安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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次々明らかになる旧事故調とJRの癒着

2009-09-29 23:07:42 | 鉄道・公共交通/安全問題
日本中を揺るがすスキャンダルとなった旧事故調による尼崎事故調査報告書の漏洩問題だが、JR西日本と事故調との驚くべき癒着が次々明るみに出始めた。

公務員に対する贈収賄事件では、通常、賄賂を渡そうとする業者側よりも受け取る公務員側がより罪が重いとされる。誘惑を断ち切るのも職務のうちというわけだ。

その論理で行くと、今回の漏洩問題も、事故調側により重い責任があるということになる。だが、メディア報道を見ているとJR西日本側にバッシングが集中しているように見える。その現象だけを見れば気の毒ではあるが、やはり当ブログとしてはJR西日本に同情する気にはなれない。こうしたバッシング集中の背景には、107人の死という重い現実があるのだから。

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事故調漏えい JR西前社長、中間報告書素案も入手(毎日新聞)

 JR福知山線脱線事故の最終調査報告書案が事前に漏えいしていた問題で、JR西日本の山崎正夫社長(当時)が航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)の山口浩一委員(当時)から、事実調査報告書案も入手していたことが、JR西への取材で分かった。06年12月の公表直前に提供を受けたとみられ、最終報告書案入手の約半年前にあたる。事実調査報告書は一連の調査の中間報告で、乗客106人が死亡した事故の全容や企業責任に言及していた。

 JR西によると、山崎前社長は事実調査報告書案を入手後、事故調との窓口となる同社の事故対策審議室に渡し、社内で共有していたという。同社は直後の07年2月、事故調が開いた意見聴取会に臨むが、その事前準備に活用したとみられる。報告書案の修正要求はしなかったという。

 事実調査報告書は、運転ミスの無線連絡に気を取られた運転士のブレーキ操作が遅れ、脱線した可能性を示唆。余裕のないダイヤ設定や安全投資の遅れなど、JR西の安全軽視の姿勢にも触れていた。事故調はこの事実調査報告書を基にさらに調査を進め、07年6月に最終調査報告書を公表した。

 山崎前社長によると、一連の問題を巡っては06年夏~秋ごろ、山崎前社長側から旧知の山口元委員に面会を打診。以降、東京の飲食店などで、3、4回、昼食や夕食を共にした。二つの報告書案はこの際に入手したとみられる。【鳴海崇】
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JR西日本は、2007年2月の事故調説明会の前にも中間報告書の案を極秘入手していた。それを意見聴取会対策に利用していたというのだから恐れ入る。愛する人を殺された遺族たちは、事前に報告書の内容も知らされないまま「丸腰」の闘いを強いられたというのに、事故調はJR西日本にだけこっそり武器を持たせていたのだ。なんという卑劣さだろうか。これではまるで「事故調=JR西日本連合軍」による遺族への空爆ではないか。

もっとも、事前に報告書の素案の内容を知っていたにしては、この意見聴取会でのJR西日本の言明はお粗末だった。なにせ、鉄道輸送の安全確保のため「日勤教育は必要」という弁明を繰り返し、事故調担当官が不快感を表明するほどの自己弁護一本やりの内容だったからだ。言っては悪いが、所詮この程度の経営陣だったということだろう。

いずれにしても、これで公正中立をもって旨とすべき事故調(現・運輸安全委員会)の権威は完全に失墜した。

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ATS資料、県警にも提出せず…JR西「意図的でない」(読売新聞)

 JR福知山線脱線事故で、JR西日本が航空・鉄道事故調査委員会に自動列車停止装置(ATS)に関する社内会議資料の一部を提出しなかった問題で、同社は兵庫県警にも同じ部分を提出していなかったことがわかった。

 JR西は、「県警からは、事故調に出したのと同じ資料の任意提出を求められた。意図的に隠したのではない」と説明している。

 JR西によると、提出していなかったのは、1996年に起きたJR函館線の脱線事故の後に開かれた同社鉄道本部内の会議用資料9枚のうち最後の2枚。この中には、ATSを設置していれば防げた事例として、函館線の事故が記載されていたとされる。

 山崎正夫・前社長(66)は当時、鉄道本部長だった。

 JR福知山線脱線事故の捜査では、現場の状況が似ていた函館線の事故を受け、JR西幹部らがカーブの危険性やATS設置の必要性を認識していたかが焦点の一つだった。
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当ブログの前のエントリを見てみればいい。「速照ATS不備が事故の原因」とする記述を変えさせようとしたJR西日本が、自動列車停止装置(ATS)に関する社内会議資料だけを「意図的にではなく」(=つまり「偶然」)提出し忘れたなんて、そんな説明、誰が信じるか。言い訳としてもあまりに下手すぎる。こんな見え透いた三文芝居、アマチュア芸人でもやらないだろう。

これで、「速度照査型ATSの不備」こそ尼崎事故の真の原因であることをJR西日本幹部らがまったく正確に認識していた可能性が、さらに強まった。現在、山崎正夫・JR西日本社長は業務上過失致死罪で起訴され刑事被告人の身だが、この隠蔽工作が山崎前社長にとって不利に働くことは決定的である。なぜならば、尼崎~塚口間のカーブが半径300メートルに付け替えられた際の鉄道本部長だった山崎前社長が、責任者として速照ATSの設置を社内決定しなかった不作為が業務上過失致死傷罪に問われているからである。

公正中立であるべき事故調を歪め、公表前の報告書案を不正入手したことも重大だが、隠蔽工作となればさらに悪質である。ただ、山崎前社長がみずからの個人的利益だけを目的としていたとは思えない。やはりこれは会社組織を守るために違いない。

いつまでもいつまでも、小手先の保身しか考えられないJR西日本幹部に忠告しておく。諸君が守らなければならないのは自分の社内の地位でもなければ、血にまみれた利益でもない。真に守るべきものは乗客の安全と信頼である。それが果たされない限り、JR西日本に対する社会からの厳しい批判が止むことはない。

さて、本日はここまで。次回は、望ましい事故調組織のあり方、とりわけ運輸安全委員会委員の人選のあり方について述べることにする。

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最高裁判所裁判官国民審査制度を考える

2009-09-29 22:23:51 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌に発表した原稿をそのまま掲載しています。)


 最高裁判所裁判官国民審査。衆議院総選挙と同時に行われ、罷免させたい最高裁判事を選ぶことができる制度だが、過去、最も不信任率が高かった人でも、それは15.17%に過ぎない(1972年12月実施の第9回国民審査における下田武三判事)。この制度によって罷免された裁判官はひとりもおらず、選挙公報も配られないまま実施されるのが常態化するなど、制度は今や完全に形骸化している。

 私がこの国民審査を初めて経験したのは1993年7月の総選挙時のことだが、最初から国民審査に対しては疑問だらけだった。衆議院選挙の投票用紙と国民審査の投票用紙を一緒に渡す投票方式も疑問のひとつで、このために毎回、必ず投票箱を間違え、せっかくの投票が無効となるケースがある。総選挙が実施されたばかりのこの機会に、改めて国民審査制度の問題点を考えてみることにしたい。

●独裁国家と同じ投票方式

 私は、なぜ国民審査の投票用紙だけが議員選挙の投票用紙と同時配布なのかという疑問を解明しようとしたが、その答えを教えてくれる文献をなかなか探し当てられないでいた。ところが思いがけない本の中に、そのヒントとなる記述が見つかった。「モスクワの市民生活」(今井博・著、講談社文庫、1992年)という本がそれだ。著者の今井さんは毎日新聞記者で、1970年代終わりから1980年代初めにかけて5年半をモスクワ特派員として過ごし、その経験を元にこの本を著した。ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)、西側諸国によるモスクワ五輪ボイコット(1980年)、大韓航空機撃墜事件(1983年)など東西冷戦が激しかった時期である。クレムリンの視点ではなく、ソ連の一般市民の視点で日常生活をまとめた同書を、私は優れたルポルタージュだと思った。

 「モスクワの市民生活」は、ソ連の選挙のことにも触れている。ソ連の選挙は党が指名した官選候補に対する信任投票だが、その投票方法が西側諸国では考えられないもので、官選候補を信任する場合には白紙のまま投票するのに対し、不信任にしたいときだけ投票用紙に×を付けるのである。お上の選んだ候補が気に入らないヘソ曲がりの有権者だけが記入所に入らなければならないわけだが、もしそんなことをすれば強制収容所に送られるか精神病院への強制入院が待っており、一般有権者は怖くてとても×など付けられなかったそうだ。旧ソ連で、選挙のたびに全ての官選候補が限りなく100%近い高信任率を得ていた背景には、こうした非民主的な投票制度があった。

 日本の最高裁裁判官国民審査も、裁判官を不信任にしたい人だけが×を付け、対象裁判官全員を信任する人は白紙のままで投票する旧ソ連と同じ投票方式である。「最高裁判所裁判官国民審査法」で決められているものだが、裁判官を不信任にしたい人だけが記入所に入らなければならないとしたら、秘密投票の原則は破られてしまう。しかし、国民審査の投票用紙を議員選挙の投票用紙と同時に配布することによって、誰が裁判官に×を付けたかわからないようにすることができる。幸い日本では旧ソ連のように裁判官に×を付けても強制収容所や精神病院に送られることはないが、この投票方式のせいで毎回、少なくない有権者が投票箱を間違えて逆に入れてしまい、主権行使の機会を奪われる事態が発生しているにもかかわらず、投票方式を改める動きも見られない。

●批判を恐れる者のためのシステム

 秘密投票の原則が守られているのだからいいではないか、という議論にはならないと私は思う。この投票方式の最大の問題は、旧ソ連と同様、政治的無関心を「国家体制支持」にすり替えてしまうところにある。たとえ信任投票であるとしても、多くの労働組合の役員選挙がそうであるように、信任の場合は○、不信任は×を付けるシステムに改めるだけで裁判官への信任率はかなり低下するのではないか(注)。なぜなら、不信任にするほどでないとしても、わざわざ記入所に入って○をつけるだけの労力をかけるに値する裁判官なのかを有権者が考え始め、その結果、不信任にはしないけれど信任もしないでおこう、という投票行動をすることが可能になるからである。少なくとも、そうした投票方式が導入されない限り、国民の裁判官に対する本当の信任率が明らかになることはないだろう。

 一方、裁判所側から見れば、法の番人である最高裁の権威を保つためには、裁判官に対する国民の信任が高いほうが望ましいことはいうまでもないが、そのためには国民が労力をかけず、またあまり深く考えることなく裁判官を信任してくれるような投票方式が望ましいということになる。結局のところ、投票箱を間違え、票が無効となるリスクを有権者に強いている現行の投票方式は、もっぱら裁判所の権威付けのために存在していると考えて良さそうである。

 それに、あれこれと難しいことを指摘するまでもなく、裁判官に対し、不信任の意思表示をする人だけが余計な労力を強いられるという投票方式は不公平に決まっている。裁判官国民審査を真に公正なものとするためには、有権者が信任、不信任どちらの意思表示をする場合でも、かける労力が同じでなければならないのは自明のことだ。裁判官を信任してくれる有権者にだけ、ちょっぴり負担を軽減してあげましょうなどというやり方が本当に民主主義といえるかどうか、そして、これと同じ投票方式が採用されていたソ連がその後どのような末路をたどったか、読者のみなさまも一緒に考えていただきたいと思う。

 このような、ある意味「汚い」やり方をする最高裁は、多分国民の批判を恐れているのだろう。確かに、今の裁判所を見ていると褒められたものではないし、最高裁というより「最低裁判所」と呼ぶ方がふさわしいような不当判決のオンパレードである。その上、法の番人にあぐらをかいて自己改革の姿勢もなく、最後には裁判員制度なるものによって判決まで国民にアウトソーシングしようというのだから、もう自民党並みに「終わっている」というべきだ。

 「どうせ選挙公報も配られないからわからないし、誰がどんな判決を書いていようと、自分が裁判の当事者になるわけでもないし」と、白紙のまま投票している有権者の皆さん!民主主義は労力をかけることから始まる。労力を厭うようでは近代民主主義の守護者たることはできない。せめて、みんなで労力をかけ、せっせと×を付けようではないか。裁判官を罷免させることはできなくても、不信任が増えれば裁判所は自己改革を迫られる。「最低裁」を最高裁へと飛躍させるのは、惰眠をむさぼることに慣れた裁判官ではなく主権者である私たちなのだ。

注)ここでいう信任率とは、有効投票数(無効票を除いた投票総数)に対する信任票の比率ではなく、投票総数に対する信任票の比率のことである。信任は○、不信任は×を付ける投票方式に改めたとしても、有効投票数に対する信任率は変わらないが、白紙投票が多くなれば、投票総数に対する信任票の割合はそれだけ低下することになる。

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