李容洙は慰安婦ではなかった妓生(韓国性奴隷)だった



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李容洙は慰安婦ではなかった妓生(韓国性奴隷)だった
11月13日、韓国の首都ソウルの裁判所で、元慰安婦を名乗る女性たちが日本政府を相手取って損害賠償を請求する訴訟が始まった。李容洙は(イ・ヨンス)その一人である。
李容洙は慰安婦ではなかった。彼女は慰安婦になったことを証言しているが、証言は逆に慰安婦ではなかったことを証明している。李の証言について産経新聞は主張する内容を変更していることから信憑性がないと指摘しているが、信憑性があるなしにかかわらず李容洙の証言すべてが彼女が慰安婦ではなかったことを明らかにしている。彼女の証言を列挙する。

1993年当時の李容洙の証言
「1944年夏のある日、酒屋をやっていた友達(キムプンスン)のお母さんが「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。それから何日かたったある日の明け方、キムプンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。~(中略)~行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。~(中略)~それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。」
2002年6月26日の証言「14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた」「拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけた」
2004年12月4日の証言「1944年、16歳の時に『軍服みたいな服を着た男』に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強姦される。台湾では、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた」
2006年10月13日の証言「15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間も慰安婦をさせられた」
2007年2月23日の証言「15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた」
2007年3月1日の証言「16歳のとき、台湾で特高隊員に口を塞がれて連れて行かれた」
2007年4月27日の証言「私は15歳の時に拉致された。まわりの女性は誰も売春婦のようにはお金をもらっていなかった」
2007年4月28日の証言「16歳の時に強制連行され、2年間日本兵の慰安婦をさせられた」「日本兵に足をメッタ切りにされ、電気による拷問を受けた」
2007年6月14日の証言「15歳の時、両親のもとから連れ去られ、台湾の特攻隊の慰安所に送られた」「台湾の慰安所で、『言うことを聞いたら、お父さんお母さんにまた会わせてやる』と言われ、されるがままになりました。ひどいことをされ、腹膜炎になりました。」
2007年の証言「1944年10月、夕方に家の外に出てからわけも分からないまま台湾にある日本軍慰安所までつれて行かれた」「強要に負けて‘一日に少なくとも20人、多くは70人の日本軍に性暴行にあって‘生理中にも日本軍を受けるとしたし、要求を拒否でもすれば刀でぐいぐい裂く残忍な暴力と殺しまであわなければならなかった被害者たちに自分の考えで身を売ったという意味を持つ‘慰安婦’という呼称は当然しない」
2011年12月13日の証言「15歳の時に台湾の神風部隊に連れて行かれあらゆる拷問に遭いほとんど死ぬところだった。一緒に連れて行かれた他の女性2人は死んだ。」
2012年9月12日の証言「15歳のときに、自宅で寝ていたところを日本軍によって連行されました。帰りたいと言うと「言うことをきかなければ殺す」と脅され、軍靴や棒で顔や体に暴力を受けました。各地を日本軍とともに転々とし、17歳で父母の元に帰るも、「また捕まるのではないかと思うと、顔を上げて歩けない。誰にも話せなかった」
2012年9月の証言「1944年、16歳の時に台湾の新竹にある慰安所へ。生理の時も強姦された」

 慰安婦になるには17歳以上で自分の意思で慰安婦になることに同意し、両親が許可したことを書いた書類を日本軍に提出しなければならない。この書類を提出しない限り慰安婦にはなれない。李容洙(は一度も書類を提出した証言をしていない。
 日本軍占領中のインドネシアの捕虜収容所で、オランダ人女性を慰安婦にさせ、監禁・強姦したといわれた事件があった。抑留所から17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的に集め、慰安婦させたが、その時に日本語で書いた慰安婦に同意する趣旨書への署名を強制したのである。日本語を読めない女性たちは内容を知らずにサインをした。それは明らかな違法行為である。
 自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により16軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。例え捕虜であっても慰安婦になることを強制してはならないのが日本軍の規則であった。慰安婦になることに同意した女性だけを慰安婦することが決まりであった。
 韓国の民間人であった李容洙が慰安婦になるには自分の意思で決めることができた。慰安婦になりたくなければ慰安婦にならなくてよかった。李容洙が慰安婦になったのは自分の意思とは関係なく連れ去られたからだと証言している。誘拐されたかそれとも李容洙の知らないうちに親に売られたかのどちらかで慰安婦になったのである。そんな慰安婦は日本軍の慰安所にはいない。慰安婦には必ず報酬があるが李容洙はなかったという。彼女は紛れもなく韓国性奴隷の妓生である。絶対に慰安婦ではない。

 慰安婦であるか否かの見分けは単純明快である。慰安婦になることを承諾する書類を日本軍に提出したこと、慰安婦としての報酬があったことである。。
日本の慰安婦裁判で、元慰安婦を名乗る女性たちに同意書類提出の有無と報酬の有無を追及すれば彼女たちが慰安婦でなかったことが明らかになり、決着が簡単についていただろう。
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