記事のタイトルを入力してください(必須)




新発売・沖縄内なる民主主義11 A5版  定価1512円(税込み)
新発売・おっかあを殺したのは俺じゃねえ A5版  定価1458円(税込み)

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
キャンプ・シュワブ前県民集会の糸数慶子参議員を批判する


糸数慶子参議員は読谷高校出身である。私も読谷高校出身で彼女の一期後輩である。美人であったから彼女のことを覚えている。同級生によると彼女は生徒会の副会長だったらしい。彼女が副会長であったことは覚えていない。ただ、彼女が美人であったことを覚えている。

それにしても読谷村はすごいと思う。嘉手納町、北谷町、沖縄市など読谷村以外に多くの市町村があるのに読谷村から参議員を出したのである。参議員になったのは彼女だけではない。山内徳心氏も参議員であった。彼は私が読谷高校の生徒であった時に教諭であった。
糸数慶子参議員は読谷高校の一期先輩であり、山内徳心氏は教諭であった。そして、日の丸焼却で脚光を浴びた知花昌一は同級生である。読谷村が左翼の村と呼ばれているのも納得である。しかし、読谷村で生まれ育った私には左翼の村と呼ばれるだけでは不満である。読谷村には沖縄の歴史に残る政治家が二人いた。比嘉秀平氏と屋良朝苗氏である。比嘉秀平氏は沖縄人として歴史上最初の沖縄人首長であった。また、屋良朝苗氏は沖縄の歴史で最初に選挙で選ばれた首長である。

あなたは屋良朝苗を知っていると思うが比嘉秀平という人を知らないと思う。比嘉秀平氏は沖縄が本土復帰する前の米民政府統治時代に琉球政府の初代主席になった人である。戦前は中央政府から沖縄の知事は派遣されていた。だから。戦前までは沖縄の首長は沖縄人ではなかった。沖縄人の最初の首長は琉球政府の初代主席である比嘉秀平氏である。民政府が任命したとはいえ彼が沖縄人として最初の首長である。彼は歴史的人物なのだ。
私は小学生の頃から比嘉秀平氏のことを知っていた。彼は読谷村の大木という字の出身であるが、私が通っていた古堅小学校は大木の西側にあり、大木は通学路になっていた。その大木の出身で琉球政府の主席になった比嘉秀平氏のことは何度も聞かされた。それに彼は子どもの頃に右腕を失った人である。そんな右腕のない人が沖縄のトップの政治家になったのである。大木の人々にとって彼は誇りであった。
比嘉秀平氏の経歴
沖縄県中頭郡読谷村大木生まれ。小学校時代に事故で右腕を失うも、勉学に励み、1925年(大正14年)早稲田大学文学部英文学科を卒業する。
和歌山県の高野山中学校に勤務後、約20年間の教員生活を送り、母校である沖縄県立第二中学校の教諭及び沖縄県立第三中学校の教頭を務める。
沖縄戦では県立第三中学校の学徒隊を率いたが生還。終戦後、沖縄民政府に採用されて、翻訳課長や官房長などを歴任した。
その行政手腕と英語での意思疎通ができることを買われて、1950年(昭和25年)に設けられた臨時琉球諮詢委員会委員長を務めた。1951年(昭和26年)4月に琉球臨時中央政府行政主席に就任。翌年、琉球政府が樹立され、初代行政主席に就任した。
主席在任中に軍用地問題が起き、その解決に追われる中、急死する。没後に勲三等瑞宝章を受章。

 1945年から50年までは軍政府が沖縄を統治していたが、50年からは米政府によって設立した民政府が統治するようになる。沖縄を統治した民政府は正式には米民政府という。なぜか米を抜いて民政府と呼んでいる。共産党など革新は米軍が支配しているイメージを持たすために故意に復帰前は軍政府が統治していたように言うがそれは間違っている。軍政府ではなく民政府である。民政府を軍の組織であるように言う政治家や識者がいるがそれも間違いである。米国は議会制民主主義国家であり、米軍は大統領のシビリアンコントロール下にある。米国では米軍が政治に携わることは禁じられている。沖縄の政治的な統治は米国政府が行ったのであり米軍が統治してはいなかった。私たちはこのことを認識するべきである。 
民政府は沖縄に立法院、裁判所、琉球政府を樹立して三権分立の社会をつくり、比嘉秀平氏を琉球政府の行政主席に任命したのである。民政府が目指したのは米軍が沖縄に駐留し続けることと同時に沖縄の政治・経済の発展と自立であった。琉球銀行や琉球大学などを設立して沖縄の政治・経済の自立を目指して指導をした。それに対して沖縄は米国の軍事植民地であると決めつけて反基地運動に徹底したのが共産党である。

比嘉秀平氏が沖縄人で最初の首長であるが、最初に選挙で選ばれた首長が屋良朝苗氏である。彼も読谷村出身である。読谷村から歴史的な首長が出たのはすごい。比嘉秀平氏は教員出身であるが屋良朝苗氏も教員出身である。

屋良 朝苗(1902年12月13日―1997年2月14日)
琉球政府および沖縄県の政治家、教育者。1968年11月より唯一の公選行政主席として沖縄の日本復帰までその職にあり、復帰後は沖縄県知事を2期務めた。

1902年(明治35年)12月13日に沖縄県中頭郡読谷村に生まれる。1930年(昭和5年)に広島高等師範学校(現在の広島大学)を卒業する。その後沖縄県立女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校、台北第一師範学校、州立台南二中などで教職を勤めた。
沖縄戦後、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会長などを歴任の後、1968年の行政主席選挙では革新共同候補として立候補し、保守系の西銘順治との選挙になったが、本土への早期復帰を訴えた屋良が当選し第5代行政主席に就任する。
行政主席在任中は、復帰を円滑に進めるために日米両政府の折衝などを進めていったが、その道のりは険しく、苦渋に満ちた表情をすることが多くなり、いつしか「縦しわの屋良」と呼ばれるようになった。復帰後の1972年沖縄県知事選挙で再選。1976年(昭和51年)まで、沖縄県知事として在任した。沖縄返還式典で、一部県民や活動家の反対を押し切り、天皇陛下万歳を三唱した事は一部で物議をかもした。同年の選挙にも出馬を要請されたが、本人は固辞し退任した。

比嘉秀平氏も屋良朝苗氏も教員であったが、教員だから左翼というのではない。教員出身が主席になったのは戦前の社会状況による。
明治維新で政府は四民平等を宣言したが、琉球王朝時代の影響が強い沖縄が四民平等の社会になるのは難しかった。企業を起こすのは財産があり教養もある元武士階級の層であったから、社会的地位の高いのも元武士階級の人間たちであった。農民などの身分が低く貧しい者が社会で出世するのは困難だった。しかし、軍隊と教員などの公務員は政府直属の組織であり、国が掲げる四民平等の実力主義が適用された世界であった。実力があれば出世できたのが軍隊と公務員、教員だったのである。
比嘉氏と屋良氏は貧しい家庭に生まれながら努力と実力で教育という実力主義の世界で出世したのである。彼らの実力は戦後になると民政府や沖縄の人民に認められたのである。彼らはその実力で沖縄の首長になったのである。
読谷村から二人の参議員が出るのも、また左翼の村として根強いのも比嘉秀平氏と屋良朝苗氏の存在があったからではないだろうか。

糸数慶子参議員は共産党員でもないし社民党でもない。社大党員である。

社大党は1950年10月31日、沖縄群島知事の平良辰雄と兼次佐一らによって結成された。当初は比嘉秀平(後の行政主席)や西銘順治(後の沖縄県知事)などの保守系政治家も在籍しており、幅広い階層からの支持を受けていた。社大党は沖縄で生まれた沖縄独自の政党である。読谷村は社大党支持者が多いらしい。社大党は復帰前は大きな勢力であったが、復帰すると社大党の多くの政治家が旧社会党に移り、党員は少なくなっていった。社大党は地元政党であるがゆえに共産党や旧社会党のようには左翼性は強くない。米軍に対しても反対一辺倒ではなく、時には妥協もするケースバイケースの政治をやる。読谷村の政治がそうである。キャンプ・キンザの倉庫を読谷村のトリイステーションへの要望があった時に、元共産党の後輩の村議員は反対したらしいが、村長は移設を容認した。それが読谷村であり、共産党や社民党とは違うところがある。

社大党は左翼政党として活動しているが、政党としての強烈な個性はない。

糸数慶子についてグーグルで探すとウィキペティアに彼女の紹介が詳しく載っていた。「来歴・人物」の初めの方に

1947年沖縄県中頭郡読谷村生まれ。米軍統治下で育ち、米軍基地・読谷補助飛行場で実施されたパラシュート演習で投下されたトレーラーに小学生の少女が圧殺された事件(1965年6月11日)をきっかけにはじまった米軍抗議集会に初参加。

と書いてあった。糸数慶子参議員が高校3年生で私が2年生の時である。私も米軍抗議集会に参加した。
読谷飛行場は飛行場としては使用しないで米軍のパラシュート訓練に使用していた。朝学校に行く時に、読谷飛行場の上空に大型の飛行機が飛び、次々と米兵がパラシュート降下をしていた。まるで映画のような情景だった。天気のいい日は毎日その情景を見ながら学校に行った。
65年の事故は、演習中の米軍輸送機Cー130から投下されたトレーラーが、落下地点の読谷飛行場からはずれて住宅地に落ち、自宅の近くにいた同村字親志の棚原隆子ちゃん(当時喜友名小学校5年生)の上に落ち、圧しつぶして死亡させた。私はトレーラーのパラシュート降下訓練をしていたことに驚いたが、隆子ちゃんの死は事故であり、このような事故が起こらないように米軍はやるべきであると考えたが米軍非難する気持ちはなかった。だから抗議集会に参加したい気持ちはなかったが、読谷高校の生徒は全員参加するように学校から指示があり、回りの生徒も参加に積極的だったので私も参加した。米軍基地非難だけに徹している演説に、世界情勢を知らない、心の狭い大人たちだと思い、あきれた。

糸数参議員は米軍抗議集会に参加してから米軍について考えるようになったのだろうか。そして、隆子ちゃんを圧殺する米軍に反発し、米軍は沖縄から撤去するべきであると考えるようになったのだろうか。もし、そうであれば私と糸数参議員とは米軍に対する考えが根本的に違う。
隆子圧殺にショックを受けて米軍基地はないほうがいいと思うのは純真である。しかし、米軍が沖縄に駐留しているのには政治的な理由がある。そのことを知らないで隆子ちゃん圧殺への純真な気持ちだけで米軍基地に反対するのは純真であると同時に無知である。米軍基地については世界情勢を知った上で考えるべきである。

私は小学生の時に、もし第3次世界大戦が起こると核爆弾を貯蔵している沖縄は真っ先に攻撃されるということを信じていた。だから、第3次世界大戦が起これば死ぬと信じていた。中学一年生の時にキューバ危機が起こった。テレビがなかったから親子ラジオを聞きながら私は第3次世界大戦が起こるかも知れないと恐怖した。キューバ危機が回避された時はほっとしたものである。
第3次世界大戦=核戦争が起こったことを書いたSF小説を読んだ。小説では核シェルターで生き延びた家族が地上に出ると、街は廃墟になり人間も動物も全ての生き物が絶滅していた。私は核シェルターで生き延びて生き物が絶滅した世界で生きるより死んだ方がいいと考えるようになり、中学3年生の時の学内弁論大会で第3次世界大戦=核戦争が起こったら死んだ方がいいというような弁論をやった。先生や生徒たちにはSF小説にのめり込んだ被害妄想の生徒だと思われたと思う。高校生になったら世界情勢を気にするようになった。
朝鮮戦争は北朝鮮が南朝鮮襲撃が原因だった。ドイツは東と西に分断し緊張状態が続いていた。ソ連、中国の社会主義国家と米国、ヨーロッパの国々の民主主義国家の対立があり、戦争はこの対立が原因であることを知っていた。金門海峡を挟んで中国と台湾の対立があったし、フィリピンでは共産ゲリラの襲撃が続いていた。台湾にしろフィリピンにしろ米軍が応援しなければ共産主義に侵略されるだろうと私は思っていた。 
ベトナム戦争でもし米軍が負けた時、沖縄は攻撃されるだろうかどうかを考えたこともあった。沖縄に強い米軍が駐留していれば沖縄が攻撃されることはないが、米軍が駐留していなければ中国などの国に攻撃されて占領されるというのが高校生の時の私の考えだった。
私は米軍の沖縄駐留に賛成だった。だから、トレーラー圧殺事故で,抗議を受けたアメリカ民政府のフライマス渉外局長は、交通事故と同じだと言い、沖縄紙はそれを開き直りであり、県民の怒りはさらに増大したと書いてあったが、私はフライマス渉外局長と同じ考えだった。米軍は同じ事故を起こさないように訓練のやり方を変更し、事故が起こらないように努力するべきであるとは思ったが米軍に対する怒りも米軍基地は撤去するべきであるという考えも私にはなかった。
私のように第3次世界大戦を恐れ、社会主義国家による攻撃は米軍が居るから防いでいるのだと考えていない人たちはトレーラー圧殺事故で米軍に反発し、基地被害をなくすために米軍基地は撤去したほうがいいと考えただろう。糸数参議員もその中の一人だろう。
戦争被害と基地被害には雲泥の差がある。沖縄戦ではわずか数か月で10万人の人が死んだ。しかし、基地被害では一年間で一人死ぬかどうかである。戦争被害と基地被害を同じように考えることは間違っている。基地被害を理由に米軍基地撤去を主張する人を私は世界情勢を知らない浅はかな連中だと思っていた。今でもそのように思っている。
しかし、辺野古基地建設に反対している現在の糸数参議員はは浅はかではない。むしろ、狡猾である。世界情勢を考えていないのは同じであるが、辺野古基地建設反対を正当化するために悪知恵を使っている。米軍基地撤去は純真な気持ちから始まったかもしれない。しかし、辺野古基地建設は普天間飛行場の移設が目的であり、街のど真ん中にある普天間飛行場を辺野古に移設するのは米軍基地問題以前に宜野湾市民の生命の危険や騒音被害を解消するのが目的であるから人権保護の問題であって米軍基地被害の問題とは違う。それなのに糸数参議員は宜野湾市民人権については無視し、辺野古移設は米軍基地強化が目的であると主張している。また、辺野古基地建設は大浦湾の自然を破壊すると言っている。しかし、大浦湾の一部を埋め立てるのであって大浦湾を埋め立てるのではない。埋め立てるときは土砂が大浦湾に出ないようにするから大浦湾を汚染することもない。
糸数参議員は嘘の情報を流し、嘘の情報を根拠に辺野古基地建設に反対している。辺野古基地建設に反対するのはいいが、反対を正当化するために嘘をつくのは間違っている。
純真な気持ちから米軍基地反対に立ち上がった糸数参議員であるが、難しい政治の世界で純真を貫くために世界情勢に目をつむり、純真な気持ちを貫くために嘘つきになってしまっている。残念である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« キャンプ・シ... 香山リカがチ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。