を触れ回ってきたことに関して、それを重大なる人道的犯罪と断定し、業務上過失致傷罪にあたるものとして刑事告発した」(『週刊朝日』2011年07月29日)。告発される前、山下俊一教授は記者から「発言が批判されているが」と質問され、「ご心配なく。大学が守ってくれますよ」と語った(『週刊文春』2011年6月2日)。その後、『東京新聞』に次のような記事が載った(2011年7月28日)。「原発事故に直撃された福島県で今月、脱原発団体が批判する学者や機関と県内の大学との連携の動きが相次いだ。福島大学は独立行政法人・日本原子力研究開発機構(原子力機構)と連携協定を締結。福島県立医大では『年間一〇〇ミリシーベルトの被ばくまで安全』と講演した山下俊一・長崎大教授が副学長に就任した。地元では『大学の権威で、被害の訴えが封じられるのでは』と、懸念する声も漏れている」(私は、この連携と人事は、これから自分たちが責任を問われかねない被曝被害の隠蔽と証拠隠滅のために、「原子力ムラ」が福島県の医学界を独占支配する布石ではないかと疑っている)。大学はみごとに山下教授を守っている。いっけん些末な地方大学の人事と思われがちだが、これを許すと、自分の利益と社会的地位のために人を確率的に殺す「原子力ムラ」のエリートたちにとっての「守られている」という安心感を、確固たる既成事実として確立してしまう。またこれを許さないことは、これから確率的殺害を行う「原子力ムラ」エリートたちの安心感を掘り崩すことによって、間接的に多くの人々の命を救う効果をもたらす。「原子力ムラ」の生命を維持する根本栄養素は人事である。

 原発事故による被曝の主要経路は、初期の短期的な外部被曝から、水や食物を介した内部被曝へと変わる。チェルノブイリの時も、多くの子どもたちを殺したのは、飲食物を介した内部被曝であった。食品に含まれる放射生物質は、長期低線量内部被曝によって自然の摂理を逆転させ、これから長く生きるはずだった若い命ほど死にやすく、老いているほど死ににくい、生存曲線の地獄を生み出す。

 この生存曲線の地獄をこれから日本で生み出す主役は、危険な安全基準値を設定し、汚染されたものを流通させる許可を与えて、人々の口に毒を入れる、厚生労働省や農林水産省の役人たちだ。ある意味で、東電はすでに人を被曝させて数年後から数十年後(子どもの場合は数年後から十数年後)に大量の人々を確率的に殺してしまったが、これから人を殺すのは厚生労働省と農林水産省だ。この前半は絶望であるが後半には希望がある。厚生労働省と農林水産省の確率的殺害ははじまったばかりであり、まだ完了していないからだ。厚生労働省と農林水産省を監視し、告発し、人命を軽視する政策を阻止することによって、多くの人の命を救うことができる。

 今のところ、日本の国土の半分は汚染されていない。農林水産省は放射性物質に汚染されて処理に困った汚泥を肥料にして流通させる許可を出し、さらに放射性物質に汚染された肥料、土壌改良材、培土、家畜飼料、養殖魚用飼料の使用を許可した。また、環境省は放射性物質で汚染されたがれきを日本中にばらまく許可を与えようとしている。これにより、まだ汚染されていない国土の半分も汚染されてしまう。しかし、これを阻止することによって、国土の半分を汚染から守ることができる。

 日本社会は、原子力発電をめぐる政界・財界・官界・学会(御用学者)・マスメディア界のエリートたちの利益と脅しのネットワークに支配されてしまっている。私たちはそれを「原子力ムラ」と呼んできたが、原子力に反対する良心的な学者や地方自治体首長などを、脅迫したり尾行したり罠にはめたり仕事を奪ったりする方法を考えれば、原子力マフィアと呼んだ方が正しい。彼ら政・財・官・学・報のエリートたちは、日本人を確率的に殺す敵になってしまった。日本人が殺されるか、原子力マフィアにのみこまれたエリートたちをその責任ある地位から放逐するか、この国の運命は二者択一になった。ここには決定的な不平等がある。彼らは地位を追われるだけであるが、私たち日本人は命を奪われる。エリートたちの社会的地位のようなくだらないもののために、私たち(特に子どもたち)は命を奪われるのだ。

 ここでは、確率的殺害という概念を以下のような意味で用いている。すなわち、これをすると、たとえば1万人のうち1人死ぬところが、1万人のうち100人死ぬことになるとわかっていて、あるいは利害関係のない第三者の専門家であれば納得のいく論理によってそれを指摘されながら、生命を守るため以外の理由でその行為を行ったり、この意志決定に関与したりした者は、確率的殺害を行ったといえる。実際に大量死の結果に至った場合、彼らは思い刑事責任を課されなければならない。

 「組織の陰に隠れていれば、名前を隠しながら、仲間うちの都合で何しても許されるということは決してない。『このわたし』の実名のもとに責任の所在があからさまになる」、という現実をつくりあげることによって、日本中枢のエリートたちから人々の命を守ることができる。

 今回の放射能汚染は日本人だけではなく、人類に対して地球規模で甚大な被害をもたらすものである。原子力マフィアに乗っ取られた日本政府はすでに対処能力を失っているので、日本は原子力関連の部分においてだけ人類に対して主権を放棄し、放射能汚染対策に特化した部分的暫定世界政府に統治された方がよい。実際的にも、福島原発事故は日本一国の能力で対処できるレベルを越えている。また世界各国に対する損害賠償も払いきれない額になるだろう。主権を放棄した方が日本の国益にもかなっている。原子力マフィアのエリートたちは、人類の名において、人道に対する罪の咎で、ニュルンベルク裁判でナチスが裁かれたように裁かれる必要がある。彼らをきちんと裁いたうえで、原子力発電についての事実を知らされてこなかった日本の大多数の非エリートの人々は、世界から許してもらう。

 福島原発事故が、これから人類がトピック限定の世界政府を形成する時代への第一歩となることを願う。たしかに全面的世界政府は危険かもしれないが、人類の歴史はトピック限定の世界政府を必要とする局面に入ったといってよい。日本社会が原子力マフィアに乗っ取られてしまっている現状では、まず何が起こっているかを即座に英語に翻訳し、世界に発信する活動が必要になる。国内では無敵の原子力マフィアも、被曝し地球を汚染された世界の怒りによって命脈が尽きるであろう。

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本日の放射能測定値

2011-11-10 20:30:06 | 福島原発事故に伴う放射能測定値
・計測年月日、時間
 2011年11月10日 午後6時45分~6時55分

・計測場所
 福島県 西郷村転作促進技術研修センター

・計測時の気象条件(晴/曇/雨/雪の別及び風向、風速)
 天気:晴
 風向・風速:西南西 1m

・計測結果(単位:マイクロシーベルト/時)
(1)八雲神社境内
  大気中(高さ100cm)   0.76
  土壌(高さ10cm)    1.17

(2)福島県西郷村転作促進技術研修センター正門前
  大気中(高さ100cm)   0.45
  舗装路面(高さ10cm)  0.42

<放射線量測定に関するお知らせ>
次の定期測定は、11月17日(木)に実施する。

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経産省前座り込み「幻の演説原稿」

2011-11-09 23:47:59 | 原発問題/一般
さて、11月6日付の記事でご紹介していたとおり、当ブログ管理人は「女たちの経産省前100人座り込み」にあわせて、A4で3枚にも及ぶ「演説原稿」まで用意していたが、女性パワーの前に日の目を見ないまま終わってしまった。

とはいえ、経産省が過去に何をしてきたかを読者の皆さんに知っていただくいい機会でもあるし、せっかくの演説原稿をこのままお蔵入りさせるのももったいないので、ここにご紹介しておく。返す返すもあいさつの機会がなかったのが残念だ。

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 座り込み中の皆さん、お疲れ様です。皆さんの頑張りに心から感謝と敬意を表したいと思います。

 「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉があります。しかし今、皆さんは孤立などしていません。ひとりではありません。ウォール街は今この瞬間も若者たちに占拠され続けています。スペインでは50万人もの人々が格差是正を訴え直接行動を起こしました。ギリシャではゼネストによる闘いが続いています。

 10月26日、3日前の米国ウォール・ストリート・ジャーナルによると、1977年から2007年までの30年間で、米国の全世帯平均では62%、所得が上がりました。しかし、その大部分は最上位1%の富裕層が取ってしまい、下位20%では18%しか所得が伸びていないそうです。一方、最上位の1%では275%も所得が伸びている。つまり30年間で4倍近くになったわけです。富めるものはますます富み、貧しいものは貧しいまま…格差の拡大を裏付ける数字がはっきりと出ています。

 今年の8月頃から、米国でバフェットさんという、世界3位の富豪がいて、「私には増税を引き受ける用意がある。米国政府は貧困層でなく富裕層にもっと課税せよ」と訴えて話題になっています。米国では源泉徴収、つまり税金の天引きという制度がないので、サラリーマンもみんな確定申告をするわけですが、このバフェットさんという方が確定申告をしてみると、自分より自分の秘書のほうが税率が高かった。大富豪の自分よりはるかに給料の少ない秘書のほうが税率が高かったそうです。それでバフェットさんは、「あまりに金持ち優遇過ぎて、おかしいじゃないか」と訴えているのです。世の中には変わった人もいるものだと思いますが、ともかくも、富裕層が自分でおかしいと思うほど、今、世界中で金持ち優遇の度が過ぎて社会が維持できないところまで来ているのです。

 こういう経済格差を生んだのは誰か。日本では経団連、自民党、そして経産省。経産省は原発推進以外にも数えるのも面倒くさいほどの悪事を重ねています。原発のことは、もうこの2日間で皆さんがたくさんお話ししたと思うので、私はそれ以外のことを話します。まず農業の自由化。これは農水省の責任ですが、農水省は本当はやりたくなかった。それを、日米貿易摩擦が激しくなって、何とかしろと言われた自民党と経産省が、自動車などの製造業を守るために農業を差し出した。これが第1です。

 次に大店法の廃止。大規模小売店舗法という法律が昔ありました。これは、大型店が出店してきて地元商店街の個人経営の小さなお店がつぶれないように守る法律です。大型店の出店をやめさせることはできない建前になっていましたが、実際には大型店を出すときは地元の商工会議所の意見を聞かなければならないということになっていました。意見は商工会議所が出すのではなく、地元の商店街のオヤジさんたちが、商業活動調整協議会(商調協)というものを作って、そこで意見をまとめる。だから、商店街のオヤジさんたちがその商調協をボイコットして、いつまでも意見を出さないと、商工会議所がいつまでも意見を出せないので、大型店が出店できないわけです。実際に、この引き延ばし戦術で大型店が出店をあきらめてしまい、商店街が守られた、こういう実例もあるわけです。

 ところが、1980年代後半に日米構造協議というものがありまして、米国がこれにいちゃもんをつけてきた。米国の大手、ウォルマートのような大型店が自由に出店できないじゃないか、といってきたわけです。米国のポチである経産省は、ワンワン(わかりました)と言って大店法を廃止した。このせいで、日本中どこに行ってもイオンやダイエーやイトーヨーカ堂ばっかりになってしまい、オヤジさんたちの店はみんなつぶれ、地方の駅前はシャッター通りになってしまいました。これが悪事の2つめです。経産省というのは本当に厚かましい組織でして、過去に自分たちがやってきたこういう悪事を反省もしないで、今度は買い物弱者の問題に関する研究会なるものを勝手に立ち上げて、地方で買い物難民が増えたから宅配サービスを経産省が中心になって育成しましょうなどとふざけたことを言っている。それより自分の過去を反省する方が先だと思います。反省もしないで原発を再稼働しようとしているのと全く同じです。反省だけなら猿でもできるというCMがありました。経産省は反省もできないのだから猿以下です。

 悪事の3つめは、とにかくあらゆることを引っかき回す引っかき回し屋だということ。2008年暮れにリーマンショックが原因で大量の非正規労働者が首を切られました。日比谷公園に年越し派遣村ができた。厚労省はこのとき、家も仕事も失った人のためにセーフティネットをなんとか作ろうと動き始めた。そこに横から経産省が割り込んできたんです。「企業は内部留保を吐き出せという人がいるが、企業の資産はほとんど固定資産なので吐き出しはできない。工場などの固定資産を現金化するために売ったら今度は工場閉鎖になってまた失業者が増える」などといいながら、「厚労省にはセーフティネットは作れても仕事作りができない。だから、産業振興とセットで雇用対策を我々にやらせてもらう」と割り込んできてさんざん引っかき回した。そのあげく、セーフティネットはできず、企業に有利な制度だけがそのまま残ってしまった。労働者派遣法も残ったままです。これが悪事の3つめです。ちなみに企業の資産はほとんど固定資産などというのは完全なウソです。今年3月の時点で、日本企業全体で200兆円の内部留保が現金である。これは日銀の統計で証明されています。企業は儲けすぎて笑いが止まらないくらいなのに、経産省は国民に平気でウソをついてまで企業と経団連を守る。これも原発と全く同じです。

 そして、今になってまた今度はTPPを推進しようとしている。TPPは単に農業問題ではありません。医療を自由化して外国の企業が病院を経営できるようにするなどの内容も入っています。みなさんは企業が経営する病院なんかで治療を受けたいですか? お金を出せる人には上、普通の人には並、貧困層でお金を払えない人はミニなんて診療メニューが並んでいる。そんな牛丼屋みたいな病院なんていやです。でもTPPを認めれば、企業が入ってきて、いずれはそういう風になります。

 TPPは医師会も農協も反対しています。皆さんのこの座り込みは27日から始まりましたが、その直前には全中、農協の中央団体が日比谷野音に3000人集めて集会をやりました。25日と26日は農協青年部が国会前で座り込みもしました。でも、マスコミはやっぱり推進派の半分くらいの不当に小さな扱いでしか取り上げない。皆さんが怒っていらっしゃる原発と同じです。NHKは日本放送協会じゃなくて日本偏向協会、民放は偉い偉い経団連と電気事業連合会の提供でお送りいたします。これが日本の現実です。

 「心の目で見なくちゃ物事は見えないんだよ」と星の王子さまは言いました。ジャーナリストの立花隆さんは、「何が伝えられているかよりも、何が伝えられていないかのほうが何倍も重要だ」と仰っております。ですので皆さん、心の目を見開いて、見えないものを見る訓練をしてみましょう。放射能が見えるかもしれない。子どもさんに迫り来る危険がきっと見えるはずです。それを見ることができる私たちが声を上げていきましょう。

 経産省のバカどもは私たちの正反対で、見えているものすら見ようとしません。猿でも反省できるのに反省もしません。こんな役所、もう潰した方がはっきり国民のためになります。だから私は今回、自分で経産省廃止法案を作りました。脱原発法案、原発の運転を年内いっぱいで禁止する法律、これも作りました。作って、各政党に提案して、国会に提出してくれとお願いしています。共産党からは、提案したその日に回答がありました。ただ、単に早いだけで「今後の政策立案の参考にさせていただきます」と素っ気ない回答でした。自民党で脱原発を訴えている異端中の異端の河野太郎さんは、事務所の方によると脱原発法案には興味を示していたそうです。でも国会に法案を提出するには、50人の議員が必要だそうで、太郎さんひとりではどうにもなりません。だから私たちがもっともっと声を上げて、議員を変えていきましょう。別に社民党や共産党でなくてもいい。子どもたちが安全に生きられない原発なんて今すぐいらないんだという考えを持つ人が増えるなら自民党でも民主党でもいいと思います。

 私は福島で今も暮らしています。ある福島のお母さんは、「私たちが使っている電気で人が傷ついたり死んだりするのなら、もう私は今日からろうそくでもいい」と言っていました。たかが電気ごときに殺されてたまるか、それが国民の声であり、今ここで座り込んでいる皆さんの総意であろうと思います。もう一度最初の話に戻ってしまいますが、私たちは少数派ではない。多数派なんです。1%が99%を支配する社会が間違っていると思うなら、明日から99%が支配する世界へと変えていきましょう。東京がすぐに変われないなら、一番苦しんでいる福島から立ち上がってみんなで変えていきたいと思います。頑張りましょう。ありがとうございました。

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除染は福島を救わない

2011-11-07 23:03:44 | 原発問題/一般
都市化と福島首都移転(中山幹夫さんのブログ「Approaches」)

最近は大手ニュースメディアの記事より個人ブログのほうがいい記事を書いていることが多くなった。この中山幹夫さん(神田外語大学)のブログの記事は、冷静な立場で今の「除染ブーム」に異を唱えるものとして注目したい。

福島県内、特に県庁所在地の福島市や主要都市の郡山市では、相変わらず放射線量が下がらないため、避難・疎開を求める声も根強いが、残念ながらその声は多数派を形成しているとはいい難い状況にある。避難は放射能からの住民の「隔離」であり、無用な被ばくを防ぐという住民防護の観点からは最も有効な解決策であるが、最大の問題点は「避難」が一時避難に終わらず、事実上の移住に近い状況を生み出すことにある。避難派も残留派もその点は理解していて、だからこそ地元行政は「避難などさせたら二度と彼らは福島に戻ってこない」として頑強な抵抗をしている。避難当事者にしても、避難が単なる一時避難ではなく移住だということを理解しているからこそ、「避難先での長期間の生活をどうしていくか」の解決策を持ち合わせず、結局は残留せざるを得ないのである。

実は、福島県内では6月くらいまで、避難を求める人と残留を希望する人の勢力は拮抗していた(残留派には高齢者や地元の名士が多いということと、声の大きい人が多いという意味で発言力は彼らのほうが大きかったが)。しかし、行政が県民のために何もせず、時間ばかりがいたずらに過ぎていく状況に見切りをつけて、避難できる人は早々に避難してしまったためこのバランスが崩れてしまった。

東北では冬に荷物を抱えて移動するのは大変なことなので、大規模な住居移転は冬を避ける傾向がある。年内に避難を考えている人がいるとしたら、冬が来る前の今の時期に集中するはずだが、街を車で走っていても、6~7月頃は毎日のように見かけた引っ越し業者のトラックも最近はほとんど見かけなくなった。どうやらいま福島に残留している人たちは、本当に移動する気がないか、避難したいながらも本当に経済的に困窮して当座の移動費も出せないかのどちらかのようなのである。

こうした中、7月頃から急速に除染の動きが出て、それはあっという間に福島県内の多数を占める残留派の心をしっかりと捉えた。事の発端は国会での児玉龍彦・東大アイソトープ研究所長の「怒りの告発」がきっかけで、これが避難一辺倒から「避難と除染の両輪」へ、そして「除染一本やり」への変化を形作ってきたように思う。ネット上には、児玉氏を「避難から除染に世論を誘導するために、反対派を装って政府側が送り込んだ鉄砲玉だ」という、いささか気の毒で一方的な見方も存在している。

政府や児玉氏の思惑がどうであれ、現実に避難できない/する気のない住民にとって、除染はまるで放射能をすべて消し去ってくれる魔法のように見えるのだろう。しかし、地元も学者もメディアもこぞって過大とも思える一大キャンペーンを張るほど除染は有効な手段なのだろうか?

その疑問に見事に応えてくれているのが冒頭の中山氏のブログである。彼のブログに対し、当ブログの付け加えるべきことは何もないというほど見事に当ブログの言いたかったことを代弁してくれている。

福島市内で、国際的環境団体・FoEJapanと福島老朽原発を考える会(フクロウの会)が共同で行った除染の実証実験がある。その結果は「放射能汚染レベル調査結果報告書~渡利地域における除染の限界」として公表されているが、結論から言えば福島市渡利地区での除染に効果はほとんど見られなかった。四方を山に囲まれたすり鉢の底のような渡利地区は、少しばかりの除染をしても、雨が降るか風が吹くかすれば、どこからか新たな放射性物質が落ちてきて、線量は元に戻ってしまう。渡利地区の特殊性はあるのかもしれないが、一般的に除染は、

(1)高線量地域では効果がなく、低線量地域ほど効果が高い
(2)汚染が広範囲かつ面的に拡大している地域では効果がなく、汚染が狭い範囲かつスポット的なものである場合には効果が高い

・・・という傾向があることが既に明らかになっている。

つまり、除染というのはむしろ、首都圏のホットスポットのような場所、それも周辺は低線量なのに、子どもたちが遊ぶ公園の中のある一角だけ突出して線量が高い、というような場所でこそ効果をあげうるものだというべきだろう。福島市のように、汚染が面的に広がっているところでは、除染に効果は期待できないといってよい。

現実にそこに住民がいる以上、住民にとって被ばくを最少に減らせるベストの手法を採用する義務が行政にはある。本来ならそれは避難・疎開であるべきだが、福島市や国は、初めから避難したくないという住人がいるのを知った上で、あえてその人に意向調査をし、「ほら、住民だって残りたいといってるじゃないか」として渡利地区住民の避難の要求を却下するという、姑息で卑劣なやり方を使ってまで、頑なに避難を拒んでいる。

当ブログがこうしたやり方を卑劣だと思うのは、「住民の避難を拒む」という意思を実現するために、行政が残留派の住民を利用していることである。避難させる気がないなら「市としては特定避難勧奨地点への指定は必要と思わないので行わない」とはっきり言えばいいではないか。それなのに、残留派の住民を持ち出してきて避難派の住民と闘わせるこうしたやり方は、必ず住民間に亀裂を生む。「俺たちが避難させてもらえないのはあいつが残りたいと答えたからだ」ということになり、避難派の住民は意向調査に回答した残留派の住民に憎悪を募らせることになりかねないのだ。むしろ、何をやっても叩かれる地元行政・自治体が、自分たちを防衛するためにあえて積極的に住民間に亀裂を持ち込もうとしているようにさえ見えるのである。

なぜ、こうまでして地元自治体は住民の避難を拒み、除染に固執するのか。「住民がいなくなれば経済が崩壊する。地元経済界の「経済活動」を守るために住民の命を差し出しているのだ」という批判が、避難を求める住民からは聞こえてくる。もちろんそれも事実の一側面ではあるのだろう。でも、それも当を得た批判でないように当ブログには思えるのだ。

中山さんのブログは「除染の利権」を指摘する。「いつまでも続く除染に群がる利権が生まれる。苦労が振り出しに戻るから除染ビジネスはいつまでも続けることができる。たとえ無駄であっても住民に希望さえ持たせ続けていれば、いくらでも儲けることができる格好の除染利権だ。「住民のために避難より除染」は大嘘である。本当の理由は避難は儲からないが除染は儲かるからだ」と中山さんは看破する。

本当は当ブログが薄々感じながらも恐ろしくて口にできなかったことを、中山さんはさらりと指摘してくれた。もしこれが避難には目もくれず除染に固執する本当の理由だとするなら、「除染の効果はなければないほどよい」ということになる。全く転んでもただでは起きない恐るべき者たちだ。福島県民の命も踏み台にして、それでも自分たちさえ儲かればそれでいいということらしい。

除染が利権かどうかを見極める手っ取り早い方法を当ブログ読者だけにお教えしよう。簡単なことだ。除染事業を「誰が受注するか」を見ればいい。もし受注するのが東京電力の関連会社なら、それは完全な「原子力利権」と思っていい。受注するのが大手ゼネコンなら、それも利権だが、この場合は、利権の分捕り合戦において原子力村が一定の譲歩を強いられたことを意味する。除染が利権でないと断定できるのは、受注者がこのどちらでもない場合に事実上限られる。

除染をもしこれらの者が受注するなら、住民は除染に過大な期待などかけずにさっさと避難すべきである。チェルノブイリでも、最初の数年間は地元に残りたいという住民のため除染があちこちで行われたが、結局効果が出ず、3~4年も経ってから避難命令が出された地域もあったようだ。その間、住民は無駄な被ばくを強要され続けた。福島で同じ歴史が繰り返されようとしているように思われる。

しかし、考えてみれば除染が効果を上げ得ないのは当然のことだ。除染は放射性物質を減少させるのではなく単に移動するに過ぎないからだ。渡利地区で除染を始める始めるといいながら手つかずになっているのも、除染後の汚染残土の仮置き場が見つからないからである。人口20万人を擁し、人口密度も高い県庁所在地で汚染残土の仮置き場を見つけることは不可能に近い。しかも放射性物質の総量は、半減期以外の理由で減ることはない。除染がいかに「言うは易く、行うは難し」であるかはこれだけでも明らかだろう。

こんな言い方をしたら波紋を呼ぶかもしれないが、人の健康と命に関わることなので当ブログはそれでも言わなければならない。繰り返しになるが、除染というのは単なる放射性物質の移動に過ぎない。その意味では清掃と似ている。自宅を掃除すれば、自宅は確かにきれいになるが、それで出たゴミは処理場に運ばれるだけだ。単に自分の目の前からなくなったに過ぎないだけで、そのゴミは処理場が引き受けなければならない。

除染問題もそれと同じことである。除染が放射性物質を消し去ってくれる魔法であるかのように思っている人たちは物事の表面しか見ていない。自分の家を掃除し終え、そのゴミが処理場へ運ばれていくのを見て「きれいになったね」と言うだけの人である。そのゴミがどこに行き、どのように地球環境に影響を及ぼすかには関心がない、というより想像力が及ばない人たちだ。

FoEJapanをはじめ、環境保護運動に携わってきた人たちは、自分の家を掃除することよりも、ゴミがどこに運ばれどのように処理されるのか、そしてその処理方法が地球環境を守る上で適切かどうかのほうがはるかに重要だと常に考えてきた。だから、除染のバカバカしさを理解しているはずだし、放射能がれき問題にも早い段階で気がついたはずである。今頃になって、勉強の足りないメディアは放射能がれきを受け入れる自治体がないとか、首都圏のゴミ処理場が満杯でどうするのかなどと寝ぼけたことを言っているが、ゴミ問題をずっと追ってきた人たちにとってはそんなことはとうにわかっていたことである。たまたま、処理場に搬入されようとしているのが汚染がれきであったために、これまで隠されていたゴミ問題が表面化しただけのことであり、原発事故が起きる以前からゴミ問題は存在していたのだ。

渡利地区を避難のための「特定避難勧奨地点」に指定するよう求める住民と、除染でお茶を濁しながら避難は決して認めたくない行政との間では、今日も不毛な消耗戦が続いている。避難させろ→ダメだ→ダメな理由を説明しろ→住民は残りたいと言っている→それはお前らが残りたい住民だけに意向調査をしているからだ、俺たちは避難したいから指定しろ→避難させないとは言っていない→それならなぜダメか説明しろ→国の方針は除染だ→除染は効果がないと証明されている→それでもやらせてほしい→効果がないとわかっているのになぜ続けるのか、避難させろ→ダメだ→以降、振り出しに戻って繰り返し、というループで同じ議論がぐるぐる回っているだけである。そして、この終わりなきループ議論をしている間にも住民は被ばくを重ねていく。このままではいずれ健康被害は避けられないだろう。

結論。除染は福島を救わない。住民は避難すべきである。どうしても経済的、社会的事情があって避難できない人は、民間放射能測定所などを積極的に利用しながら、食品の放射線値を測定し、当面、内部被ばくだけは絶対に避けることが大切である。

仮に、年間被ばく量が1ミリシーベルトを越える地域を、すべて国の費用負担で除染するとしたら、その額は400兆円に達するという試算もある。これだけの費用を負担してなお、効果が上がるかどうかさえわからないのだ。現在でさえ日本の借金は1000兆円もある。この上400兆ものカネを費やし、効果が上がるならまだしも、効果がなかった場合、400兆をドブに捨てて借金で日本沈没ということにさえなりかねない。それは、原子力村のために日本が滅びるということを意味する。本当にそれでいいのか。それより避難をさせるべきではないのか。400兆ものカネがあれば、全被災者を避難させて、避難者全員に豪邸を建ててもまだお釣りが来るだろう。それで避難者の健康が守られれば、健康な避難者たちの力の下、新天地で新たな産業を興し、福島での経済損失も補うことができる。

避難と除染のどちらが正しいか、もはや言うまでもない。

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「女たちの経産省前座り込み」を終えて(感想)

2011-11-06 19:48:58 | 原発問題/一般
10月27日から11月5日まで、経産省前で10日間にわたって続けられてきた女たちの100人座り込みが終わった。途中、デモあり、ヒューマンチェーン(人間の鎖)ありと盛りだくさんだった行動は様々な共感と反響を呼び、成功に終わったと総括してよいだろう。

私の目から見ると、この座り込み行動は開始前からその成功を約束されていた。妻が座り込みの事務局メンバーとして参加者受付担当をしていたのだが、福島県内からの参加者は開始直前に100人を突破、県外からの参加者に至っては10月初旬からすでに100人を大幅に超える状況にあったからである。もちろん、この手の運動は単に参加者が多いことをもって成功といえないことはご承知の通りである。烏合の衆はどれだけ規模が多くなっても烏合の衆に過ぎないし、単に数が多いことだけをもってあらゆる運動が成功するとしたら、加盟者800万人を擁する「連合」など今頃あらゆる争議で連戦連勝になっているはずだからである。実際には「連合」は結成の時がピークで、その後の20年はひたすら資本家に陣地を明け渡す後退の歴史でしかなかった。

私がこの運動の成功を確信していたのは、その参加者数もさることながら、組織第一、保身第一の男性主導の運動が持ち得なかったあらゆる要素…「手作り」「多様性」「正直さ・実直さ」「実行力」「勇気」といったものをすべて満たしていたからである。参加者たちは、100人いればそれこそ100通りの方法で様々に反原発をアピールした。すべてを自分たちで話し合いながら1から手作りで築き上げ、何ものをも恐れず、言ったことは必ず最後までやり通すという有言実行で信頼と共感と前進を勝ち取った。男性主導の運動にありがちな日和見主義や、やるといっておいてやらない「有言不実行のマニフェスト詐欺」や、「お前は○○派だろう、あっちに行け」などという見苦しい足の引っ張り合いなどみじんもなかった。

「座り込んだって結局何にも変わっていないではないか」と彼女たちに性急な結果を求める人がいるとしたらそれは誤りである。この国の弱肉強食化、新自由主義化と原発を並行するように推し進めてきた経産省。その目の前という、文字通り敵である支配権力のどてっ腹に穴を空けるように設けられた「出撃拠点」のテント村から、「とにかくここに来ればいろんな人がいていろんなことをやっていて、誰かが自分の話を聞いて共感し、支援してくれる」という状況を作り出したのだ。この打撃は支配層にとって、今後、ボディーブローのようにジワジワと効いてくるだろう(だからこそ、権力がこの状況をいつまでも放っておくとは思えないが)。

私は、事務局を務める妻を横目で見ながら、困った事態が起きたらいつでも馳せ参じようと思っていたが、結果として私が必要とされるような事態は最後まで起こらなかった。名簿を整理するためのエクセルの使い方を教えてほしいとか、経産省に提出する要請書の文面を書いてほしいだとか、そういった事務的な仕事を頼まれる場面はそれなりにあったが、運動そのものの大方針について意見を求められるような場面はついに最後までなかったのである。

「薬害肝炎訴訟のように、日本でもこれまで女性が前面に立った運動では全面勝利ばかりではないとしても、全面敗北というのはほとんど記憶にない。男が主導する運動より何倍も“勝率”がいいのだから、今回自分は表には出ずに黒子に徹する。これは、運動勝利のために我を捨てるべきという自分の考えによるもので別に逃げているわけではない」と私自身が宣言していたこともあるが、「お呼びでなかった」というのが正直なところだろう。妻によれば、事務局を担った女性たちは「チラシに福島を漢字で書くか、カタカナで書くか」といったような、第三者的には一見どうでもいいと思うようなことまでいちいち長時間議論して決めたのだという。私は、そうした民主主義的な作風を運動内部で維持できたからこそ実行段階でぶれずに行動することもできたと思っている。こうした議論は、何に対しても費用対効果(身も蓋もない言い方をすればカネと効率化)のような尺度でしか見ることができない男の論理からすれば一見、意思決定を遅らせるだけの無駄なもののように思えるが、意思決定段階できちんと議論して決めれば、実行段階で迷ったり再確認したりする必要がなくなるので、議論が長引くことによる遅れはそこで挽回できるのである。それに「千里の道も一歩から」ではないが、原子力村に典型的に見られるような巨大な腐敗も、最初は取るに足らないような小さな腐敗から始まるのだ。小さなすれ違いだからといって流してしまうのではなく、その場その場で話し合って解決していくこのコミュニケーションのあり方を、世の男たちはもっと見習うべきだと思うし、こうした民主主義的な作風は今後も必要なものとして、どんなに忙しくてもしっかりと維持すべきものだ。

私は、もう少し議論段階で方針決定に関与させてもらえるかと思っていたし、経産省が過去に何をしてきたかを座り込み参加者に知ってもらうため、時間に余裕があればあいさつをしたいと思い、A4で3枚にも及ぶ「演説原稿」まで用意していた。しかし、圧倒的な女性パワーの前にそうしたもくろみは砕け散った。結果的には「次から次へとやりたいことのアイデアがわいてきて、それらのやりたいことは全部(行動方針に)入れ、そして全部やりきった」(閉会集会での「ハイロアクション福島原発40年」・黒田節子さん)という総括がすべてだろう。私ごときがそれ以外に付け加えることは何もない。

誤解を恐れず言えば、今回、男たちは全くこの座り込み行動の方針決定から締め出されたのみならず、雑用、使い走りでもさせてもらえれば幸せ、という扱いだった。私はこれに対しては複雑な思いを持っている。ひとつは、男たちがこれまでさんざん女性を締め出して、ウソとヤラセと汚れた人脈の中でのなれ合いと、そしてカネと権力で意思決定を行ってきた結果がこの日本のぶざまな現実だということだ。男というだけで今回は「被告人席」だと考えるならば、方針決定への関与はおろか、女性たちが決めた方針に対してせいぜい「弁明」が許されれば良しとしなければならないであろう、ということ。もうひとつは、それでも自分は原子力村の汚れた住人たちとは違うのに、一緒にしないでほしいというある種の悔しさに近い感情である。しかし、この座り込み行動を取り仕切り、わずか1ヶ月あまりの期間で成功に導くような聡明な女性たちが、「彼ら」と「我々」との違いに気付かないほど愚かでないことはもちろん承知している。それは、私たち男性側が、真っ先に泊原発の再稼働を認めるような「女性知事」と、経産省前で座り込んでいる女性たちが同じでないことを知っているのと同様である。

奇しくも、福島県議会選挙への立候補を決めた佐々木慶子さんから「いい男とは手をつなぎたい」とのラブコールもあった(「レイバーネットTV」11月3日放送分)。世の男たちよ、下ばかり向いていないでいい男になろうではないか。次に何かやるときに、彼女たちから頼られ、使ってもらえるようないい男にみんなでなろう。何も難しいことを考える必要はない。「生きていくこと、新たな生命を生み出し育むこと、そしてその命をつないでいくこと」にどんな理屈や思想やイデオロギーが必要なのか。御用学者が並べる100億のごたくよりも「命を守りたい!」のひとことのほうに大義があることは明らかだ。

佐々木さんの言葉を借りれば「後始末のことも考えず暴走する」原子力村の汚れた住人たちには、この事態に陥ってもなお反省のかけらもないようだ。だが彼らはもうすぐ思い知ることになるだろう。“The hand that rocks the cradles rules the world.”(ゆりかごを揺らす手は世界を支配する)という英語のことわざもある。ゆりかごを揺らす女性たちの手を放射能で汚した者たちは、その最も偉大な手によって打ち砕かれるに違いない。

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【イベント案内】「水俣・白河展」「チェルノブイリ写真展」のご案内

2011-11-05 21:53:59 | 原発問題/一般
2011年11月11日から20日まで、福島県白河市の「マイタウン白河」で水俣・白河展が開催される。当ブログの近くで行われるイベントということもあり、ご紹介する。お近くの方、いや遠方の方も是非見てほしい。

原発事故で揺れる福島で、今なぜ原発ではなく水俣なのかと思われるかもしれないが、それは、原発事故後の経過が「水俣」と酷似しているからだ。企業犯罪とそれを取り締まらないで患者を切り捨てる政府、切り縮められる賠償、うごめく御用学者…

過去に水俣で起きた歴史を学ぶことは、これから放射能汚染の時代を、最も高汚染の地・福島で生きなければならない私たちに多くの教訓と示唆を与えてくれるだろう。避難できる人はまだいい。避難できず、福島に残らざるを得ない人たちにこそ、これを見てほしい。この展示会を見れば、福島で私たちがこれからをどのように生き、何を闘うべきかが見えてくると思う。

なお、主催団体でもあるアウシュヴィッツ平和博物館では、現在、フォトジャーナリスト・広河隆一さんによるチェルノブイリ写真展も開催されている。こちらも点数は少ないものの、見る価値の高いものだ。遠方から白河を訪問される人は、マイタウン白河での水俣展とこちらをあわせてご覧になることをお勧めする。

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