島袋ヨシカズ名護市長選立候補決起体大会に行く




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辺野古移設を明言した島袋さんを
私は支持します。

辺野古移設問題は沖縄だけの問題ではありません。日本と沖縄だけの問題でもなければ日本、沖縄、米国だけの問題でもありません。アジアの国々全体の平和の問題なのです。
戦後68年間、米軍がいなくても平和だったと思うのは間違いです。米軍がいたから平和だったのです。
私が辺野古移設に賛成する理由

〇戦後68年間戦争がなかったのは米軍が駐留していたからだ。
〇米軍はアジアの民主主義国家の平和を守っている。 
〇沖縄に米軍のヘリコプター基地は必要
〇普天間飛行場の閉鎖・国外移設は不可能。
〇県外移設は不可能。
〇稲嶺名護市長は閉鎖・国外移設派である。
〇過半数の県民が県外移設を主張しているというのは真っ赤な嘘。
 沖縄タイムスの最近の世論調査です。
  国外移設・・・37・2%
  県外移設・・・33・4%
  閉鎖・・・15・4%
  県内移設・・・12・6%。
〇県外移設・閉鎖・国外移設の主張は普天間飛行場を固定化させるだけ。
〇オスプレイの民間機は沖縄の離島に大きく貢献する。

〇オスプレイは大統領護衛や記者たちを輸送している安全な飛行機である。
〇辺野古移設は北部の経済発展に大きく貢献する。
1 、飛行場建設工事は大規模であり多くの雇用が生まれます。
2 、辺野古に飛行場ができれば雇用が増えます。
3、 嘉手納飛行場を一望できる「道の駅かでな」は連日観光客で賑わっています。
  辺野古の飛行場を一望できる高台に道の駅をつくれば観光客や県内の人が飛行
  場を見物にやってきます。
  V字型滑走路、オスプレイは十分観光資源になれます。
4 、金武町、宜野座村、東村の東海岸が連携して辺野古飛行場を含めた観光コースをつく
  りアピールすれば北部東海岸の経済が発展します。
5、 将来、民間共用の飛行場にすればやんばるに直接観光客が呼べます。
6、 中国が民主主義国家になれば沖縄の米軍基地はなくなります。辺野古飛行場を民間
  飛行場にするのは将来可能です。
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■御知らせ■

基地統合縮小実現(辺野古移設を推進する)沖縄県民大会

自民党県連の迷走等で混乱状態にある基地移設問題ですが、マスコミや左翼勢力、公明党等の力を見誤り過大評価するところから生じているように感じます。
それならば、民間から健全な声を上げてまいりましょう。

私たち県民の会は、辺野古移設を推進する五万筆の署名を知事に提出し、「埋め立て承認申請書」の承認を迫ります。
沖縄県民の良識派が五万名の声を持って迫る歴史的な大会になります。

もちろん参加費、無料ですのでご参加下さい。

日時 11月24日(日)午後2時~

場所 パシフィックホテル沖縄 万座の間(2階)

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今日は島袋ヨシカズ名護市長立候補者の決起大会である。
老魔人日記には午後四時開始と書いてあった。私は決起大会に参加するために十二時半ごろに家を出た。
出かけるのは早いが、私は写真を撮ってぜひ皆さんに見てもらい場所が二か所あった。だから早く家を出た。最初の目的地は名護市とは反対の東海岸にある辺野古である。

私は時間に余裕があるので、もうひとつの目的を実行した。
それは東海岸の旧道に入ることである。復帰前に名護の七曲りと呼ばれていた頃の曲がりくねった一号線を何度も通ったから、東海岸なら道路を走りながら旧道跡が分かる。
しかし、東海岸は滅多に通らなかったので旧道を知らない。。旧道が残っているのか、残っていたらどんな風情なのかを知りたかった。

私は久志に入ると旧道の急坂を下って麓に下り、川に沿って進んだ。すると数軒の家と食堂が見えた。家はそれだけかと思ったら奥のほうに何件もの家があり集落になっていた。

バス停があった。「久志商店前」と書いてある。なつかしさを感じるバス停の看板だだ。この二車線道路は昔の幹線道路に違いない。
しばらくすると商店が見えた。


共同売店である。共同売店と言えば沖縄本島最北端の奥共同売店が有名である。ここはやんばるではない。しかしこの場所には、スーパーやコンビエンスがない。西海岸とは違う昔の風情を残した東海岸の集落である。なつかしさを感じさせる。

昔の幹線道路の風情である。


畑道にも入った。石灰で道路を固めその上にバラスを敷いた道だ。

ドラム缶でゴミを燃やしていた。昔は公民館や広場の掃除をした時は゛トラムカンで燃やしたものだ。
これもまたなつかしい風景である。

鳥よけだろうか。棘の鋭いアバサーを吊るしていた。

 風情を楽しみながら進んでいるといつの間にか辺野古に到着していた。港に車を停め、あの有名なテントの傍を通って防波堤を進んだ。
テントには二人の若者と一人の老人が椅子に座り読書していた。

 私が撮りたかった写真がこれである。手前に金網が見えて、ずっと向こうに岬の先端と離れ島が見える。そこが普天間飛行場の移設予定地である。金網から一・五~二キロメートル離れている。普天間飛行場と違って、民間地から随分離れた場所に飛行場は建設される予定だ。


 辺野古に移設すると基地反対運動がやりにくくなるだろう。騒音や墜落問題を訴える効果が辺野古ではぐんと低くなる。普天間飛行場が辺野古に移設されたら反基地運動が減退していくと私は予想している。それは革新側も同じ考えだろう。だから、全力で辺野古移設を食い止めようとしているのだ。

もう一つ私が撮りたかった写真だ。
辺野古の高台にある
旧Aサインバー街の入り口である。

海の方向に進むこの通りは結構長い。五、六〇〇メートルはあるだろう。

叢の先は崖になっている。その先きは木が茂っていて海が見えない。草木がなければ一・五~二キロ先に辺野古飛行場予定地が見える。

この地に三階建ての「道の駅へのこ」を建て、通りにはおみやげ店、食堂、喫茶店などをつくれば辺野古経済は復活すると私は予想している。
V字型飛行場、オスプレイを一度は見たいと思っている県民は多いだろう。もしV字型飛行場を一望できる場所があったら多くの県民が訪れる。それに観光客もやってくるだろう。
多くの人が私の考えに苦笑するかもしれない。しかし、嘉手納飛行場を一望できる「道の駅かでな」は連日観光客で賑わっている。辺野古なら観光客プラス県民で賑わうだろう。

辺野古を過ぎ、キャンプシュワブを通る。

キャンプシュワブは工事ラッシュである。嘉手納飛行場以南の米軍基地を撤去する準備はすでに始まっている。
読谷のトリイ通信基地にも住居らしき建物を建設中である。


名護に向かっていると、トンネルが見えた。

二見杉田トンネルである。名護市とは違う方向だがやじ馬の私はトンネルに入った。


トンネルは二見に出るだろうと思っていたが、道路は二見の側を素通りしようとした。私は慌てて左ハンドルを切り二見村に入った。時々「二見情話」関連で新聞に載る二見であるが過疎は進んでいる。さみしい思いをしながら、大きくカーブしながら山を登っていく旧道を進んだ。


四時にはまだ余裕があったので名護市内の食堂で食事をしようとしたが、なかなか見つからず、旧バスターミナルにある宮里食堂に入った。有名な食堂のようで客が一杯だった。私は人が多いのは苦手なのですぐに食堂を出た。
食堂を探しながら進んでいると名護市街を出て二見に行く道がある世冨慶まで来てしまった。食堂が見えたので脇道に車を停めて、食堂に行くとシャッターが降りていた。どうやら廃業したようだ。仕方がないので近くのうどん屋に入った。


三十年くらい前だと思うがうどんがおいしい店があると友人にこの店に連れて来られたことがある。看板に「めんくいの新ちゃん」と書いてある。こんな風に書くのはあの系統の人に決まっている。私はあまり好きではない。それにめんができるまでかなり長かった。私はそんな理由で長い間この店に入らなかった。しかし、今日は仕様がないので入った。客は一人も居なかった。
「奥のほうに座って。テレビを楽しんで」
親切ではあるが座る場所を命令されているようで私は嫌だ。
私はたぬきうどんを注文してから奥の席に座った。やっぱりうどんができあがるまで長かった。
 
手打うどん屋を出て、島袋よしかず候補の事務所に向かった。名護警察を過ぎて、沿道に緑に字で赤いよしかずと書いたのぼりが見えた。私は左折して海の近くに車を停めて、事務所に向かった。

直角に近い山が聳えている。こういう山を見ると崖のような山を登って遊んだ子供の頃を思い出す。



私は写真を撮るために隅のほうに立った。私の側には四人の男が座っていたが、右側の白髪交じりの男が入ってきた。四人と彼は知り合いらしく話し合っていた。彼らはウチナー口で話し合っていた。ウチナー口を聞いていると心がなごむ。彼は立つのがきつくなってきた。空いている席を探したがなかなか見つからなかった。


私は、「外から椅子を持ってきて座ったらいいよ」とウチナー口で言った。彼は外を見た後に首を振った。私は外を見た。
なんと、外も人が一杯になっていた。持ってこれる椅子はなさそうだ。暫くして彼は知り合いに案内されて前の席に座った。

 決起大会がはじまった。

男性より二人の女性の演説がよかった。若い我那覇真子さんは勇気を持って闘わないと滅びると誰よりも力強い発言をした。


仲村俊子さんは御年90歳を超す。とても元気である。


島袋ヨシカズ立候補者。




乾杯とがんばろうで決起大会は幕。暑いので急いで外に出た。外も支援者で溢れていた







インタビューを受ける島袋候補。

インタビューを聞いていると、島袋氏を応援する政党はまだないらしい。そういえば結成大会に議員のバッジを付けているのは一人もいなかった。政治というのは裏の駆け引きが色々なことがあるだろうから「正直者」は敬遠されるだろう。
「県外移設は非現実的」「辺野古移設なしに北部の経済発展はなし」と正直発言した島袋氏が名護市長になってほしいものだ。
私はこれからも応援していく。


 家に帰り暫くすると竹馬の友である上地がモーイとオクラを持ってきた。モーイの収穫の時期はとっくに過ぎたのに収穫できるという。私が温暖化のせいだろうと言うと彼もそうだろうなと言った。

野菜や畑の話から肥料の話になり、私は枯れ葉や小枝を粉にする機械を持っているので彼に見せた。近い内に枯れ枝葉を粉にする積もりだ

「どこで買ったか」
「ネットで買った。
「こいつはいい。俺の畑でも使いたい」と言ったが。
この機械は非常に重い。運ぶことができそうにない。彼はこの機械を畑で使うのを諦めた。

「京都の池田屋跡に新撰組という居酒屋ができたらしい。ネットで調べてくれないか」
上地は新撰組が好きだ。
ネットで探すと「海鮮茶屋新撰組花の舞」が彼の言う居酒屋だった。
池田屋ならではの新撰組コースがあり、土方歳三コースが3500円、斉藤一コースが3000円、沖田総司コースが2500円だった。
「なんで、沖田総司が一番安いんだ」
沖田総司ファンの上地は文句を言った。来年、彼は「海鮮茶屋新撰組花の舞」に行くだろう。

大湾の東側にある十五年前に返還された軍用地がいよいよ整地され人が住めるようになる。サンエーや本土の大手の自動車販売会社などが出店するらしい。返還地は読谷で一番大きい街になるだろう。
彼は返還地で畑をやっているが整地するために畑ができなくなった。返還されていない土地を貸す人を探していたが、なんとか見つかったそうだ。

私は彼にゴーヤー用の棚をつくるための鉄パイプを探してくれるように頼んでいたが、彼の友人で譲ってくれる人がいるらしい。

ラッキョウやニンニクを植えた話やドラゴンフルーツを植えたいが、泥棒が居るから植えられないとか、自然農法で成功している友人が居て、彼の畑でよく酒を飲んでいたが、事故を起こし罰金やら修理代が大変だったらしい。
色々とりとめのない話をして友人は帰った。

夜9時に、私はうるま市のみどり町にあるコンビニエンスに出かけた。


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