なぜ、赤松戦隊長は使者を処刑したか







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

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那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

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なぜ、赤松戦隊長は使者を処刑したか


 投降当時の状況を思い出してみると、軍の者も疲労しきって満足に歩けない身体で、黙黙と壕を掘り、射たれっ放しで乏しい騨薬を持って、ただただ敵の近接を待つのは(主陣地では、小銃を三十メートル以上の射程距離で射撃することを禁じた)、異常なる精神力を要したのである。このような状況下でも、犬半の村民が八月十二日に集団投降するまでは軍とともに、苦しいなかをがんばってくれたことは、ただただ感謝のほかはない。
                 《私記》私は自決を命令していない           

 敵が三十メートル近づくまで小銃を撃つのを禁じたという。米兵は弾薬が豊富であり数百メートル離れていても機関銃をどんどん撃っていた。わずか三十メートルまで引きつけるというのは兵士にとって死を意味する。三十メートルまでに見つかれば米兵の機関銃から無数の弾丸が撃ち込まれる。たとえ、米兵が三十メートル以内に入って銃を撃ち一人の米兵を倒したとしても後続の米兵に攻撃される。わずか三十メートルの距離では逃げることができない。赤松戦体長は弾薬が少ないために死を覚悟した戦いを強いられていた。
 
 赤松戦隊長は投降した過程を説明している

 十二日 ボツダム宣言受諾の報であるが、十二日ころから米軍無電の傍受により、うすうすその気配は感じ取っていた。ビラやスピーカーによる宣伝も盛んで「赤松隊長は、自己の信義を重んずるのあまり、部下にむりじいしてないか!」とか「あなた方だけが慶良間の一角でがんばっても大勢には、いささかの影響もない。一分、一秒でも早く住民と部隊を解放しなさい!」とか、まくし立てる。

十五日 夜七時五十分ごろ「一億一丸となって……」の声が断片的にはいり、九時過ぎの、"時事解説"に「戦後いぱらの道を……」云云   のことぱが聞かれた。

十六日 払暁、先の四人の投降勧告者が残していった、竹の先に結んだ手紙が届いた。――戦争は終結、隊長か代理を米軍基地まで寄こ   せという文面である。全将校が集合協議の結果、軍使四名を派遭することに決定。このさいの会見により、大東亜戦争の終結、連   合軍への降伏は動かぬ事実となったのである。

十八日 私自身が米軍指揮官と会見、無条件降伏の詳細を知り、即時投降を勧告されたが、私は「我が軍は、所属する上級指揮官の命令   がなくば、武装解除に応じられない」と要求。とりあえず、停戦協定のみを締結した。

二十四日 すでに沖縄本島の三十二軍司令部は、すでに崩壊したあとなので、たまたま当日、大本営派遣軍使としてマニラヘ飛ぶ途中の    川辺虎四郎中将の許可をもらい、かくしての武装解除の調印のはこびとなった。

 八月十六日に日本が降伏を知ったが赤松戦隊長は投降しなかった。日本軍の軍律では上官の命令でしか投降してはならない。その軍律を最後まで守ったのである。赤松戦隊長は最初から最後まで日本の軍人に徹したのだ。

 村の記録や戦記によると、私はわが身の保身に汲々とし唯々諾々として投降したごとく描写されている。私としてぽ軍人らしい規律を重んじ、最後まで徹底抗戦の用意があり、降伏も上級司令官の命の後に行なった。この点に関しては、一点のやましさもないと明言できる。
                 《私記》私は自決を命令していない

 投降までの過程を見ると、若き赤松戦隊長が徹底して軍律に従って行動したかが分かる。赤松氏の「一点のやましさもない」は信じてもいいと思う。


「赤松大尉は、その他にも、住民を惨殺している。戦闘中捕虜になって伊江島から移住させられた住民の中から、青年男女六名のものが、赤松部隊への投降勧告の使者として派遣されたが、彼らは赤松大尉に斬り殺された。
集団自決のとき、傷を負っただけで死を免れた小嶺武則、金城幸二郎の十六歳になる二人の少年は、アメリカ軍の捕虜となって手当を受けていて、西山に避難している渡嘉敷住民に下山を勧告してくるようにいいつけられたが、途中で赤松隊に捕まり射殺された」(『沖縄県史・各諭篇7』嘉陽安男編)

住民を惨殺したというが

 第一の場合、米軍の背後で(渡嘉志久)生活していた伊江島住民のなかから、男女三名ずつ歩哨線を抜けて、投降勧告にきた。女三名は取調べの田所中尉に、捕虜であることを告白したので、当時の戦陣訓の話をし、自らを処するように勧めた。帰してくれと懇願されたが、陣地内のモヨウを知っているうえに、戻れぱ家族の者もいることだし、情報がもれない保証はない。

 それに陣地内におくには、先に述べたように糧秣が逼迫していて不可能だ……中尉に事情をじゅんじゅんと説かれて、最後には従容として自決したという。
 男のほうは年配者だったと思う。女たちに男たちのことを聞くと、彼らは伊江島陥落のとき米軍を誘導してきた。今回も、自分たちだけで投降を勧めに行くと危いというので、女性を連れてきたという。この三名は自決に応じないので、斬刑に処した。現在流でいえば軍法会議を開くところだろうが、そんな余裕もなく、これは万やむをえなかった。
 第二の場合はこうだ。二人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されてなくとも、いったん米軍の捕虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが、二人のうち小嶺というのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので、私が直接取り調べに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと「ここで自決するか、阿波連に帰るかどちらかにしろ」といったら、二人は戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。赤松隊が処刑したのではない。

 陣地内の配置を米軍が知ると効率的な攻撃ができる。米軍が赤松隊の壊滅を狙って攻撃する可能性は高い。陣地内を見た島民を米軍の元に帰すことができなかったのは当然である。処刑をせざるをえなかった。
 陣地内の様子を米軍にばれるのを恐れて処刑したことを非難する識者が沖縄には多いが、それは戦争の厳しさを知らない、そして日本の軍人を軽視しているからである。軍人も人間である。軍人だから死んでもいいと考えるのは人間軽視に等しい。陣地内の様子を米軍にばれるのを恐れて処刑したことを非難することはできない。
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武力戦争から経済戦争へ







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武力戦争から経済戦争へ


韓国政府もTPP交渉への参加方針を固めたようだ。 
ヒョン・オソク経済副首相兼企画財政部(省に相当)長官は今月4日、朴槿恵(パク・クンヘ)大統領に対し「先進国による経済のブロック化の動きに先制対応するため、TPP交渉への参加表明を積極的に検討する必要がある」と報告したという。
また、促西江大学の許允(ホ・ユン)教授は「韓国が今TPP交渉に参加して自国の意見を積極的に主張しなければ、後々ほかの国々が作った交渉ルールを受け入れざるを得なくなるだろう」とした。
韓国がTPPに参加するのは時間の問題である。韓国がいくら中国となかよくして、日本を政治的に攻撃しても、経済は政治の思うままにはならない。韓国の将来を考えればTPPに参加して日本、米国と仲良くなるしかない。

これで中国以外のアジアの国々のほとんどがTPPに参加する。
TPPが動き始めた時、本格的な経済戦争が始まる。

戦後は資本主義国家圏と社会主義国家圏の対立から、アジアでは朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦などがあり中東でも多くの戦争があったが、資本主義と社会主義の対立によって生じる戦争はほとんど治まってきている。
気になるのはシリア内戦であるが、最近の中東の戦争は独裁国家を倒して民主国家をつくるための内戦であり、国と国との戦争ではない。もう、植民地にするための戦争や資本主義国家圏と社会主義国家圏の対立による戦争はなくなった。社会主義国家はソ連が崩壊して世界に影響を与える大国は中国だけになった。その中国も市場経済を導入したから生き残っている。いわば資本主義経済に虫食いのように食われた社会主義国家である。
経済大国になった共産党一党独裁中国は、独裁国家であるがゆえに日本やフィリピン、ベトナムなどの周辺国に軍事圧力、政治圧力をかけて意地悪している。
しかし、中国は意地悪しかできない。意地悪以上の戦争はできない。戦争をすれば貿易はストップし外国企業は退散して中国経済が破綻するからだ。尖閣諸島で紛争が起こるのを一番恐れているのは本島は中国だ。

しかし、中国の意地悪さえTPPが始まればできなくなる。日本、米国を中心にアジアの国々が自由貿易を始めれば中国の意地悪なんてどうってことない。孤立した中国は右往左往するだろう。
中国がTPPに参加するには大国の特権を捨てなければならない。フィリピンに意地悪してバナナを腐らしたり、日本に意地悪してレアアースを値上げしたりすることができなくなる。為替レートを勝手に操作することもできない。
TPPに参加することは大国の特権を捨てなければならない。中国は他の国と同じ条件で経済競争をしなければならない。中国にとってTPPに参加するのも参加しないのも共産党一党独裁の危機である。

TPPは武力戦争から離脱して、経済戦争への始まりである。

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高校不登校の原因は小・中の落ちこぼれ教育にあり







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高校不登校の原因は小・中の落ちこぼれ教育にあり



 二〇一一年度の県内高校の不登校者数が一三八二人に上り。不登校率が全国平均一・六八%に比べてほぼ倍の三・〇〇%だったと県教育庁は発表した。不登校者数は〇六年度の一〇四八人から五年連続増加した。県教育庁は「早急に改善が求められる状況だ」として、不登校者減少を目指し、取組みをさらに強化する方針だという。
 不登校のきっかけは遊びや非行型、無気力、情緒不安定など「本人起因」が七三・一%と最も多いという。
県教育庁は遊びや非行型、無気力、情緒不安定の原因について追及していないが、それらの原因に落ちこぼれが大きく占める。

 糸満で学習塾をやっていた時、「アシバー」と言われている不良中学二年生の女子三人が塾に入ってきた。三人の中の一人は小学生の時は成績が良かったのでぐんぐん成績が良くなった。彼女の影響で他の二人も頑張り成績がよくなった。三人の成績が良くなったことは学校でも噂になったくらいである。その噂が広まったので「アシバー」女子中学生が次々と入ってきた。そして、中学一年生で金髪に染めた生徒も塾に入りたいとやってきた。三十五年前のことである。あの頃は金髪に染めている生徒を見たことがなかった。
私は中学一年のクラスを担当していなかった。私は生徒が金髪であろうが不良であろうが平気だったが、他の講師は「不良」を怖がった。さすがの私も彼女を入塾させるかどうか迷った。私は金髪を止めて黒髪にするのなら入塾を許すと言った。その生徒は黒髪にすることはできないといったので私は入塾させなかった。

 考えてほしい、三十五年前に金髪に染めている不良少女さえも成績を上げたい気持ちはあったことを。成績の悪い生徒が成績を上げるのには苦痛がともなう。苦痛に耐えながら勉強してもなかなか成績が上がらないのが現実だ。「アシバー」たちは成績に興味がないわけではない。成績を上げることができないのだ。成績が上がれば多くの「アシバー」が真面目になる。

 学習塾をやって痛切に感じたのはほとんどの生徒が成績はよくなりたいと思っていることだ。しかし、勉強は苦痛であるし苦痛に耐えられないで成績を上げることができない生徒は多い。金髪の少女は私の塾に通えば楽に成績が上がると思って入塾しようとしたのだろう。彼女の成績は上がったかも知れない。しかし、上がらなかったかも知れない。
 学習塾に入っても成績の上がらない生徒はいる。それは低学年で落ちこぼれた生徒だ。一桁の足し算がすらすらとできない中学生、掛け九九を即答できない中学生、漢字がほとんど読めない生徒の成績を上げるのは学習塾では困難だ。基礎力を個人指導で教えない限り成績をあげるのは困難だが学習塾で個人指導する時間は少ない。

 現在の公教育のシステムでは一度落ちこぼれてしまうと這い上がることが困難である。落ちこぼれた生徒が自力で這い上がるのも非常に困難である。這い上がることができた生徒は非常にがんばり屋で頭がいいからだ。普通の頭なら不可能だ。
高校生の不登校の原因の多くは落ちこぼれである。高校の落ちこぼれの原因は中学の時の落ちこぼれが原因である。中学の落ちこぼれの原因は小学の落ちこぼれが原因である。

 フィンランドが学力世界一だということで沖縄でも話題になった。フィンランドの教育法を勉強するために沖縄の政治家や識者がフィンランドに行った。私も興味を持ちフィンランド関係の新聞やテレビ番組を見、WEBでフィンランドの教育法を調べた。

一、テレビで小学一年生の授業を放映していた。実習生が七,八人の生徒を教えていたが、グループの端に座っている生徒が先生に教え てほしいと手を挙げた。しかし、実習生は他の生徒を教えるのに手いっぱいで、手を挙げた生徒を教えることができなかった。
 授業の反省会で、手を挙げた生徒は教えてくれなかったことで実習生を非難した。実習生は自信喪失をしていた。一人一人の教育を大 事にするフィンランドの教育は教師に高い教育指導力を要求していることを知った。
二、フィンランドの教育は高校を卒業した時に一人前の社会人として生きていけるのを目標にしているという。学力世界一だから大学進 学を目標にしていると思っていたので意外に思ったが、学習塾時代のことを思い出し、フィンランドの教育方針に納得した。そして、 高校を卒業した時に一人前の社会人として生きていけるのを目標した教育方針が沖縄に一番必要だと思った。
  大学進学を目標にすると優秀な生徒のほうを重視する。そして、有名高校進学に注目するようになり、東大や早稲田など本土の有名 大学に何人合格したかが話題になる。それでは一部の優秀な生徒が重視され、落ちこぼれ問題は無視される。
  高校卒業した時に一人前の社会人になることを教育目標にすると、落ちこぼれを出さないことを重視する。沖縄の学力が最下位であ ることも高校生の不登校が多いことも落ちこぼれに問題がある。落ちこぼれを出さない教育方針になれば学力最下位脱出し、高校生の 不登校も激減するだろう。
三、フィンランドでは落ちこぼれ対策は小学一年から実施している。落ちこぼれ生徒は普通の授業を受けながら落ちこぼれ専門の教師が 早朝や放課後を利用して教える。
 落ちこぼれ生徒だけを集めて教えるのはだめだ。最初に思いつくのは落ちこぼれを集めて基礎からじっくりと教えたほうが効果がある ように思えるがその方法はイギリスで失敗している。落ちこぼれを普通の成績に上げるには教える時間を長くする方法が一番いい。ス ポーツでは練習量が多ければ多いほど成長する。スポーツ大会の上位チームは練習量が豊富だ。効率のいい練習と練習時間の長さが強 豪チームをつくる。学力も同じだ。効率のいい勉強と勉強時間の長さが学力を向上させる。落ちこぼれ生徒の学力を上げるには勉強時 間を長くするしかない。
 子どもの集中時間は短いから長い時間勉強させても効果がないというのは嘘だ。私は学習塾を辞めてから、ひとつだけ気になることがあった。落ちこぼれの生徒を勉強させるのにプリントは必要ないのではないかということだった。知人の中学生に落ちこぼれの生徒がいたので私から頼んで生徒の家庭教師になった。私がやったのは全ての教科書の漢字が読めること。国語はすらすらと朗読ができること。数学はプリント問題をさせるのではなく、教科書の問題を解かせた。同じ問題を繰り返しやらせた。ただクリカエスのではなく、解く時間を早くするように要求した。英語は読めて文章を訳することに徹した。文法は教えなかった。
 学校の授業では黒板の字を書き写す時はできるだけ多く覚えてからノートに書き写すように指導した。教師の話は意味が分からなくてもいいから暗唱するように指導した。それは暗記訓練と授業への集中度高めるのが目的だった。勉強は基礎をじっくりとやるから三、四時間の長い勉強時間だった。
 数か月で生徒の成績は一気に上昇し、普通の成績になった。成績がよくなると欲が出てくる。プリントを使わない私の教え方に疑問も出てきて、彼は私の家庭教師を断わって学習塾に通った。十五年間学習塾をやった結果考え出した私の学習指導法だったが、逆にプリントを使わない学習指導は古い教え方だと本人は思ったのだろう。学習塾に通った彼は学力は伸びなかっただろう。私としては高校受験まで教えて高校でも普通以上の成績にしたかったのだが、私の教えから離れた彼は残念ながら高校では落ちこぼれ生徒になってしまった。
 小学六年生にも私から頼んで半年間同じ学習指導をやったことがある。普通より少し下の成績だった。成績は上がり、欲が出た生徒は学習塾に通うようになった。一年後に母親に英語を教えてくれと頼まれた。小学生の時に私が教えた国語と数学の成績はいいが英語はよくないからだという。

 母親の話を聞いて私の想定は確信に変わった。私の学習指導の目的は本当の実力をつけることだった。私が教えなくなっても成績は落ちないのを目的にした学習指導法だったのだ。私の想定通りその生徒は国語と算数の実力をつけていた。
コンビニエンスを経営していた私は忙しいので家庭教師になるのを断った。
 私の学習指導法は単なる復習のように思えるから大した効果はないと生徒本人も母親も思っただろう。だから、私が教えて成績が上がったから学習塾に通えばもっと成績が上がると考えたのはとうぜんである。しかし、学習塾に通っても私が教えたほどの効果はなかった。
プリント問題をやらせて解答をするのが効果的であると多くの親や教師は思っているがそうではない。教材は教科書だけでいい。オーソドックスな学習のほうが本当の実力がつく。


 一,二,三が沖縄の教育がフィンランド教育に学ぶべきものであると私は思っている。
小学一年生から落ちこぼれを出さない。中学を卒業するときはすべての生徒が高校の授業についていけるようにする。この教育方針が沖縄の教育にもっとも必要である。落ちこぼれをなくすということは学力の底上げになるから全国学力テストの平均はぐーんと上がる。
全国学力テスト最下位からの脱出もまずは落ちこぼれ生徒をなくすことにある。

 国語・理科・社会で落ちこぼれをなくす方法は教科書の漢字を全て読めるようにすることである。
 文章の読解力、小説や詩の内容を理解することが国語の基礎力と考えている人は多いと思う。それは違う。子供は漢字が読めなくても年相応に考える力、想像力は成長していく。中学三年生が小学一年生の漢字しか読めないからといって彼の考える能力、想像力も小学一年生と同じではない。中学三年生は中学三年生の考える能力、想像力がある。漢字が読めないから文章の内容が理解できないだけのことだ。漢字がすらすら読めるようになれば文章読解力は自然に高くなる。
 空という漢字を読めないから空を知らないわけではない。海という漢字を読めないから海を知らないわけではない。空を読めるようになれば空という字が頭上に広がる実際の空と繋がるだけだ。漢字が読めるということはその人の観念と文章が繋がり、文章を読みながら想像することができるということだ。漢字が読めなければその人の観念と文章が繋がらないで文章と想像が断絶されるということだ。
読解力を高める、想像力を豊かにする以前に漢字を読めるようにすることが重要なのだ。
 国語、理科、社会の場合は漢字の読みが九〇点未満なら落ちこぼれにしたほうがいいと思う。新しい章に入るごとに全ての漢字の読みがなをテストをして、不合格者は放課後再テストをする。それを小学一年から中学三年まで徹底してやるのだ。読みがなテストを徹底してやれば学力テストも飛躍的に伸びるだろう。

 落ちこぼれ生徒の授業の仕方

 五つの熟語を黒板に書く。生徒は漢字をノートに写す。黒板の熟語に読みがなを書き、生徒に声を出させて読ませる。読みがなを覚える時間を与える。黒板の読みがなを消す。ひとつひとつ熟語の読みを言わせる。テストをする。熟語の読みを覚えたという生徒だけをテストする。まず、読ませる。読みで失敗したら失格。全て読めたらノートに書いた漢字に読みがなを書かす。全部正解で合格。

 テストの第一の目的は漢字を覚えさせることではない。集中力と暗記力を高めることである。集中力と暗記力がつけば漢字を覚えるのが早くなる。文章を読む能力も高くなる。
この授業は成績が良い悪いに関係なく全員が集中する。そして、暗記力が高める。

 読みがなテストと落ちこぼれ対策授業をやれば中学三年生になった時、ほとんどの生徒が九〇%以上の漢字力がついているだろう。
全国学力テストも中間くらいになるはずだ。

 沖縄にとってオスプレイや辺野古移設問題よりも重要なのは学力問題だ。オスプレイや辺野古移設問題は日米間の国家問題であり、アジア全体の政治・軍事問題である。沖縄県規模の小さな問題ではない。沖縄県の政治力で左右できるような問題ではない。
しかし、学力問題は県内問題であり、沖縄の将来とも関係している。県や市町村の方針で大きく左右する。学力向上は県や市町村の采配にかかっている。沖縄の政治家が真剣に教育問題を追及していないから全国最下位なのだ。
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赤松戦隊長は自決命令をしていなかった







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なぜ集団自決が起こったか2



赤松戦隊長は自決命令をしていなかった


 集団自決で悪名高いのが赤松戦隊長である。
 渡嘉敷島の島民には集団自決を命じたのに、自分は山の中にこもり、戦うこともしないで終戦まで生き延びた。それだけではない。米軍の使いで投降を呼びかけに行った島民を処刑した。
 これが赤松戦隊長の定説である。私もそう思っていた。臆病で自己保身のために平気で島民を殺す赤松戦隊長を私はずるい中年の男だと思っていた。新聞を読めばそう思うのが当然だ。ところが赤松隊長は中年男ではなかった。二十五歳の若い将校だった。部下はなんと十六~十八歳の特別幹部候補生だった。人数は百四名で編成していたが、開戦時には病気、事故などで百名を割っていた。
 渡嘉敷島の日本軍が二十五歳の若い将校と十代の少年兵たちであることが分かれば、新聞に書いていることを鵜呑みにしなかったかも知れない。それに彼らは○レ(マルレ)という特攻艇で敵艦にぶつかるために渡嘉敷に来た。彼らは二年近く特攻訓練をして、死ぬために渡嘉敷島にきたのだった。そういうことを知っていれば、島民に集団自決を命じたことに疑問を感じたり、終戦まで生き延びたことにも何らかの理由があるかも知れないと考えただろう。

 驚いたことに、と言っても「集団自決」に特に深い関心があるわけではなく、沖縄紙を読むだけだったのだから、驚くのは当然であるのだが、実は四十三年前の一九七一年十一月号の雑誌「潮」で赤松氏は「集団自決」について詳しく弁明している。

雑誌「潮」一九七一年十一月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか
《私記》私は自決を命令していない
"極悪無残な鬼隊長だった。といわれているが、ことの真相を事実に基き明らかにしたい
赤松 嘉次  元海上挺進第三戦隊長・肥料店経営

《私記》は次のように始まる。

怒号のアラシの出迎え

「何しにノコノコ出てきたんだ! 今ごろになって!」
「おまえは三百人以上の沖縄県民を殺したんだぞ! 土下座してあやまれ!」

 耳をふさぎたくなるほどのすさまじい怒号が、飛行機のタラップから降り、空港エプロンに向かった私を急襲した。エブロンには数多くの、抗議団と称する人々が集まっていて、口々に「人殺しを沖縄に入れるな!」「赤松帰れ!」のシュプレヒコールを、私にあびせかけてきた。
 戦時中の基地であった渡嘉島で、昨年の三月二十八日行なわれるはずだった「第二十五回忌合同慰霊祭」に、島の人々に招かれて、私たち海上挺進第三戦隊の生存者の有志たちが、訪沖の第一歩をしるしたさいの出来事である。
ある程度のことは予想していたのだが、かくも激越な抗議デモに出迎えられ、モミクチャにされるとは夢想だにしなかったし、また、その後約半月にわたり、沖縄の新聞でいろいろと取りざたされたのには、驚きをいだいたというより、まったく戸惑ったというのが実感である。
 それまでにも、週刊誌等に数回、私のことが取り上げられていたが、多くは興味本位的な記事であり、いかにも私が「三百有余」の島民に一方的に自決を命じたかのような内容が、沖縄の方々に深く信じられているとは、夢にも思っていなかったのである。
日本でも、戦後しばらく暴露的な読み物や映画が多く出回り、世人のヒンシュクを買ったが、しだいに生活が落ち着くとともに、それらの多くは姿を消していった。だから、渡嘉敷での私たちのことも、時日が真相を明らかにしてくれるものと信じていた。さらに、戦後、沖縄の知人との文通も途絶えがちで現地沖縄の様子もわからぬまま、慰霊祭参列のための訪沖となり、抗議デモに遭遇したのである。

 私には大学にいっている娘がある。この娘が事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある。そのとおりなのだ。いかにして島を死守し、最後の一兵まで戦うかに夢中だった状態のなかでも、われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた。

 いまさら、弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で"殺人鬼"なみに悪しざまに面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい。編集部からの切望もあり"誤解"されている間題点のひとつ、ひとつを以下で説明してみようと思う。
                《私記》私は自決を命令していない                   

 赤松氏は肥料店を経営していた。廃墟と化した戦後の日本で生活のために必死に仕事をしていただろう。仕事に忙しくて「集団自決」の噂などを調べる余裕はなかった。沖縄の事情を知らないまま慰霊祭参列のための訪沖した赤松氏は抗議デモに遭遇し大きなショックを受けたのである。一九六九年に、警察官を蹴散らせて立法院になだれ込み「教公二法」の採決を阻止したくらい沖縄の教職員・公務員の政治運動は活発であり、政治力も強かった。教職員・公務員による激しい抗議デモに赤松氏は大きなショックを受けただろう。
赤松氏は渡嘉敷の村民の招待で慰霊祭参列のために沖縄に来た。赤松氏と村民の間には恨みつらみはなかった。むしろ親しい関係にあった。村民の心を無視したのが革新政治家や教職員・公務員の運動家たちであった。沖縄人である渡嘉敷村民の心を踏みにじったのは同じ沖縄人である。彼らは自分たちの主張を一方的にやるだけで同じ沖縄人である渡嘉敷村民の心を理解する考えは毛頭なかった。

「ここはお国を何百里・・・・ではじまる。「戦友」という歌がある。子供の頃はこの歌が好きで歌っていた。映画で「戦友」の歌詞に合わせた挿入映像の映画もあった。私は「戦友」は軍歌だと思っていたが、そうではなく放送禁止の歌だったらしい。

 戦友   真下飛泉・作詞  三善和気・作曲       

一)ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
  赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
二)思えば悲し昨日まで 真っ先駆けて突進し
  敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか
三)ああ戦いの最中に 隣に居ったこの友の
  にわかにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄りて
四)軍律厳しい中なれど これが見捨てておかりょうか
  しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾の中
五)おりから起こる吶喊に 友はようよう顔上げて
  御国のためだかまわずに 遅れてくれなと目に涙
六)あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
  それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか
七)戦い済んで日が暮れて 探しに戻る心では
  どうか生きていてくれと 物なと言えと願うたに
八)虚しく冷えて魂は 国へ帰ったポケットに
  時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや
九)思えば去年船出して 御国が見えずなった時
  玄界灘に手を握り 名を名乗ったが始めにて
一〇)それより後は一本の 煙草も二人分けてのみ
  着いた手紙も見せ合うて 身の上話繰り返し
十一)肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ
  死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲
十二)思いもよらず我一人 不思議に命永らえて
  赤い夕陽の満州に 友の塚穴掘ろうとは
十三)隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
  友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙
十四)筆の運びは拙いが 行燈の陰で親たちの
  読まるる心思いやり 思わず落とすひとしずく

 突然、集団自決とは関係のない「戦友」の歌詞を掲載したのには理由がある。日本軍の軍律が厳しかったことを知ってもらいたいからだ。軍律が厳しいことを知っていれば赤松戦隊長が渡嘉敷でどのような行動をとったかを想像しやすくなるからだ。
「戦友」は全体的に戦争の虚しさを感じさせる歌であるが、歌詞の四番では、軍律を破って「これが見捨てておかりょうか」と倒れた友を抱き起こしている。これは兵士として許されない行為であり、だから、軍国主義国家では放送禁止にされたのだ。「日本軍の軍律は普通であり、厳しくはない」と考えている日本軍幹部に「「軍律厳しい」の歌詞は反感を買ったということだ。それに戦いを放棄して倒れた戦友に駆け寄るような歌詞はとんでもないことであり日本軍はそのような歌詞は一切許さなかった。日本軍の軍律が厳しかったという証拠である。

「戦友」が放送禁止になったことからも分かるように日本軍の軍律は非常に厳しかった。本島にある軍本部の指揮に従わなければならない赤松戦隊長が独断で行動することは許されなかった。すべての行動は連絡ができる限り本部の許可が必要であった。また、軍の行動記録を書き残すのも義務であった。赤松戦隊長の軍隊も常に本部と通信で連絡し、現状報告をしていた。本部からの命令に従いながら赤松戦隊長の軍隊は行動をしていたのだ。

二、転進命令 軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)那覇ニ転進命令ヲ受領ス
  勤ム隊主力整備隊一部並ニ水上勤ム隊ノ主力ハ船舶團長ノ意考ニ依リ渡嘉敷島ニ残留敵ヲ邀撃ニ訣ス

二二:二○部隊全員ヲ以テ舟艇泛水ノ作業を実施ス

 ところが、慶良間列島をあちこちと視察しておられた船舶団長は、この命令を知らず、上官無視だと非常に立腹された。私は敵中突破して那覇に向かう決心を述べたが、団長はなかなか同意してくれない。種々協議の結果、戦隊の主力(一個中隊欠)をもって、大佐を護送することを決定。この間の事情も『陣中日誌』に明記されている。
                《私記》私は自決を命令していない
 このように赤松戦隊長の舞台は本部との連絡を常時やっているし、上官が視察もやっている。赤松戦隊長の独断で行動していたのではない。

「三月二十六日晴、出撃準備命令(註・大佐護送のため)湾外より艦砲受け、水面にて瞬発信管により散弾飛び散り、又焼夷弾山の肌を焼く中泛水作業……敵を迎撃する基地特設隊の感情交錯し、干潮のためリーフ各所に露出、延々五時間を要し、東天既に黎明近く、白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が本島に到達すること不可能なるを考え、船舶団長(大町)再び艇の収容揚陸を命ず。戦隊長(赤松)現在使用しうる人員を以てする揚陸は不可能と判断、団長に出撃命令下令を懇願せしむるも空しく……全員揚陸作業行なうも、敵機の空襲(グラマン機)を受く。茲に於て遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命ず」
 以上で、私が生命への未練や気遅れから、身がってな"破壊命令"を出したのではないことだけは、わかってもらえると思う。
                《私記》私は自決を命令していない
 船舶団長(大町)が艇の収容揚陸の命令に対して、赤松戦隊長は揚陸は不可能と判断して、団長に命令を取り消すように懇願したが団長は受け入れなかった。上司の命令は絶対である。だから団長の命令に従って全員で揚陸作業を行なった。だが、敵機の襲撃で揚陸できなくなり自沈した。赤松戦隊長の独断で艇を自沈したのではないことが理解できる。

作詞
作曲 作者不詳

1お国のためとは言いながら
 人の嫌がる軍隊に
 志願で出てくるバカもいる
 可愛いスーちゃんと泣き別れ
2朝は早よから起されて
 ぞうきんがけやらはき掃除
 いやな上等兵にゃいじめられ
 泣く泣く送る日の長さ
3乾パンかじるひまもなく
 消灯ラッパは鳴りひびく
 五尺の寝台わらぶとん
 ここが我等の夢の床
4夜の夜中に起こされて
 立たなきゃならない不寝番
 もしも居眠りしたならば
 行かなきゃならない重営倉
5海山とおく隔てては
 面会人とてさらになく
 着いた手紙の嬉しさよ
 可愛いスーちゃんの筆の跡

 可愛いスーちゃんの歌詞である。この歌でも日本軍は初年兵から厳しく鍛えていることがわかる。この歌も放送禁止だった。「戦友」も「可愛いスーちゃん」も私の好きな歌で昔から口ずさんでいた。厳しい軍律に反発しているある意味反戦歌だったからこの歌が好きだったが、日本軍の軍律が厳しかった証拠の歌として書くとは皮肉なもんだ。
 私は勝新太郎の大ファンで「悪名」-座頭市」「兵隊やくざ」のシリーズ映画をよく見ていた。「兵隊やくざ」は荒くれ者の勝新太郎とエリートの田村高廣が主人公だったが、新米の勝新太郎は上等兵に徹底してしごかれていた。そして、鉄砲などの手入れを怠ると「天皇陛下の賜物である鉄砲を・・・」と言ってまたしごかれた。規律を破るとすぐに鉄拳が飛んだ。娯楽映画であっても日本軍の規律が厳しく、日本軍が鉄砲から大砲まで軍需物資を徹底管理していたことは分かる。そのような日本軍の規律の厳しさを知らないから、特攻艇マルレを赤松戦隊長が自分勝手に自沈したと思うのだ。


 赤松氏は「集団自決」についても弁明している。

 自決命令を下したあと「赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。……』と主張したという」(岩波新書・同前書)

 糧秣に関しては、米軍が四月上旬に沖縄本島に兵力を集中していらい、五月中旬まで攻撃が中断していたころ、村長と会合をもち糧秣協定を結んだものだ。鶏と豚は村民が、牛は部隊がとる。イモは、わが軍が米軍の鉄条網を切断、前のほうを部隊(すでに米軍基地となっていた場所だから危険なのだ)、後方は住民と分割、協同作業を行なった。部隊全体としてほ、住民に対して糧秣の圧迫を加えたことは一度もない。一部の兵隊か空腹のあまり、民に食糧をねだったかもしれないが、この程度の例外はいたしかたないだろう。
私の部隊で、新海中尉をはじめ数十人の栄養失調による死者を出したことでも、食糧のない苦しさにどれだけ耐えていたか、一端がうかがえるというものではなかろうか。
                 《私記》私は自決を命令していない

 集団自決を命令していなかったと四十二年前に赤松氏本人が弁明している。本人の主張を完全に無視したのが頭から赤松戦隊長が自決命令を出したと決めつけている沖縄の新聞、識者、沖教祖、自治労である。
あの時赤松氏は二十六歳の若き将校であった。軍の規律に忠実にあろうとする年代である。国民を守るのが軍隊であるという精神はあったはずである。特攻攻撃をするために渡嘉敷島にやってきた若き赤松戦隊長が自分が生き残るために村民を犠牲にする考えは生まれてこなかったはずである。
 赤松戦隊長は村が米軍に占領された時に、村長と話し合って糧秣協定を結んでいる。米軍が占領している畑に侵入して芋を分け合う相談までやっている。そんな赤松戦隊長が集団自決を命令するのはあの得ないことである。

 数日前に、WEBで「《私記》私は自決を命令していない」を読み、赤松氏の軍隊の多くが十代の少年兵たちであることを知って、赤松戦隊長が玉砕覚悟の総攻撃をしなかった理由が分かった。

一、 特攻を目的に渡嘉敷島に来たので、戦闘用の武器弾薬は少なかった。
二、 米軍は渡久地から上陸したように、慶良間諸島は軍事戦略上占領する必要はなかった。だから、掃討作戦は行わなかったの      で、米軍から激しい攻撃はしなかった。
三、 特攻目的の訓練を受けた十代の兵士は戦闘能力がなかった。

 一、二、三の理由から赤松戦隊長は総攻撃をかけることも自決をすることもできないで終戦を迎えた。
渡嘉敷島にやってきた兵士のほとんどは特攻を目的に訓練されただけで地上戦の能力はなかった。兵士のほとんどは少年兵だったという。であるなら、彼らは特攻作戦のために召集された兵士たちであり、マルレを操縦して敵艦にぶつかる訓練だけを受けたはずである。
沖縄本島に向かった米艦隊を後方から攻撃する目的で赤松戦隊長率いる特攻隊は渡嘉敷島にやってきた。米軍が渡嘉敷島を攻撃するのは想定していなかった。ところが米軍は日本軍の作戦を見抜いていたかのように渡嘉敷島を攻撃してきた。そのためにマルレを全て自沈した。その時、赤松戦隊長は米軍の総攻撃を覚悟したと思う。ところが米軍は攻撃してこなかった。戦闘能力のない十代の兵士を抱え、有効な攻撃を計画できない赤松戦隊長は内心途方にくれたのではないだろうか。


 渡嘉敷島の集団自殺は三月二十九日である。まだ、沖縄戦は始まっていない。食糧物資なら本島から運べる手段があると考えるのが普通だ。それに米軍が総攻撃をかければ武器弾薬が不足し、戦闘能力のない少年兵が多いのだから玉砕する可能性のほうが高い。持久戦になるのか、玉砕するのか、それとも本島に避難するのか赤松戦隊長では判断できない状態であっただろう。そのような状態で持久戦になることを予想し、食糧確保のために島民に自決を命じることはあり得ない。
渡嘉敷島が持久戦になったのは米軍が総攻撃をしなかったのが原因だ。赤松戦隊長が、将校会議で「持久戦は必至である」と言ったのはあり得ない。それは渡嘉敷戦の結果が持久戦になったから言えることであり、赤松戦隊長の発言は戦後にねつ造されたものであるとしか考えられない。
四十二年前の「潮」に掲載された穴松氏の手記を読めば、赤松氏が自決命令を出していなかったと私は確信していただろう。
 

赤松氏は、米軍が派遣した投降勧告の使者を処刑したことについても言及している。そのことは次のブログで紹介する。

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なぜ集団自決が起こったか







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


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なぜ集団自決が起こったか



 沖縄戦の時、座間味島二三四人、渡嘉敷島三二九の島の人たちが軍命令で集団自決したという話を私が最初に聞いたのは四〇年以上も前である。大江健三郎のフアンであった友人が大江健三郎の沖縄ノートに書いてあるといった。私が学生運動をやっていたので興味を持つだろうと思って友人は私に話したと思うが、私は慶良間の集団自決に関心を持たなかった。それには理由があった。

 高校生の時に、沖縄県民が日本兵にスパイ容疑で殺害された事件があったことを聞いた。沖縄方言は日本兵には意味が分からない。方言を話す県民に日本兵は疑心暗鬼になり、スパイ容疑で殺害したと高校の教師は話した。日本兵が県民を殺した話を聞いて私は大きなショックを受けた。方言を話しただけで殺すなんて信じられない。半信半疑の私は学校の図書館でそのような事実を書いてある本を探した。
 本はあった。沖縄戦について書いた本であったが、本島の北部で照屋忠英という校長が殺されたことが書いてあった。方言を話した県民が殺されたこともショックだったが、校長が殺されたことにもっと強いショックを受けた。校長なら共通語が話せたはずである。方言しか話せない県民が殺されたのとは違う。校長さえも殺したということは、日本兵による沖縄県民のスパイ容疑殺害事件は日本兵が沖縄の方言がわからないということだけが原因ではないことになる。日本兵が沖縄県民をスパイ容疑で殺したのは沖縄県民の命を軽視し沖縄差別があったからだと私は思った。私は照屋忠英校長がスパイ容疑で殺されたことに対して日本兵に怒りを覚えたが、それは過去の沖縄戦の話であり、現在とは関係がない。スパイ容疑殺害に対する私なりの判断をし、私の問題追究はそれで終わった。

照屋忠英校長
 天底尋常高等小学校(今帰仁村)では創立50周年記念事業として一九三八年(S.十三)に奉安殿が建造された。照屋忠英校長は、沖縄師範を出た勤勉努力家タイプの人で、三十二歳で校長に抜擢された優秀な先生だった。当時の優秀な先生というのは、国策に沿った教育を実践していると云うことである。 奉安殿を創るには多額のお金が必要。照屋校長は地域の人達を説得し、多額のお金を集め、県下随一といわれる荘厳な神社様式の奉安殿を創った。国に忠実な照屋校長だったが、一九四五年.四月十八日.伊豆味の山中で日本兵にスパイ容疑で虐殺される。明治以来「忠良なる臣民づくり」が教育のキーワード、その結末として照屋校長の虐殺がある。
                            琉球新報

 私が集団自決の話を聞いた時、脳裡に高校生の時に関心のあったスパイ容疑殺害のことが浮かんだ。私は集団自決とスパイ容疑殺害事件を比較した。

 スパイ容疑で県民を殺した日本軍である。沖縄の人命を軽く見ている日本軍が県民に自決命令をしたのはあり得ることである。私には軍命令があったことに驚きはなかった。軍命令は私の想定内であった。ただ、集団自決とスパイ容疑殺害には決定的な違いがある。スパイ容疑殺害は日本兵による理不尽な殺害である。しかし、集団自決はスパイ容疑殺害とは違って本人が自らの死を決めている。日本軍が自決命令を出したとしても最終的に死を決めるのは本人である。日本軍が自決命令を出したからといって死ぬのが嫌なら集団自決の場から逃げて自決しなかったはずだ(事実、自決現場から逃げた人もいた)。自決は最終的に自分の意思で決めることだ。集団自決は悲惨なことであるが、自分で死を選んだのだからスパイ容疑殺害のような日本軍による一方的な殺害ではない。集団自決はスパイ容疑殺害に比べれば悲惨ではないと私は思った。
 日本軍は手りゅう弾を与え、島民は自ら手りゅう弾のピンを抜いたというのが私の説だった。そのような内容の意見文を四、五年ほど前、琉球新報に投稿した。残念ながら掲載はされなかった。

題名・集団自決の原因はなににあるか

 スパイ容疑殺害と集団自決は性質が異なります。集団自決はスパイ容疑のように日本軍によって殺されたのではありません。集団自決は、たとえ軍命令であったとしても、最終的には本人の決意で手榴弾のピンを抜いたのです。本人の決意がなければ自決は実行されなかったのです。集団自決に関しては自決した人々の精神・思想も重要な問題となります。集団自決を決行した人々は「天皇陛下万歳」と叫んで自決しています。自決した人々は天皇を崇拝し、天皇や国のために自決をするという自己犠牲の思想があったということです。

 集団自決について確信をついたいい文章であると思っていたので新聞に掲載されなかったのを残念に思っていたが、「集団自決=強制集団死」と書くようになった沖縄の新聞だから、いまから考えると、自ら死を選んだという意見が掲載されなかったのは当然だったのかもしれない。
 新聞に掲載はされなかったが、日本軍の自決命令だけでは集団自決はなかった。本人たちの死の決意も重なって集団自決があったのだという私の考えが真実に近いだろうという自負が私にはあった。ところが私の自負が消し飛ぶことが起こった。
 座間味村の集団自決に軍命令を出した梅沢元隊長は韓国の慰安婦と謎の死を遂げたはずだったが、なんと梅沢元隊長は生存していて、ユーチューブに彼の映像があるということを狼魔人日記の江崎さんが教えてくれた。私は梅沢元隊長の映像をユーチューブで探した。江崎さん言った通り本当に梅沢元隊長の映像があった。
九十三歳の梅沢元隊長は姿勢がよく、話も元隊長らしく無駄のない単純明快に話した。


二〇〇九年十月

 梅沢元隊長は自決命令を出していなかったと明言した。それどころか自決するために機関銃を借りに来た村の代表に、自決はするなと怒って帰したというのだ。

「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」
「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」

 日本軍は県民に自決命令を出したと何百回何千回と報道されてきたから、私は日本軍が自決命令を出したと完全に信じていた。しかし、梅沢元隊長は自決命令は出さなかった。それどころか自決はしないで生き延びろと言ったのだ。
助役の宮里盛秀氏が、
「いよいよ敵が上陸しそうです。長い間、御苦労様でしたが、お別れに来ました。私たちは前から、年寄り、女子供、赤ん坊は軍の足手まといになるため、死ぬと決めています」
といったことに梅澤元隊長は本当に驚いたという。「戦国時代の物語として聞いたようなことを、まさか、沖縄の人が言うとは思いませんでした」と語った。私は梅沢元隊長の話に驚いた。私の頭は混乱した。

 高校生の時、特攻隊が「天皇陛下バンザイ」と叫んで敵艦に突っ込んでいくシーンを何度も見た。私は本当に特攻隊員は天皇陛下のために死んでいったのか疑問だった。私は天皇陛下のために特攻隊員として死ねるかどうかを自問自答した。戦後生まれで、近くに米軍基地があり、アメリカ人もいる社会で育ち、天皇崇拝とは遠いところにいる私の結論は天皇陛下のためには死ねないが親兄弟や国民のためには死ねるということだった。
 琉大に入り、吉本隆明氏が特攻隊員の多くの若者が私と同じ考えだったと本に書いてあるのを読んでやっぱりそうだったかと迷いがふっ切れたことがあった。
 私たちが忘れてならないのは軍隊は国のために戦うことを本分としていることである。軍人はそのように教育される。国民を支配しろとは教育されない。梅沢元隊長が中国戦線から座間味島に来たのは座間味を死守するためであった。
私は梅沢元隊長の話を聞きながら、私もいつの間にか日本軍は悪というイメージが脳裏にこびりついていることに気が付いた。梅沢元隊長は生粋の軍人である。軍人とは国土と国民を守るのを責務としている。

「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」
と、梅沢元隊長は村の代表者に言ったという。日本軍の言葉ではないような感じを受けるが、本当は梅沢元隊長は軍人として当然のことを言っているのだ。

「軍隊は住民を守らない」という噂がまことしやかに流布しているが、沖縄戦では十万人の日本兵が戦死し、日本軍は壊滅した。壊滅した軍隊が住民を守ることができないのは当然である。ほとんどの日本兵は沖縄を死守しようと死を覚悟してアメリカ軍に切り込んでいった。日本軍がアメリカ軍に勝てば住民を守ることができたはずである。しかし、日本軍は壊滅した。

 日本軍は自決命令を出さなかったということだと、「日本軍は手りゅう弾を与え、島民は自ら手りゅう弾のピンを抜いた」という私の理屈が成り立たないことになる。それどころか島民は「死ぬな」という梅沢隊長の命令に従わず集団自決をした。なぜ、日本軍の命令に背いてまで集団自決をしたのか。
 琉球王国時代には自決の思想はなかった。もちろん明治になっても自決の思想はなかった。それなのに沖縄戦では日本軍の命令に背いてまで集団自決をやったのだ。

 沖縄戦の集団自決の原因を解き明かすには明治維新から沖縄戦までを辿らなければならない。沖縄にいつの時代に「自決の思想」が生まれたか、原因を見つけなければならない。琉球王国時代の沖縄には自決する思想はなく、「命どぅ宝」といってどんなに困難な状態に陥っても生き抜くという生への思想があった。「イチカリールエエダー イチケー(生きられるだけ生き抜け)」という生への執着が沖縄の思想だった。

 明治時代の沖縄は自決するという思想を否定する思想であった。それなのに沖縄戦では集団自決をしたのである。軍命令がなかったのにだ。沖縄には元々は自決の思想がなかったし、沖縄戦では軍命令もなかったのに集団自決をした。その原因は明治から沖縄戦までの間に沖縄の思想を転換させたものがあったはずだ。それを解き明かさなければならない。
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