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夏休み~北近畿タンゴ鉄道を旅する

2012-08-28 23:02:29 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
夏休みを利用して、国鉄・JR特定地方交通線転換第三セクター(三セク)で数少ない未乗路線となった北近畿タンゴ鉄道を旅してきた。当ブログ管理人は8月24日午後から29日まで大阪市内に滞在している。

宿泊している大阪市内を9:10発「こうのとり3号」で出発。福知山で降り、いきなり宮福線から北近畿タンゴ鉄道線に入ることも考えたが、豊岡まで乗った方が後が楽なので、当初計画の通り豊岡まで行く。豊岡到着直前に「踏切支障」で急停車。2分の遅れを出し、11:43に到着したが、結果的にはこの遅れは痛かった。11:46発の宮津線232Dまで乗り継ぎ時間はわずか3分!

西舞鶴到着後に気付くのだが、北近畿タンゴ鉄道には「1日フリー乗車券」があったのに、乗り継ぎ時間がなさ過ぎて買う時間がなかった(乗車駅証明書をもらうだけで精一杯の状況)。宮津線全線(豊岡~西舞鶴)を完乗すると片道1,680円なのに対し、1日フリーは1,200円だから宮津線を片道全線乗るだけで元が取れる。通常、1日フリーは片道全線乗った程度では元が取れない金額設定にするのが普通だから、この安さは破格である。他の鉄道会社だったら1,800円くらいにするだろう。

232DはKTR800形気動車(サムネイル写真参照)の単行だが、車内に入ると蒸し暑い。エアコンが故障して全く効いていないのだった。すでに先客はあきらめたと見え、あちこちで窓が全開になっているので私もそうする。列車はすぐに発車した。窓からの風は…生暖かくて気持ちよくない。

途中、丹後神野では特急「たんごリレー81号」(写真)と交換。列車は熱風をまき散らしながら進む。蒸し暑い車内で熱中症を防ぐため、お茶とスポーツ飲料を飲んでいたらトイレに行きたくなったが、どの駅でも停車時間が短い。

宮津で10分停車というので、この時間を利用してトイレ、弁当と追加の飲料調達、そしてサムネイル写真にあるKTR800形の撮影を済ませた。食事を車内でしているうちに、列車は西舞鶴に到着。KTR8000形(写真)を撮影する。

いったん改札を出ると、1日フリーを見つける。宮津線を乗り終えてしまったし、今さらと思ったが、これから宮津線を天橋立まで行き、1駅戻って宮津から宮福線を全線乗る計画だ。通常運賃と比べて、今からでも安くなるのは確実だったので買う。豊岡で買えていたら、ここまでの無駄な運賃を払わずにすんだのに。

西舞鶴14:05発231Dに乗り込む。232Dに使われていた車両は回送として車庫に引き上げたので、同じKTR800形でも別の車だが、なんとまた冷房の効きが悪い。今度はさすがに窓を開けている客はいないが、うちわであおぐ乗客の姿があちこちに見られる。

定刻発車。この列車もまた蒸し風呂だ。あの有名な由良川鉄橋を渡る。「川の上を直接飛んでいるようだ」と評した乗車ルポもかつてあったが、この程度のところは他にも何か所かはある。

14:47、天橋立に到着。帰りに乗ろうと思って当てにしていた「こうのとり22号」が北近畿タンゴ鉄道線内は臨時乗り入れで今日は福知山からしか運転していないので、帰りの時刻を確認。15:58発238Dで乗り継げることを確認し、天橋立観光に行く。日本三景と言われるだけあって壮観だが、時間の関係で全景が見える場所には行けなかった。行ければあの「股のぞき」をやってみたかったのだが…。いずれにしても、これで私は日本三景を制覇したことになる。

天橋立は砂浜になっており、海水浴客がいた。もう8月下旬だが、頭がおかしくなりそうなこの猛暑ではまだまだ十分泳げる。

何枚か写真を撮影し、戻ろうとしたら、さっき渡ってきたはずの橋がなくなっている。あれっ、確かここから来たはずなのに思い違いだったかな、と思ったら回旋橋だった。ちょうど大型船がくぐるため旋回させて水路を開けていたのだ。(旋回中の写真 通常時の写真

駅に戻り、15:58発238Dに乗り、宮津に向かう。宮津に16:03着。いよいよ宮福線だ。

北近畿タンゴ鉄道は、現在の姿になるまで複雑な経緯をたどっている。宮福線は、国鉄線として国が建設すべき路線を定めた鉄道敷設法の別表第79号ノ2(京都府宮津ヨリ福知山ニ至ル鉄道)として建設計画が決まったが、未開業のまま、1980年に国鉄再建法が成立・施行されると建設が凍結された。再建法による建設凍結は、ローカル鉄道が建設を続けるのであれば例外的解除が認められるため(同法14条)、宮福線を建設する第三セクターとして1982年、地元自治体が出資して「宮福鉄道株式会社」が設立。工事凍結は解除され、凍結前に工事を行っていた日本鉄道建設公団が工事を再開、1988年7月に全線が開業した。

一方、再建法に基づき、第3次特定地方交通線(廃止対象路線)に指定された宮津線も同社が引き受けることになり、1989年、北近畿タンゴ鉄道に改名。翌90年に宮津線も引き受け現在の姿になった。宮津線は、国鉄再建法に基づく特定地方交通線としては最後の第三セクター転換。89年に転換した平成筑豊鉄道の3線(伊田、田川、糸田線)と同様、JR発足に間に合わず、JRからの転換となっている。特定地方交通線転換第三セクターの多くは1社1路線だが、この北近畿タンゴ鉄道、上述の平成筑豊鉄道の他、土佐くろしお鉄道も複数の路線を経営している。

余談だが、宮福線がまだなかった国鉄時代、京都から山陰本線を経由して城崎(現在の城崎温泉)まで走る気動車特急「あさしお」(キハ82系)があり、その一部は舞鶴~宮津線を経由していた(いわば、山陰本線経由の「あさしお」が現在の「きのさき」の前身で、舞鶴~宮津線経由「あさしお」が現在の「はしだて」の前身といえるかもしれない)。宮津線経由の「あさしお」は、途中、綾部、西舞鶴、豊岡で3回も進行方向が変わる列車として鉄道ファンに有名だった。当時の鉄道雑誌の乗車ルポを見ると、「方向オンチの人はなにがなんだかわからなくなるだろう」という記述がある。もし、妻がこんな事態に遭遇したら、「どこ走ってるの?」と目を丸くするかもしれない。

宮津からは16:07発の122Dに乗り込む。この列車もKTR800形ということで冷房の利きが悪いのは覚悟したが、意外にも(?)この車両の冷房は正常に効いている。宮福線はさすがに88年開業の新しい路線だけに路盤もよくほとんど揺れない。だが、いかんせんKTR800形自体があまりエンジンパワーがあるわけではない。ちょうど夕方の時間に入ってきたこともあり、高校生らを乗せながら、列車は定刻、17:01に福知山に着いた。

福知山からは、あらかじめ指定席を押さえていた「こうのとり22号」で大阪に戻る。

【完乗達成】北近畿タンゴ鉄道(宮津線、宮福線)

今回、北近畿タンゴ鉄道の完乗を達成したが、乗ってみて、この鉄道の将来に不安を抱いたことも事実だ。宮福線も、宮津線宮津~西舞鶴間もせっかく電化したのに、電車はJRからの乗り入れだけで、北近畿タンゴ鉄道は転換当時から運用しているKTR800形を初めとして気動車しかない。そのKTR800形も20年以上経ち、さすがに窓枠などあちこちに錆が浮き、塗装は一部落ちるなど衰えは明らかだった。冷房故障のまま走らせるなどメンテナンスも十分とはいえない。そういえば宮津駅ホームの発時刻表示もLED電球が切れかけたままになっており、「貧すれば鈍する」を地で行っていた国鉄末期を見るようだった。

現在、とりわけ宮津線宮津以西(豊岡~宮津)の成績が悪く、列車の大幅な減便や部分廃止の噂も流れるが、この付近は他の交通事情もあまりよくないため鉄道へのてこ入れが必要だ。

KTR800形など会社発足当時から走っている車両はそろそろ置き換えが必要な時期に来た。置き換えの際は電車を導入すべきだ。特に宮福線はあんな立派な設備があるのにJR乗り入れ特急しか電車がないというのはあまりにもったいない。電車を導入するだけで、宮福線は大幅なスピードアップも可能だろう。

山陰線も京都~城崎温泉まで電化されたのだし、いっそ豊岡~宮津間も電化してはどうか。そうすれば北近畿タンゴ鉄道は全線電化となり、気動車を持つ必要はなくなる。豊岡以西の山陰線から天橋立直通の電車特急も走れるようになる(需要がどれだけあるかはわからないが…)。幸いなことに、現在は京都府など沿線自治体が赤字補てんに積極的なため何とか持っているが、今後はこの地域全体の将来像を考えなければならない。

なお、この完乗達成により、いよいよ国鉄~JR特定地方交通線転換第三セクターの未乗車は2社2線だけになった。残るはくま川鉄道の全線と、平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線である。もっとも、門司港レトロ観光線は旧JR貨物専用側線の観光鉄道転用であり、国鉄転換三セクに分類するのはふさわしくないので、乗車記録上の取り扱いは今後、検討したい。

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「聞いて下さい・福島の声を」集会報告 : エートスプロジェクトと弁当問題

2012-08-28 21:51:24 | 原発問題/一般
レイバーネット日本より

20120826 聞いてください★福島の声を★ 堀切さとみ・森園かずえ


池袋・エポック10で「聞いて下さい・福島の声を」という集会があった。

「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の森園かずえさん(写真)の話と、埼玉に集団避難した双葉町の映画「原発の町を追われて」の二本立て。映画製作をつうじて、ふるさとを追われた人たちの無念さと向き合ってきた私だったが福島県にとどまって暮らす苦悩の深さをつきつけられて、あらためて福島の人たちの、一筋縄ではいかない悔しさを思った。

○福島のさまざまな苦しみ

森園さんのことは、官邸前行動で「命を刻め!」と叫んで泣き崩れた姿を、ユーチューブで見て知っていた。郡山の自宅で、つれあい、二匹のネコと暮らしている。(私も埼玉のアパートで、二匹のネコと暮らしてますと言って森園さんと意気投合)

自宅は、二階の線量が高いため一階にしか住めない。自分に子どもがいなかったことに感謝しつつも、猫を被ばくさせてしまっていることを詫び、二階まで高くのびた大好きな植物を除染のために切り倒したときは、一晩泣いたという。

そんな森園さんは、地域の子どもたちがまったく守られていないことに心を痛めている。汚染土が積まれた真横を、小学生がマスクなしで通学する。いくら除染しても線量が下がらないコンクリートのプールサイドに、鉄板と人工芝を敷いて子供たちにプール指導をする小学校。市に中止してほしいと申し入れをすると、わかりましたと言ったそばから翌日にも再開されているという事実・・・。

モニタリングポストも、線量が高いと市民が怖がるという理由で、低い線量が出るメーカーの機械を併設したり、すでに除染してある場所に設置したり。

そういう状況の中で一番悔しいのは、疑問視する大人があまりにも少ないことだ。「こどもを守れ」という声は、首都圏ではこんなに大きくなっているのに。

政府交渉などで東京と郡山を往復する森園さんは、そうした矛盾を一手に抱え込んで生活しているのだ。

○「フクシマは安全だ」という踏み絵

「エートスプロジェクトって知ってますか?」

森園さんが質問すると、会場からはパラパラと手が挙がった。「まだまだ知ってる人、少ないですね。このプロジェクトのことを話そうとすると悔しくて・・」。

エートスプロジェクトというのは、原発事故の被害を最小限に見せようという意図をもった者たちが、福島県内で推し進めている安全キャンペーン。チェルノブイリの時に始まっていたという。

福島原発事故直後、長崎大の山下俊一が福島入りし「年間100ミリでも大丈夫」「放射能の影響はニコニコ笑ってる人には来ません」といって回ったが「放射能より怖いのは、放射能を恐れる不安感」「必要なのは心の除染」という働きかけは、福島県内でますます強くなっている。

最近でも「ピーチ・プロジェクト」といって、大阪の小学生を招き、福島の桃の食べ放題をさせるイベントが計画された(抗議によって中止になった)ことは知っていたが、汚染の高いところでスポーツ大会が開かれ、東北出身の駅伝選手・柏原クンなどが参加したり。気持ちを盛り上げてくれるのをありがたがる人が多い中、選手生命が短くなるのではと森園さんは心配していた。

福島県内はどこまで情報から遮断されてしまっているのか。会場から、福島では小出裕章の講演を聞く機会はないのかという質問が出た。森園さんは「小出さんの話を聴きにくる人はいつも同じ人たち。福島はあまりにも早い段階で、山下俊一イデオロギーが入り込んでしまった」という。

さらに「山下さんのことは、福島の人も本当は大嫌いなんです。だけど福島で暮らすからには、’安心・安全’を言われたいんです」

○住民対立の陰にかくれて

マスクをしているかいないか。福島県産の野菜を買うか買わないか。そうしたことが時に踏み絵になり、日常的にも「あの家はそうなのね」という区別分けを住民自らがしていく。「命を刻め!」そう叫びながら福島に住み続ける森園さんのような人を追い詰める力は、まぎれもなく強まっている。このことは、県外避難の双葉町を追いかけている私も痛感することだ。

映画にも出てくるが、同じ双葉町の中でも、福島から出て行った奴は許せないという声があったり、役場を県外に移したことに反発し、町長を辞めさせようとする議会の動きもあり、福島を安全と思うか思わないかの違いで、住民が対立する構造が作られている。

集会の後、何人かの人から聞かれたのは、双葉町の「弁当問題」のことだ。双葉町役場のある埼玉県・旧騎西高校は唯一、国から弁当が無償で配布されていたが、他の避難場所にいる町民からの反発を招きこの九月から弁当を有料にすることになった。井戸川町長は介護が必要なお年寄りなど、他に行くところのない人たちの「最後の砦」をまもるべく、最後まで有料化を食い止めようとしていたがおさえきれなかったのだ。

本来、すべての原発避難民に対し国家予算で食費など保障するのは当たり前のことだ。それを一部(旧騎西高校)にしか保証してこなかった国の在り様が問われることもないまま、即自的な住民感情でものごとが動いていく。私はこれが、涙が出るほどくやしくてたまらない。

双葉町の人たちは、必ずしも先進的な町民ではない。ある意味当たり前の、さまざまな利害感情に翻弄されるフツーの人たちだと思う。だからこそ、県外に役場を移したことでその動向が注目される中、町民どおしのやっかみばかりがクローズアップされることは容易に想像でき、そして本当に責任をとるべき人間が守られてしまうのだ。

○何事もなかったかのように

帰りがけ、映画をみた男性が「ちょっと、いいですか」と声をかけてくれた。「あなたは線量が高いからといって、福島県から誰もいなくなってもいいと思うんですか?」

映画のトーンは、たしかにそうですね・・。私は「本来、人が住んじゃいけないところですよ」と言った。言いながら、「双葉に戻れなくても、双葉町に一センチでもいいから近いところで死にたい」というお年寄りのことを思っていた。

井戸川町長は、一センチでも‘爆心地‘から離れて暮らすべきだという信念のもと、埼玉に避難を促した。でも、子育て世代ならまだしも高齢者はいいのでは・・・・・。私自身、気持ちは揺らぎ、町長に聞いたことがあった。

「年寄りが戻りたいから戻るっていうだけの話じゃない。介護する若者の手が必要でしょう。家系の継承っていうのが一番大事なんですよ。だから、年寄りは若い人を犠牲にしちゃいけない・・・・井戸川町長はそういってました」

そう言ったら、その男性はあっけないくらいに納得してくれた。線量が高いにもかかわらず「あと何年もないのだから、ふるさとで死にたい」という、高齢者の思いを利用して帰還政策がすすめられているが、じゃあ果たして、高齢者は戻ってよかったと思っているのか。一年以上放置され、荒れ果てたところで暮らすには実際のところ困難だらけだ。でも目に見えず臭いもない放射能の中で、人はたしかに今、そこで暮らすことはできる。

「今」だけでいい利権集団にとっては、福島にたくさん人が戻り、平穏な日々がちょっと続けば、それでいいのだ。しかし、先を見つめ、将来を案じる人はいる。「日本を滅ぼしたくない」という双葉町長。「故郷をほこりに思うけれど、戻らない」という双葉町民。彼らは「自分たちは棄民だ」という。

野田首相がいう、棄民ではない国民って、いったい誰のことだ? 問いただしてみたい。そして、小出裕章氏がつい先日講演で語った「一度しかない人生。自分の思うように生きるべき」という言葉をたとえ空しい問いかけだとしても、一人ひとりが胸に刻むべきなんだと思うのだ。

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