人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

「大義なき」(?)解散総選挙に思う

2014-12-08 22:15:38 | その他社会・時事
大義がないと散々批判された衆院総選挙もいよいよ後半戦に入った。すっかり安倍政権の「応援団」と化したメディアは自民大勝、300議席とうるさくて仕方ない。2012年の解散総選挙も確かこんな感じだったな、と強烈なデジャヴ(既視感)に襲われる。

メディア報道が有権者の投票行動に実際に影響を与える、いわゆる「アナウンス効果」には、有利と報道された方がさらに有利になるバンドワゴン(勝ち馬乗り)効果と、その逆に不利と言われた方が巻き返すアンダードッグ(判官びいき)効果があると言われる。だが、アンダードッグ効果が国政選挙で確認されたのは98年、橋本龍太郎政権下で自民党が有利と言われながら敗北したのが最後だと思う。当時は小選挙区制が導入されてまだ2年で、日本社会にまだ中選挙区制の残り香が漂っていた時代だった。テカテカに塗りたくったポマードベッチョリの髪を光らせながら眼鏡を外す動作をしている橋本首相の横に「首相辞任を示唆 「すべて私の責任」」と大書された新聞の見出しは、今なお鮮烈に記憶の中にある。

だが、小選挙区制が人々の意識の中に定着して以降、国政レベルの選挙でアンダードッグ効果が確認された例はなく、ここ10年ほどはバンドワゴン効果ばかりが確認されている。メディアのほうもそれをわかっていて、あえて「自民大勝」報道で世論を誘導しているとしか思えない。安倍首相とメディアが毎週会食している「買収効果」は抜群のようだ。政党機関紙を除く、一般商業紙での選挙予測報道は、そろそろ禁止を含めて検討すべき時ではないか。

もっとも、そんなことを書きながら、予測報道禁止くらいではすでにどうしようもできないほど「自民1強」時代はしばらく続くのではないかとの思いも私にはある。職場などで雑談をしていても、自民がいいなどと言っている人はなく、聞こえてくるのは「入れるところがない」「どこに投票したらいいかわからない」の声ばかり。要するに野党がダメすぎるのだ。

野党がダメすぎるのは何も今に始まったことではなく、古くは55年体制当時も同じだった。メディアが世論調査で「西側先進国の中で日本だけ政権交代がない理由は何だと思いますか」との質問をすると、いつも「野党がだらしがないから」が不動の1位だった。イタリアの政治学者、サルトーリは日本の政治を「一党優位政党制」に分類し、イタリアは「分極的多党制」に分類しているが、一党優位政党制と分極的多党制はどちらも用語本来の意味での政権交代のない政治体制だ(ただし、分極的多党制の場合、常に政権を追われることのない「要の政党」にとって連立相手である周辺政党にはしばしば交代がある。イタリアの場合「要の政党」は長くキリスト教民主党であったが、同党の連立相手はしばしば交代した。なお、キリスト教民主党はすでに解党している)。

野党がだらしないから一党優位政党制になるのか。それとも逆に一党優位政党制が長期にわたって続くことが野党を堕落させ、政権への意欲を失わせるのか。サルトーリは深く検証していないが私は両方だと思う。野党がだらしないことは、一党優位政党制の結果であるとともに原因でもある。サルトーリは、政権交代のないことが常態化すると、与党は緊張感を欠いて平気で公約を反故にし、野党は政権を意識しなくてよいから「満期になっても果たされることのない空手形」を平気で切る(別の言い方をすれば、実現不可能な理想的な公約を平気で掲げる)ようになる、としている。つまり与党サイドからも野党サイドからも「守られる公約」が出てこなくなる。公約の価値が低下する「公約のインフレ」が起きるのである。サルトーリはこのような状態を「金色と偽って黄色のペンキを売りつける詐欺市場」に例え、政治における「不公正競争市場」「非競争市場」と呼んだ。

サルトーリが「現代政党学」の日本語版を発表したのは1977年。つまり彼は、「選択肢がない」と言われる現在の日本の政治状況を、40年近くも前に予言していたのである。私が最近、サルトーリに傾倒し、彼を慧眼だと思うのは、こうした未来を予測する確かな眼を持っているからである。

そして、一党優位政党制や分極的多党制は、与野党が政策ではなくイデオロギーで対決するような政治状況のある国に発生する、とサルトーリは指摘する。日本やイタリアは与野党の対決軸が政策ではなくイデオロギーになっている、ということができる。

イタリアの政治状況については当ブログは詳しくないが、日本の場合、確かに政治を巡って個別の政策ごとの議論が成立せず、何を議論していても最後は「反日!」「ネトウヨ!」の罵りあいになっている状況を見ると、政策ではなくイデオロギーが対決軸になっていることは間違いない。東西冷戦はヨーロッパではもう四半世紀も前に終わり、今さらイデオロギーでもないはずなのに、ネット時代になってむしろ日本国内の政治状況は以前より一層イデオロギー的になったようにすら見える。そして、国民の政治意識が左右対立しかない以上、現実の政党配置もそれを反映したものにしかなりようがない。

サルトーリは、左右両極が伸長し、中道勢力が没落することを「遠心化」と呼ぶ一方、その逆を「求心化」と呼んだが、日本におけるここ数回の選挙で示されているのは明らかな「遠心化」である。民主党が左右両極から攻撃され選挙のたびに勢力を減らす一方、自民党と共産党が伸長するここ数年の状況がそれを示している。サルトーリは、遠心化は民主主義にとって好ましいことではなく、いずれはワイマール体制末期のドイツやアジェンデ民主政権末期のチリのような状況に陥ると不気味な警告を発している。ナチスと共産党しか選択肢がなかったワイマール末期のドイツ、アジェンデ左翼政権がピノチェト将軍の軍事クーデターで暴力的に倒される直前のチリ…これが日本の将来の暗示だとしたら、遠心化は確かにまずい兆候だ。

ワイマール末期のドイツとアジェンデ左翼政権末期のチリ。今の日本がどちらに似ているかと問われればドイツだろう。第1次大戦後、ドイツに生まれたワイマール憲法は、当時、ヨーロッパで最も民主的と言われた。だが、あまりにも重すぎる第1次大戦の賠償のため、ドイツは財政赤字とインフレが制御不能の状態に陥る。その社会不安が、ナチスと共産党を伸長させる「遠心化」を生み出し、やがてナチスの政権奪取につながった。政権奪取すると、ナチスはワイマール憲法を停止し、ユダヤ人を虐殺、第2次大戦に入っていく。ドイツ国民による「正当な、民主主義的選挙」の結果である。

安倍政権がこのまま長期政権となった場合、同じことが起きないと誰が言えるだろうか。自民党と共産党しか選択肢がなく、仕方なく国民が自民党を選ぶ「正当な、民主主義的選挙」の結果、改憲され、「三国人」はガス室へと送られる――そんな未来を拒否するためには、選択肢がなくても投票に行くしかない。選択肢がないならば、ないなりに拒否の意思表示をしなければならない。

こんな絶望的な事態にいったい誰がしたのか。こんな言い方をしてはなんだが、自民党は昔から何も変わっていない。55年体制当時からこの程度の政党である――ただ、昔はやり方が今ほど露骨でなかっただけだ。そうすると、やはり責任は野党にある。繰り返すが、一党優位政党制は、だらしない野党が存在することの結果であるとともに原因でもあるのだ。

当ブログは、「大義なき」衆院解散の時点では、野党にかなり勝機があったと思う。政権運営は強引で、アベノミクスにもさしたる効果はなく、閣僚の相次ぐ金銭スキャンダルも表に出た。解散の時点では自民党だけで294議席を持ち、公明党と合わせれば衆院の3分の2以上を占め、改憲の発議も参院の否決を覆す再可決も可能な圧倒的多数を安倍首相が自分たちの都合で一方的に手放してくれるというのだ。普通の感覚を持った人間だったら、これをチャンスだと思うはずだし、仮に引き続き過半数を占められるのは変わらないとしても、自公が3分の2を割ってくれれば再可決は不可能になり、2016年の参院選で自公が過半数割れでも起こそうものなら、政府提出法案は軒並み成立しなくなり、安倍政権は死に体と化す――当ブログに、ふと、そんなシナリオが思い浮かんだ。これをチャンスと言わずしてなんと言うのだろう。しかも、解散直前の世論調査で安倍政権の「支持」がついに「不支持」を上回るというオマケまでついたのだから。

だが、当ブログにとって(そして多くの日本国民にとっても同じだろう)想定外だったのは、その程度のこともわからないほど野党が腰抜けでしかも思考停止に陥っていたことだ。彼らはいっせいに「解散に大義がない」などと批判し始めた。だが、解散は首相の専権事項であり、これまでも政権与党の党利党略のために使われてきた。そんな「解散」に大義など求める方が間違っている。「大義」とはあるかないかと問うものでもなければないと批判するものでもない。強いて言えば自分たちで見いだすものなのだ。

選挙には与党にも野党にも争点にしたいこととされたくないことがある。自分たちにとって有利な争点を争点として認識させる一方、争点にされたくないことを巧みに争点から外す力を仮に「争点設定権」と呼ぶならば、それを自由自在に行使できる方が勝利するということになる。沖縄県知事選で、基地反対派の翁長雄志氏が勝利することができたのは、選挙時における最大の「権力」である「争点設定権」を基地に反対する市民が自由に行使できる状況が生まれたからである。自民党が最も争点にされたくなかった「基地」が争点になり、自民党が最も争点にしたかった「復興」は雲散霧消してしまった。「みなさまのNHK」改め「安倍さまの犬HK」と化した公共放送ですら、最大の争点が「基地」であり「県民が普天間基地の辺野古への移設を拒否」したと認めざるを得ないほど、沖縄県民は争点設定権という権力を自由自在に行使したのである。

先月の沖縄県知事選が画期的だったのは、単に「オール沖縄」が成立し、保革の枠組みを超えた共闘が成立したことだけではない。県民の側が自由自在に争点設定権を行使できる状況を作り出した点こそ最も画期的なのだ。逆に、福島県知事選で敗北したのは、既成政党側にいいように争点設定権を行使され、「復興」を争点にされてしまったからである。他の争点すべてを金の力で雲散霧消させてしまう「復興」は権力者・支配者にとって便利な言葉だとつくづく思う(加害者がすべての被害を雲散霧消させ、責任転嫁できる「風評被害」という言葉に匹敵する便利さだ)。

首相の衆院解散権が党利党略で行使されるという当たり前の現実すら、野党は理解できなかった。ほかでもない、まさにこれこそ当ブログにとって最大の誤算だった。政権を担当したことがなく、解散権を自由自在に使いこなしたこともないから理解できなかった、などというのは言い訳にならない。そのせいで野党は何度も痛い目に遭ってきたはずだからだ。少なくとも、与党である自民党は、いつ解散がやってきてもいいように「常在戦場」の心構えを持っている。自民党が、自分たちに最大限有利な議席構成を自分から手放すなんてあり得ない――確かにそうかもしれない。しかし小泉元首相が在任中にいみじくも語ったように、政界には「まさかの坂」がある。解散なんてあるわけがないと見くびり、常在戦場の心構えを持たず、日々を漫然と過ごしてきた民主党、そして「第三極」の各党は、戦わずして敗北が決定づけられようとしている。

もうひとつ、自民党と共産党が有利な闘いを繰り広げているのは、選挙がないときでも市民の中に入り、日常的に活動をしているからである。業界団体と握手する自民党、ブラック企業と戦う労働組合を助け、労使交渉で未払い賃金をもぎ取る共産党――戦う相手も手法も異なるが、この両党は選挙があってもなくても日常的に活動し、人々の認知を得ようとしてきた。結局のところ、最後に笑うのはそのような政党なのだ。日頃は漫然と過ごして何もせず、離合集散ばかり繰り返した挙げ句、選挙が近づくと「ご支援をお願いします」などという政党にいったい誰が期待するだろうか。

共産党以外の野党には、もう当ブログは用はない。それでは自民の一党独裁だという人もいるかもしれないが、自民一党独裁なんて今に始まったことではなく、55年体制の頃から見慣れた光景だ。それに、改憲発議と再可決のできる3分の2を超えてしまえば、後はもう8割でも9割でもたいした違いはない。自民党はせいぜいがんばって400議席でも勝手に取ればいい。仮に国会で与党が1000議席持っていたとしても、首相官邸前で100万人のデモが起きれば政権は倒れるだろう。政治とはそういうものだ。

当ブログは、民意の全く反映しない国会を当てにせず、100万人のデモを目指して引き続き闘っていく。そして、自民が1000議席になろうが恐れることはないと思っている。サルトーリが指摘したように、一党優位政党制は非競争市場の産物なのだから、自民党は正当な自由競争の結果として選ばれたわけではない。選んだ覚えもないのに勝手に使わせられている電力会社のようなものだ。選んだ覚えはなくても、電力会社と同様、使わせられている以上、使っている私たちは不満があれば批判する権利がある。せいぜい批判し、監視し、チェックしながら自民党をすり切れるまで使い倒し、そのうち沖縄のように奪い取る。政権交代が不可能な日本で政治を変えるにはその方法しかなく、自民党を弱体化させ、奪い取る長期戦略を描く。私たち日本の市民に課せられた2015年の課題である。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「JR北海道の安全問題、ロ... | トップ | レイバーコラム「時事寸評」... »

その他社会・時事」カテゴリの最新記事