日本が二大政党にならない原因その1の5共産党は中途半端な政党


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日本が二大政党にならない原因その1の5共産党は中途半端な政党

 日本共産党成立と歴史をたどっていけば、共産党は革命を目指した政党ではなく革命を夢見た政党であることが分かる。
 1915年にロシア革命が起こり、共産党一党独裁の社会主義国家が誕生した。ロシアの社会主義国家を理想の国家であると信じて結成したのが日本共産党である。日本社会の矛盾に苦しむ労働者が立ち上がり結集してつくりあげた政党ではない。ロシア革命によって理想国家が誕生したと信じた知的な人物たちが結集して立ち上げたのが日本共産党である。彼らはロシア革命によって設立したソ連は労働者、人民が解放され自由な社会になったと信じ、ソ連へあこがれたのである。
 ソ連を理想の国と信じて亡命した女優がいた。映画演劇ファンを熱狂させた大女優岡田嘉子である。日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、岡田嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。プロレタリア運動に関わった共産主義者の演出家杉本良吉と激しい恋におちた嘉子は二人でソ連への亡命を決意した。1937年(昭和12年)暮れの12月27日、二人は上野駅を出発。北海道を経て翌1938年(昭和13年)1月3日、2人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境した。駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。
 命がけで亡命した嘉子であったが、ソ連は彼女が予想していた国ではなかった。不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離されGPU(後の KGB)の取調べを経て、別々の独房に入れられた。2人はその後二度と会う事は無かった。
 二人はスパイとして疑われた。1939年、裁判が行われ、岡田は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された。杉本は容疑を全面的に否認、無罪を主張したが、銃殺刑の判決が下された。10月20日、杉本は処刑された。杉本の銃殺は嘉子の晩年になってようやく明らかになった。ずっと「獄中で病死」とされていた。
 日本で憧れていたソ連と現実のソ連には雲泥の差があった。この事実を日本では誰も知らなかった。日本共産党はソ連の現実を知らなかったのである。知識人の集まりである日本共産党の革命論は中途半端であった。革命とは暴力で国家を倒し、新しい体制にするということである。もし、昭和の時代に革命を起こすなら天皇だけでなく帝国議会、政府、軍部を武力で倒して共産党一党独裁国家にしなければならない。それには労働者を組織して武力闘争ができる組織をつくらなければならない。ところが共産党は暴力組織をつくるのではなく帝国議会の議員になることを目指した。議員には暴力革命を起こせない。そもそも社会主義国家は共産党一党独裁であるから選挙による議会を否定している。ソ連には議会はなかった。一党独裁を目指しているのに帝国議会の議員になるというのは暴力革命を目指していないことになる。共産主義として中途半端である。
 社会主義国家に憧れながら暴力革命を真剣に追及しなかったのが日本共産党である。社会主義国家を目指したというより社会主義国家を夢見ていたといったほうが正しい。
 戦前に社会主義国家ソ連を夢見た日本共産党は戦後には暴力革命を夢見た。
 1951年10月、共産党は、武装闘争路線、暴力革命路線に転換し「軍事方針」を採択した[。この武装方針に沿って、練馬事件、白鳥事件、血のメーデー事件、火炎瓶事件など多数の武装闘争・騒乱などの非合法活動を起こした。
練馬事件、
1951年12月26日午後10時20分頃、警視庁練馬警察署旭町駐在所に「行き倒れがある」との連絡があり、同所勤務の巡査(当時33歳)が現場に向かったが、それ以来連絡が途絶えた。3時間経っても連絡が無い事を不審に思った巡査の妻が旭町駐在所から最寄の田柄駐在所に連絡し警察官と共に巡査の行方を追ったところ、翌朝7時頃に、旭町の畑道の脇で撲殺された巡査が発見された。遺体からは拳銃が奪われていた。

警察は、同巡査が管内の製紙会社における労働争議の際に組合員の不法行為に対する検挙をおこなったことへの報復だと考え、首謀者と目された日本共産党北部地区軍事委員長(当時26歳)や製紙会社の組合員、学生、労務者ら11人を逮捕した。その後の調べで、首謀者の指示により他の10人が手分けして巡査をおびきだし、行き倒れを装って畑に横たわっていた1人を巡査が介抱しようとしたところに集団で襲い掛かり、古鉄管や棒杭などで殴りつけ死亡させたことが判明した。東京地検は強盗致死罪、傷害致死罪、暴力行為処罰法違反で11人を起訴した。

白鳥事件
 1952年1月21日夜,札幌市警察本部警備課長の白鳥一雄警部が自転車で帰宅途中,後方から自転車で追ってきた男にピストルで射殺された事件。警察は日本共産党関係者の犯行と断定して,同党札幌市委員会委員長の村上国治らを逮捕,札幌地方検察庁も55年8月,村上とほか2人を殺人の共謀共同正犯として起訴した。



暴力革命とは暴力で警察権力を倒すことである。警察全体を倒すことができなければならない。
毛沢東は大地主から土地を没収し農民与えた。農民を解放したので農民の支持が拡大していって革命に成功した。日本共産党は毛沢東革命路線を日本で実行したつもりでいた。しかし、戦後の日本はすでに大地主制度は廃止され、土地は小作農の私有地になっていた。日本では毛沢東の農民革命はすでに終わっていたのだ。その事実を共産党は認識していなかったのである。現実認識がお粗末である。
時代遅れの武装闘争は当然のことながら国民の支持を得られなかった。毛沢東の革命時代と戦後の日本の違いを認識できなかったのが日本共産党である。毛沢東の革命に憧れ、夢見て暴力革命のつもりで子供じみた暴力事件を起こした日本共産党であった。暴力革命を諦めた日本共産党は議会制民主主義国家である日本でわけのわからない民主主義革命という新たな夢見る路線を考え出した。

共産党は衆参議員選挙、全国の自治体の首長、議員選挙に多くの立候補を出している。共産党は議会で過半数確保を目指している。しかし、議会を過半数確保しても民主主義革命を達成することができないの明らかである。
共産党の目指す民主主義革命は自民党を議会から抹殺することである。議会の過半数を制して共産党の政策を実施するのが目的であるなら「革命」をする必要はない。「革命」を入れてあるのは資本主義を容認している自民党を議会から排除するのが目的だからだ。しかし、特定の政党を排除することはできない。憲法の精神に反する。議会を制することで民主主義革命ができると信じている共産党である。それは不可能である。夢である。
衆議員465人のうち共産党議員はわずか12人である。圧倒的に少ない。民主主義革命どころか過半数確保さえ夢のまた夢である。共産党の唱える民主主義革命は1951年の武装闘争と同じである。現実を正しく認識できないで夢を見ているだけである。

革命は国民の支持、参加なしには実現できない。共産党も同じ考えである。選挙を通じて共産党支持者を増やしていき過半数の議席を確保すれば民主主義革命への展望が開かれると信じている。しかし、共産党以外の政党は議会制民主主義国家を認めている。民主主義革命を目指していない。民主主義国家で民主主義革命をするという理屈がおかしい。戦後の国民主権、選挙制度、三権分立で日本の民主主義革命は実現し、日本は民主主義国家になっている。だから、自由民主党、立憲民主党、国民民主党、社会民主党と「民主」を党名に入れている。いれていないのは維新の会と共産党である。維新の会は議会制民主主義を認めているから他の政党と同じである。共産党が「民主」を入れていない理由は共産党は民主主義ではなく社会主義だからである。議会制を否定しながら議会に参加している中途半端な政党が共産党である。

議会で過半数を確保するために合流と離反を繰り返すのが政党である。与党を目指している立憲民主党の枝野代表は国民党、社民党と合流した。しかし、共産党とは合流しなかった。共産党から共闘の提案をされたが共闘を避けた。共産党とは選挙協力はしても共闘はしない。共産党が社会主義イデオロギーに固執していることを知っているからだ。国会で共産党と共闘する政党はない。共産党の政策を実現するには共産党単独で過半数を確保しなければならない。夢のまた夢である。
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