キューバ危機と沖縄

 


書店発売のお知らせとお詫び
発売日
A4版「沖縄内なる民主主義」(600円税抜)は2月3日(火曜日)、県内書店で発売します。
お詫び
「かみつく」から「沖縄民主主義4」に改名しましたが、勝手ながら、さらに普及版としてA4版「沖縄内なる民主主義4」にしました。
狼魔人日記でネット発売
書店ではA4版「沖縄内なる民主主義」(600円税抜)のみの発売ですが、狼魔人日記ではA5版の「沖縄民主主義4」も600円で発売します。ご了承お願いします。


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キューバ危機と沖縄
 


キューバ危機
キューバを舞台に、一九六二年一〇月一四日から二十八日までの14日間に亘って米ソ間の冷戦の緊張が、核戦争寸前まで達した危機的な状況のことである。

キューバ危機が起こったのは私が中学二年生の時である。第三次世界大戦に発展するかも知れないキューバ危機の情報に私は戦々恐々としていた。
小学一、二年生の頃から第三次世界大戦は核戦争になり人類は滅ぶと聞いていた。それだけではない。もし、戦争が起こったら核爆弾を貯蔵している嘉手納弾薬庫が真っ先に攻撃されて沖縄は一瞬の内になくなってしまうと聞かされていた。嘉手納弾薬庫は毎日見ている山であり、身近な存在であった。
もし、明日世界大戦になったらなにをしたいかという話を子供の間で話し合ったこともあった。
第三次世界大戦を描いたSF小説もあり、第三時世界大戦、核戦争、沖縄島の消滅、そして自分の死は私のトラウマとなっていた。核戦争が起こり、各セルターに避難した人たちが生き延びて、廃墟となった地上に出て生活するSF小説を読んだ私は、中学三年生の時の弁論大会で、もし第三次世界大戦が起こったら、人間のいない廃墟の世界で生きるのは詰まらないから私は生き残りたくないと意見を述べた。SFかぶれの私が変なことを弁論していると他の生徒は思っただろう。
私にとってキューバ危機は核戦争がSFの世界ではなく現実に起こる可能性があることを予感させるものであった。
キューバ危機はキューバ革命から始まった米国とキューバの対立が原因である。

キューバ革命
フィデル・カストロ、チェ・ゲバラらが中心となって、アメリカ合衆国の影響が強かったフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒するに至った武装解放闘争のことを指す。
アメリカ合衆国からの支援、庇護をうけた軍事政権への反発は既に一九五〇年代前半よりみられており、一九五三年にもカストロらは蜂起していたが、この頃は革命勢力の結束が弱く失敗に終わった。

一九五八年になると反政府各派の共同戦線が結束され、一九五九年一月一日にハバナ占領を果たして革命政権が成立した。キューバ革命は、当初より社会主義革命を志向したわけではなく、政権獲得直後にはアメリカ合衆国との関係継続を目論んだ交渉も模索していた。

戦後資本主義国米国が最も恐れていたのが社会主義の台頭であった。一九〇七年にロシア革命が起こったが、戦後にスターリンがソ連を拡大していくと同時にアジアの独裁国家が次々と社会主義国家になっていった。
社会主義国家は労働者階級のための国家であり、資本家が労働者を搾取している資本主義国家の次の国家だという理論があり、労働者や農民の支持を集めた社会主義はどんどん広がっていった。資本主義を否定する社会主義を米国は最も恐れていたが、その時に起こったのがキューバ革命であった。
ドワイト・D・アイゼンハワー大統領と、その後を一九六〇年に継いだジョン・F・ケネディ大統領は米国支援の軍事政権を倒したカストロら新政府を「容共」であるとみなし、カイトロ政権を打倒すべくピッグス湾事件を起こした。

ピッグス湾事件
一九六一年に在米亡命キューバ人部隊「反革命傭兵軍」がアメリカ合衆国の支援の下で、フィデル・カストロによる革命政権の打倒と傀儡政権の再興を試みた事件。ジョン・F・ケネディ大統領の承認を経て一九六一年四月一五日に侵攻が開始されたが、東側諸国の援助を受けたキューバ軍は三日間の戦いで撃退に成功した。この事件の直後、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言。ソビエト連邦への接近を強めた結果、翌一九六二年にはキューバ危機が起きることになる。
ピッグス湾とは侵攻が行われた地名(コチーノ、スペイン語で豚の意)を英訳したものであるが、キューバをはじめとする中南米諸国においてはプラヤ・ヒロン侵攻事件と呼ばれる。
ピッグス湾事件をきっかけにキューバはアメリカ合衆国との関係回復が不可能であると判断すると、ソ連への接近を鮮明にし、一九六一年に社会主義宣言を示して、キューバ革命を社会主義革命として位置づけた。
一九六一年は終戦からまだ十五年しか経過していない。武力による革命の多くは社会主義国家になっていったからキューバも社会主義国家になるだろうとケネディ大統領は早計してしまった。社会主義を敵視しているケネディ大統領がキューバ叩きをやったためにキューバは社会主義国家になったと言える。キューバ危機を招いたのはケネディ大統領自身であった。

キューバ革命への道
前史
フルヘンシオ・バティスタ一八九八年に起きた米西戦争でスペインに勝利したアメリカ合衆国は、同年のパリ条約でキューバ独立をスペインに認めさせた。しかし、一九〇一年のプラット条項によってキューバを事実上の保護国とすると、その後もたびたび内政干渉を繰り返した。

この様な状況下で、一九〇三年二月二三日にグアンタナモがアメリカの軍事基地となリ、「アメリカ合衆国の裏庭」と化していたカリブ海においてキューバは戦略的に重要な位置を占めていた。さらに、アメリカへの経済的従属も進み、砂糖やバナナなどの商品作物の供給地として必要不可欠な島となっていった。

一九三四年にフランクリン・ルーズベルト大統領のもとでプラット条項は廃されたが、アメリカは親米政権をキューバにおいて維持させることを国是としており、活発な投資活動が続いていた。さらに第二次世界大戦ではグアンタナモ基地がドイツの潜水艦に対する基地として活用されるなど、軍事的にもキューバはアメリカと切っても切れない関係となっていった。

こうした中、第二次世界大戦後の一九五二年に軍事クーデターによって政権を獲得したフルヘンシオ・バティスタも、これまでの政権同様に親米政策をとりアメリカからの援助をうけつつ独裁体制の強化を図ったが、共産主義の影響を受けた学生組織や左翼組織による反バティスタ運動が高揚していた。

反乱
モンカダ兵営で逮捕されたカストロ一九五三年七月二六日、若者を主体とする一一九人の反バティスタグループが、オリエンテ州(当時)のサンチアゴ・デ・キューバにあるモンカダ兵営を攻撃した。しかし、僅かなミスから奇襲は失敗し、政府軍に包囲されてしまう。彼らの一部はその戦闘で死亡し、生存者も程なくして逮捕されたが、政府軍は逮捕者の多くを見せしめとして虐殺した。

しかし、弁護士フィデル・カストロとその弟ラウル・カストロらのリーダー格は、高度に政治的な裁判にかけられた。フィデル・カストロは裁判上で「歴史が私に無罪を宣告するであろう」と演説を展開したが、判決では一五年の刑期が宣告された。

ほかの者も一様に長い刑期を宣告されピノス島(現・青年の島)にあるモデロ刑務所に収監された。一九五五年の選挙の後、五月にバティスタは恩赦でモンカダ兵営襲撃犯を含む政治犯をすべて解放した。

M26
カストロ兄弟は程なくメキシコに亡命、同じ境遇の追放キューバ人を糾合し、再度バティスタを倒すために戦う準備を行った。このときカストロが組織した集団はモンカダ襲撃の日を取って「七月二六日運動」(M26)と呼ばれる。

メキシコ潜伏中にカストロはアルゼンチン人で放浪好きな医者チェ・ゲバラに出会う。ゲバラは彼らの軍隊に加わった。メキシコでゲリラ戦の訓練を行った彼らは一九五六年一一月、現地調達した八人乗りのプレジャーボート「グランマ号」に、合計八二名で乗り込みメキシコを出発した。

カストロは、事前にキューバへ戻ることを公言していたため、祖国に上陸した途端、たちまちバティスタ軍に包囲され多くの仲間を失ってしまう。何名が生き残ったかに関しては論争となっているが、一二名を残して全てが上陸後の最初の戦闘で殺されるか捕らえられるかした。捕らえられたゲリラのうちの数人は特別裁判の後処刑された。カストロ兄弟及びゲバラは生存メンバーであった。残った一二人はキューバ東南部のマエストラ山脈に逃げ込みゲリラ活動を開始する。なお、彼らの上陸した場所の付近は当時オリエンテ州の一部であったが、後に「グランマ州」と名づけられた。

革命成功
一九五八年に革命軍は攻撃を始めた。彼らは「カラム」と呼ばれた二つの部隊に別れて進軍した。片方のカラムであるオリエンテ州(現在、サンチアゴ・デ・キューバ、グランマ、グアンタナモおよびオルギンの4州に分割されている)の四つの前線はフィデル・カストロ、ラウル・カストロおよびフアン・アルメイダによって指揮された。もう一方のカラムはチェ・ゲバラおよびカミロ・シエンフェゴスの指揮下にあり、西方と首都ハバナへ進軍した。

カミロはヤガイェイの戦いで大きな勝利を収め、ヤガイェイの英雄と呼ばれるようになった。またゲバラの部隊もサンタクララでの決戦で勝利を勝ち取った。この戦いはオリエント州軍への増援部隊と物資を載せた列車を停止させたことで有名である。ゲバラとカミロの部隊はハバナ入城時にコロンビア兵営(現在「シウダ・リベルタ( 自由都市)」と呼ばれる)とラ・カバナ(現在「モロ」と呼ばれる)を占領した。

政府軍の敗北が決定的となった一九五八年の一二月三一日夜、バティスタはコロンビア兵営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始め、日付の変わった一九五九年の元日、クバーナ航空機でキューバを脱出し、独裁者のラファエル・トルヒーヨ率いるドミニカ共和国へ亡命した。数時間後、政府軍の将軍カンティーヨが「臨時政府」の成立を宣言したが、カストロはこれを認めずカミロにハバナ突入を命じた。まもなくハバナは革命軍によって制圧され、八日にはカストロがハバナ入りし、名実ともに革命軍の勝利が確定した。

革命政権成立後ソ連との接近
ワシントンD.C.を訪れたカストロ(一九五九年四月)
キューバ革命はその当初より社会主義革命を目指したわけではなく、実際にカストロはアメリカとの友好的な関係を保持しようと試み、革命成功後ただちにアメリカを訪問している。しかし、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が冷戦下においてカストロ率いる革命政権を「社会主義的」、「容共的」と警戒して、ワシントンD.C.を訪れたカストロとの会談を拒否し、代わりにリチャード・ニクソン副大統領と短時間の会見をさせお茶を濁すなど距離を置く態度を取った。

これに対し革命政権側も、敵視するだけでなく革命後もキューバ経済を牛耳ろうとしていたアメリカ合衆国に対立姿勢を示し始め、同時にニキータ・フルシチョフ首相率いるソビエト連邦との接近を深めた。

アメリカとの対立
さらに、ユナイテッド・フルーツなどのアメリカ資本の支配下にあった農業の改革を目的に農地改革法を制定した他、アメリカ合衆国及び西側を中心とした諸外国の所有するキューバ国内における財産を一九六〇年八月六日に国有化するなど、結果的に社会主義的な政策を矢継ぎ早に導入することとなった。

こうした動きに対して、アメリカ合衆国は厳しい態度で臨んだ。アメリカは対抗策としてキューバとの通商停止(事実上の経済制裁)を行った。なおこの措置は、多くの財産を失った大企業やマフィア、そしてアメリカ国内の亡命キューバ人ロビーなどのアメリカ政府に対する圧力もあり、この措置は五〇年近く経った現在も継続されている。さらにアイゼンハワー大統領は、亡命キューバ人を組織、訓練して、この革命政権を打倒しようと図った。一九六一年よりアメリカ大統領になったジョン・F・ケネディは、この作戦を継承して、同年四月にピッグス湾事件を起こすが失敗に終わった。

これを受けて革命政権は、五月に社会主義宣言を発し、キューバ革命を「社会主義革命」として位置づけた。これ以降、ソ連や東ドイツ、ポーランドなどの東側諸国との関係は強化されることとなった。一九六四年一二月にはチェ・ゲバラが、国連総会でアメリカを非難しソ連の支援を求める演説を、合言葉“祖国か、死か!”の紹介と共に、主席として行なっている。

粛清
革命政権の粛清や、資本主義経済の放棄を嫌った人々はアメリカ合衆国に逃れたが、キューバ国内ではバティスタ政権下の警官及び兵士が、殺人と拷問を含む人権侵害及び戦争犯罪で裁判にかけられた。殺人で有罪判決を受けた者達五〇〇人以上のほとんどが銃殺され、残りは長い懲役刑を宣告され収監された。チェ・ゲバラはラ・カバナの最高検察官に任命された。これらはカストロによる反革命活動勢力、バティスタ忠誠者達を浄化する試みの一部であった。他に多くの者が警察及び軍から解任され、旧体制の数人の高官は追放された。これに加えて革命政府は反体制派の追放政策を行った。

彼らの多くは弁護士、目撃者および参加社会の人々(彼らの多くは検察官の求刑よりも重い刑を頻繁に要求し、しばしば残忍な要求を行った)を交えた裁判の後処刑された。更に超法規的な処刑も行われた。最も悪名高いものは、サンチアゴの占領後にラウル・カストロによって指揮されたバティスタ政権兵士の捕虜七〇名以上の処刑である。

一九六一年五月に、革命統一機構(ORI)はフィデル・カストロのM26、ブラス・ロカによって率いられた人民社会党(PSP, 旧キューバ共産党)、ファウレ・チョモーンによって率いられた三月一三日革命指令の合併によって形成された。一九六一年七月二六日、ORIはキューバ社会主義革命統一党(PURSC)になり、一九六五年一〇月一日にキューバ共産党と名称を変えフィデル・カストロが第一書記(党首に相当)に就任した。

キューバ危機への過程

米ソの核ミサイル配備
そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめた。しかしソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激し過ぎると考え、一九六二年には、ソ連は兵器の提供の代わりに核ミサイルをキューバ国内に配備する「アナディル作戦」を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承すると、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。 アナディル作戦の背景には、当時核ミサイルの攻撃能力で大幅な劣勢に立たされていたソ連がその不均衡を挽回する狙いがあった。 アメリカは本土にソ連を攻撃可能な大陸間弾道ミサイルを配備し、加えて西ヨーロッパ、トルコに中距離核ミサイルを配備していた。これに対し、ソ連の大陸間弾道ミサイルはまだ開発段階で、潜水艦・爆撃機による攻撃以外にアメリカ本土を直接攻撃する手段を持たなかったといわれる。 一九六二年七月から八月にかけて、ソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、アメリカ軍はキューバ近海を行き来する船舶や、キューバ国内に対する偵察飛行を強化していた。同年一〇月一四日にアメリカ空軍のロッキードU12偵察機が、アメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル (MRBM) の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル (IRBM) を発見した。

対立激化
これに対してアメリカ政府は激烈な反応を示し、ケネディ大統領はエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第一段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検を行うことでソ連船の入港を阻止しようとした(これに対してソ連船は海上封鎖を突破することはせず、また臨検を受けることをよしとせず引き返した)。そしてアメリカ政府はNATOや米州機構(OAS)の指導者たちに状況を説明し、彼らの支持を得た。

またケネディは一〇月一八日にアンドレイ・グロムイコ外務大臣とホワイトハウスで会見しソ連政府の対応を迫ったが、グロムイコはミサイルは防御用のものであると述べた。ケネディはこの時点ではアメリカの握っている証拠を明らかにせず、会談は物別れに終わった。 一〇月一九日にU‐2偵察機による決定的写真が撮影され、同盟国への説明が行われた。

ケネディは一〇月二二日午後七時の全米テレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。

アメリカ軍部隊の警戒態勢は、22日の大統領演説中にデフコン3となり、二六日午後一〇時にデフコン2となり準戦時体制が敷かれ、ソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソー、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置いた他、日本やトルコ、イギリスなどに駐留する基地を臨戦態勢に置いた。核爆弾を搭載したB-52戦略爆撃機やポラリス戦略ミサイル原子力潜水艦がソ連国境近くまで進出し戦争に備えた。また、ソ連も国内のR-7やキューバのR-12(英語版)を発射準備に入れた。

また、デフコン2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買いに殺到する事態が起きた。

交渉開始
その一方でアメリカはソ連に対しミサイル撤去交渉を開始する。際一〇月二五日の緊急国連安全保障理事会で、アメリカ国連大使のアドレー・スティーブンソンが、キューバのミサイル基地を撮影した写真を示し、核ミサイルの存在を認めるよう迫ったが、ソ連国連大使のワレリアン・ゾリンにはぐらかされる有名なやり取りは、当時の米ソ間の緊迫感を示している。

一〇月二六日にソ連からアメリカへ妥協案が示される。その内容は、アメリカがキューバに対する軍事行動をしないなら、キューバの核ミサイルを撤退させるというものだった。しかし、一〇月二七日に内容が変更され、トルコに配備されているジュピター・ミサイルの撤退を要求する。これは、アメリカにとって受け入れがたいものだった。

さらに二七日昼頃、キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜された。同日、アメリカ海軍は海上封鎖線上で、ソ連の潜水艦B-59に対し、その艦が核兵器(核魚雷)を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下した。攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだったが、ヴァシリー・アルヒーポフ(ロシア語版)の強い反対によって核戦争は回避された。この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれ、誰もが第三次世界大戦の勃発を覚悟した。

キューバ危機はワシントン時間一〇月二八日午前九時、ニキータ・フルシチョフ首相はモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表してキューバ危機は去った。


その後
その後キューバに対するアメリカの介入も減少し、冷戦体制は平和共存へと向かっていくことになる(米ソデタント)。この事件を教訓とし、首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に引かれた。一方、カストロは、米ソの頭越しの妥協に不快感を示し、ソ連への不信感をも募らせていくことになる(チェコ事件で和解)。カストロはその後ソ連に二回訪問し、フルシチョフと二人で事件について冷静に振り返っている。カストロは自らがアメリカを核攻撃をするようにソ連に迫ったことを記憶していないとしたが、フルシチョフは通訳の速記録まで持ってこさせて、カストロに核攻撃に関する自らの過去の発言を認めさせた。


冷戦後わかったことは、キューバ危機の時点でソ連はすでにキューバに核ミサイル(ワシントンを射程に置く中距離核弾頭ミサイルR12、R14、上陸軍をたたく戦術短距離核ミサイル「ルナ」)を九月中に四二基(核弾頭は一五〇発)配備済みであり、グアンタナモ米軍基地への核攻撃も準備済みであった。さらに臨検を受けた時には自爆するよう命じられたミサイル(核弾頭を取り外している)搭載船が封鎖線を目指していた為、アメリカによる臨検はほとんど効果がなかったことである。また兵士の数は米側の見積もりの数千名ではなく、四万名であった。カーチス・ルメイ空軍参謀総長をはじめとするアメリカ軍はその危険性に気付かず、圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。

もしフルシチョフの譲歩がなく、ルメイの主張通りミサイル基地を空爆していたら、残りの数十基のミサイルが発射され、世界は第三次世界大戦に突入していた可能性が高い。しかし実はこの時点でアメリカ軍にもソ連軍にも相手を壊滅させるほどの核兵器がなかった。そのため中距離ミサイルをアメリカ軍はトルコに、ソ連はキューバに配備した。

解決までの経緯
なぜソビエト連邦のフルシチョフがキューバからのミサイル撤退を受け入れたかについては様々な説がある。よく聞かれる説には次のようなものがある。

ワシントン時間一〇月二八日午前九時にケネディが緊急テレビ演説をするという情報がフルシチョフのもとに入った。そしてその演説に先立ってケネディは教会で礼拝をするという。開戦前のアメリカ大統領は開戦を告げる前に必ず礼拝に行くと聞いていたフルシチョフは、ケネディが開戦を決意したと勘違いしてミサイル撤退を決意した、というものである。

しかし、当時は情報機関の間では様々な不確実な情報が飛び交っており、ソ連のアレクサンダー・アレクセーエフ駐キューバ大使のところには「数時間以内にアメリカが武力侵攻するという確実な情報」が届けられ、これを知って激高したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫った。しかし、老練なフルシチョフは、この情報はアメリカの情報機関がソ連の情報機関に意図的に流したデマだとして取り合わなかった。ケネディが教会で礼拝をするという話を聞いてフルシチョフがあわててミサイル撤退を決意したなどというのは、ゴシップ誌の報道に過ぎず、むしろ敬虔なキリスト教徒が毎週日曜日に礼拝を行うのは当然の慣習である。

ケネディの側近だったセオドア・C・ソレンセンの著書「ケネディ」では、キューバ危機の米ソ対決が沈静化したのは、ロバート・ケネディ司法長官とアナトリー・ドブルイニン駐米大使が、ABCネットワークの記者ジョン・Å・スカリーの仲介で深夜のワシントン市内の公園で密かに会って話し合ったときであったことが記されている。その会談で実際にどのようなやり取りがなされたかは具体的には書かれていない。しかし、当時のソ連の権力機構から考えて、駐米大使に決定的な権限が与えられていたとは考えられず、会談の存在が事実だとしても、この会談が問題解決に決定的な役目を果たしたとは考えられない。

なお当時の両国の核戦力は、ソ連の核爆弾保有数三〇〇発に対してアメリカは五〇〇〇発と、ソ連は圧倒的に不利な状況であり、仮に両国の全面戦争という事態になればソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの敗北するのは決定的であった。第二次世界大戦時にドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフはこのことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが国際政治の現実であったと考えられている。実際にフルシチョフは「正直なところ、アメリカが戦争を開始しても、当時のわれわれにはアメリカに然るべき攻撃を加えられるだけの用意はなかった。とすると、われわれはヨーロッパで戦争を始めることを余儀なくされただろう。そうなったらむろん第三次世界大戦が始まっていたにちがいない」と後に回想している。その一方、フルシチョフとしては、キューバに対するアメリカの干渉を阻止したことで満足したとも考えられている。

この二年後にフルシチョフは失脚することになるが、フルシチョフが更迭された中央委員会総会では、キューバ危機におけるアメリカへの「譲歩」が非難されることになる。また、このキューバ危機を教訓として二つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。
フリー百科事典『ウィキペディア

 キューバ危機はケネディ大統領のキューバ叩きから始まり、ソ連との核戦争の危機が起こり、第三次世界大戦の可能性まで発展した。そんなとんでもない事態になるとはケネディ大統領は予想していなかっただろう。キューバ危機でソ連と敵対することに懲りたケネディ大統領は核戦争を避けるためにソ連とホットラインを設置して対話と政治交渉へと戦略を敵対から対話に大きく変えた。

キューバ危機と沖縄

大国同士の直接対立を痛感したケネディ大統領は、ソ連や中国とは友好関係を築きながら、一方では社会主義圏の拡大を阻止するための局地戦争をするようになる。ソ連も米国と同じ戦略を取ったために社会主義圏と資本主義圏の狭間で戦争が起こった。
大国とは政治交渉をやり一方で局地選をやる戦略を提案したのが若きキッシンジャー教授であった。キッシンジャーの戦略をケネディ大統領が採用して東アジアで始めたのがベトナム戦争であった。米政府首脳は最初は短期間に終わらす予定であったが、北ベトナムやベトコンは予想以上に強力であり、泥沼化していった。
国民の厭戦や経済危機に陥った米国はベトナムから撤退する。
ベトナム戦争をケネディ大統領が初め、ニクソン大統領が終わらしたのは有名な歴史事実であり、ケネディ大使も知っているはずである。

ケネディ大統領が始めた大国との対話と局地戦争戦略は現在まで続いている。だから沖縄の平和が守られているのである。

沖縄の米軍基地は社会主義国家と資本主義国家の対立なしには存在しない。資本主義国家は民主主義国家でもある。だから民主主義国家と社会主義国家の対立でもある。
沖縄の米軍基地を容認するかしないかは民主主義に賛同するか社会主義に賛同するかである。米軍基地を認めているのは民主主義に賛同する政治家・識者である。米軍基地に反対しているのは社会主義に賛同する政治家・識者である。

オスプレイは墜落する危険な飛行機。米軍基地があるから戦争に巻き込まれる。米兵は暴行魔、殺人鬼である。米兵がいるから女性は夜外を歩くこともできない。米軍基地があるから沖縄は戦争状態である。沖縄は軍事植民地である。米軍基地は自然を破壊している。辺野古に基地ができるとジュゴンやサンゴ礁、希少動物が被害を受ける・・・は米軍基地を沖縄から撤去させる口実である。

社会主義者である政治家・識者・活動家の反戦平和、自然保護、人権保護、民主主義運動は純真な沖縄県民を反米、反保守、反議会制民主主義へと巻き込むための大衆運動である。
彼らは本当の反戦平和運動家ではないし、人権活動家でもないし、自然保護運動家でもない。彼らは社会主義者である。彼らは反米主義、反保守主義、反議会制民主主義者である。
彼らの大衆運動は米軍基地を撤去させ、日本・沖縄を社会主義国家にするための手段としての運動である。



コンビニを初めて20年以上になる。コンビニの設備やシステムの発展はすごいものがある。政治や思想は遅々として進まないが、経済は確実に日進月歩している。コンビニをやっていると経済の発展を実感することができる。

最近導入したコーヒーメーカーである。なんとコーヒーの粉からコーヒーをつくるのだ。コンビニはできあがったものを即販売するスピードにある。弁当、あんまん肉まん、チキン、ポテトフライ等の揚げ物がそうである。ところがこのコーヒーはセットしてコーヒーができるまで数分かかる。今までのコンビニの理念とは違う商品である。時間がかかるから売れないだろうと思っていたが、以外にもこのコーヒーが結構売れている。売れる理由は「おいしい」からである。コンビニも「速さ」だけでなく「質」も求めるようになってきた。

このコーヒーを買うの若者ではなく中年の人たちである。先日の沖縄マラソンの時、私の店がマラソンコースになっていたので孫や子供を応援する年配の人が店にやって来て、このコーヒーを買っていった。暫くするとこのコーヒーを求める客がやってきた。「おいしい」と聞いてやってきたのだ。

そういえば年配のコンビニ客は以外と多い。原因のひとつに食事の問題がある。年配だから食事は少量である。家でつくるよりコンビニのファーストフードを利用したほうが楽である。三度の食事の中のひとつはコンビニを利用する年配の人は多い。
コンビニのサンドイッチを買う年配の人は多い。年配の人ならサンドイッチよりおにぎりを買うだろうと思うだろうが実際はそうではない。サンドイッチの方を買う。逆におにぎりを買うのは若い人が多い。
それもまたそれなりの理由がある。
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