原敬、浜口雄幸、犬養毅の三首相暗殺そして22・6事件によって日本は軍国主義に向かった



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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから3
原敬、浜口雄幸、犬養毅の三首相暗殺そして22・6事件によって日本は軍国主義に向かった

江戸時代までは武士階級つまり軍人が政治権力を握っていたし、明治になっても元武士による藩閥政治であったが、立憲政治・議会制度の創設が論議されるなかで、1870年代には福澤諭吉をはじめとする三田派の言論人たちを中心に政党内閣制を採用するように主張され始めた。
1889年年(明治22年)に大日本帝国憲法が公布された。憲法において議会に予算議定権および立法権が認められていたので、議会の多数党を無視した政権運営は困難になった。政権を安定させるには、議会第一党および多数の議席を保有する政党との連携が必要になり、藩閥だけによる政治は困難になり、政党政治の方向へ動いていった。
江戸時代までは議会というものはなかった。将軍を頂点とする幕府というのは今の行政を行う政府であるが、江戸時代は政府で予算も法律もつくり、行政もしていた。明治になっても政府がすべてを行っていたが、明治憲法が制定され、予算と法律は帝国議会で決めることになり、政治は行政と議会に分業化したのである。

普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による民主化を求める運動が広がっていった。
大正時代に入ると、政党は大正デモクラシーを背景に勢力を伸張。1912年の第1次護憲運動の後、大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属だった。また、原が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから政党内閣として画期的な存在であった。
原内閣は、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進した。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行するなど極めて熱心であった。
「高等諸学校創設及拡張計画」が、4,450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。
政党政治を推し進めた原敬首相であったが1921年(大正10年)11月4日に東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された。暗殺したのは鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一であった。

原敬暗殺以後も政党政治は犬養毅暗殺まで続いた。
19代 原敬
20代 高橋是清 官僚
21代 加藤友三郎 海軍大将 
22代 山本權兵衞 海軍大将 
23代 清浦奎吾清浦 司法官僚
24代 加藤高明 外交官
25代 若槻禮次郎 大蔵官僚
26代 田中義一 陸軍大将
27代 濱口雄幸 大蔵官僚
28代 若槻禮次郎 大蔵官僚
29代 犬養 毅 政治家

民主化運動が広まる一方、政党政治に対する不満も高まっていった。明治維新以来,日清・日露戦争と日本が発展してきたにもかかわらず,中国民族運動の発展,国内の恐慌による経済混乱,社会運動の活発化,退廃的世相などに危機感を抱いた軍人や右翼による急進的な体制転換運動も活発になっていった。
原敬は1921年(大正10年)に刺殺された。9年後の1930年(昭和5年)11月14日に天皇の統帥権論を撥ね付けた浜口雄幸が東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され10カ月後に死亡した。わずか1年後の1932年(昭和7年)には血盟団と呼ばれる右翼グループに井上準之助前大蔵大臣と団琢磨(だんたくま)三井合名(ごうめい)会社理事長が暗殺された。5月15日には犬養毅が海軍の青年将校に狙撃されて死亡した。12年間で3人の首相が暗殺されるという異常なことが日本で起こったのである。
犬養毅の暗殺によって原敬から始まった政党政治はわずか10年で崩壊した。
犬養毅の次の首相になったのは元海軍大臣で、朝鮮総督の時期に子爵の爵位を授与されていた穏健派の斎藤実であった。
斉藤内閣はそれまで政党政治の政府が断固として承認しなかった満州国を承認した。そして、国際連盟の満州国調査報告書が満州国を独立国と認めず国際管理下に置くことを勧告したことから、斉藤内閣は国際連盟を脱退した。
軍部が要求していた満州国の独立という名の植民地化は政党政治から軍部による政治になったから決まったのである。国際連盟脱退も同じである。政党政治だったら国際連盟を脱退することはなかったはずである。

2・26事件によって軍部政権は強固になる
1936年2月26日、日本陸軍の一部の青年将校がクーデターを決行、首都の中枢を一時占領し、首相官邸・警視庁・NHKその他を襲撃し、要人を殺害した。首相岡田啓介は義弟が誤認されて射殺されたが本人は生存。その他、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎が殺害された。元老牧野伸顕は襲撃されたが難を逃れた。
クーデターをおこした青年将校は、北一輝などの右翼思想の影響を受け、政党や財閥を排除し天皇親政の国家を再建して、軍が政治の実権を握ることを目指した。皇道派と言われる軍上層の一部には反乱軍を支持するものもあった。
昭和天皇は軍部の政権を望んでいなかった
犬養毅首相が暗殺され、次の首相を選ぶ時に昭和天皇は犬養氏と同じ政党政治家の首相をするように元老西園寺公望に指示したが、昭和天皇の望みはかなわず軍人の斎藤実が首相になった。昭和天皇が望んでいたのは政党政治であったが、望みとは逆の軍部による政治が強くなっていった。
2・26事件を起こしたのは「皇道派」だったが昭和天皇は・・・
2・26事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われた。企業は次々と倒産し、町は失業者であふれていた。さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきた。
ところが、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、それどころか汚職事件が続発した。不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況が生まれた。このため、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになっていった。こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになる。
過激な計画や事件が続発していく。クーデターによる軍部内閣の樹立を計画する陸軍青年将校を中心とする桜会、現役の犬養毅首相を暗殺した海軍青年将校、一人一殺を標榜して財界人を殺害する右翼の血盟団などである。
当時の陸軍には「統制派」(とうせいは)と「皇道派」(こうどうは)という2つの派閥があった。「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥である。彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えていた。これに対して「皇道派」は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派であった。
青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く『昭和維新』を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張した。2・26事件をおこしたのは「皇道派」であった。

「皇道派」が起こした2・26クーデターに時の陸軍大臣も、「おまえたちの気持ちはよくわかる」といった訓示を出すなどして、事件を起こした青年将校の要求に沿うように見えたが、「皇道派」のクーデターに怒ったのが「皇道派」が最も崇敬していた昭和天皇であった。昭和天皇は彼らを「賊徒」(ぞくと・政府に対する反逆者)と見なした。昭和天皇は自ら早急な鎮圧を陸軍大臣に指示した。
天皇が自ら軍に指示したことは極めて異例なことであった。
同士討ちを避けたい陸軍は、武力で反乱を鎮圧するのをためらった。すると天皇は、
「私が自ら軍を率いて平定する」
とまで明言したという。
昭和天皇の怒りに、軍も本格的に動き出さざるを得なかった。アドバルーンをあげたり、ラジオ放送などによって、永田町一帯を陣取る反乱軍へ原隊への帰還を求めた。その結果、将校たちも観念して兵たちを原隊へと帰らせた。将校の二人は武力行使の責任をとって自決したが、その他の将校たちはこれらを「統制派」の陰謀と考え、『五・一五事件』、『相沢事件』と同じく、裁判闘争に訴えようと自決をやめ、宇田川町(現在の東京都渋谷区)の『陸軍刑務所』に収監された。
軍主流派の統制派は、昭和天皇の指示もあって鎮圧に動き、数日間で反乱軍は降伏した。首謀者や影響を与えた北一輝らは裁判にかけられ、死刑となった。

陸軍の実権を握った「統制派」は、広田弘毅が組閣する際、さまざまな口をはさみ、さらに『軍部大臣現役武官制』を復活し、軍の了解なくして内閣が存続できないようにした。このように『2・26事件』をへて、ますます軍部の政府に対する力は強まっていった。
2・26事件によって軍部政権は強固になる
軍部ファシズム体制の成立
反乱は鎮圧されたが、この事件は日本の右傾化に決定的な影響をもたらした。軍の一部の狂信的な皇道派は力を失ったが、統制派の軍人は官僚、政党・財界上層部と結んで広田弘毅内閣を成立させ、軍部大臣現役武官制を復活させて軍が政治を動かす体制を作り上げた。1932年の5・15事件のクーデターによってすでに政党政治は実質的に終わりを告げていたが、2・26事件は軍が国家権力を掌握するという日本型の軍部ファシズムを成立させる契機となった。
日本軍は、日本国内での「満蒙問題の解決」のため「中国政府を膺懲すべし(こらしめる)」といった論調に応える形で1937年に盧溝橋事件をきっかけに中国との全面戦争に突入していく。

昭和天皇は「皇道派」ではなかった
 昭和天皇は天皇機関説を認めていた。
天皇機関説とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。
天皇の王道的統治について、東京帝大の上杉慎吉は天皇と国家を同一視し、
「天皇は、天皇自身のために統治する」
「国務大臣の輔弼なしで、統治権を勝手に行使できる」
と説いたが、同じく東京帝大教授であり天皇機関説の美濃部達吉は、
「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためするのではない」
と説いた。
 美濃部の天皇機関説は学界の通説となり、民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。しかし、議会の統制を受けない軍部が台頭すると、軍国主義が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった。
 貴族院で天皇機関説が公然と排撃されるようになった。主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。
昭和天皇は天皇機関説を認めていた
昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は、
「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」
と本庄繁武官長に話し、真崎甚三郎教育総監にもその旨を伝えている。
国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち、
「安心が出來ぬと云ふ事になる」
と言っていた(『本庄繁日記』)。
また鈴木貫太郎侍従長には次のように話している。

主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ 。
『西園寺公と政局』戦後の天皇機関説
 昭和天皇の激怒があったから軍部は2・26クーデターの鎮圧に動いて、首謀者は厳罰に処せられた。もし、昭和天皇の激怒がなければ首謀者は軽い処罰になっていたかもしれない。というのは5・15事件で首謀者は厳罰に処せられなかったからだ。
 五・一五事件は、現役の軍人が首相を白昼ピストルで殺害するという前代未聞の事件であり、軍隊が暴走し、本物の暴力によって犠牲者が出たクーデターであった。
 事件後、海軍および陸軍でそれぞれ軍事裁判が行なわれたが、陸軍のほうは昭和8年(1933)9月に11名に対して禁錮4年の判決を出している。海軍の軍法会議では、主犯格の古賀中尉ら3人に死刑が求刑されたものの、判決では禁錮15~13年になるなど、刑が大幅に軽減された。
軍法会議を行なうにあたり、海軍では東郷元帥にもお伺いを立てていた。東郷元帥の意見は、「動機などを問う必要はなし。厳罰に処して可なり」というもので、きわめて理路整然としていた。検察官も理路整然としていて、これは海軍刑法の反乱罪に該当するため、首謀者は死刑が相当であると主張した。ところが主犯格3名に対して死刑の求刑を行なった法務局長は辞表提出を余儀なくされ、甘い判決になった。
5・15事件で軽い処分しか下されなかったことが、さらに2・26事件につながったというのが定説であるし、もし、昭和天皇の激怒がなければ2.26事件の首謀者も5・15事件と同じように軽い処分にしていただろう。政党政治にすることを指示し、天皇機関説に賛成していた昭和天皇は日本の政治が民主主義に進むことを望んでいたはずである。

ヨーロッパのような近代国家を目指した明治政府は四民平等・法治主義の国づくりにまい進した。民主化運動は大正デモクラシーに発展し、藩閥政治から政党政治へと変革したが、暗殺という暴力行為によって日本の政党政治は打ち砕かれて軍部が支配する政治へと変わっていった。昭和天皇が望まない軍部の政権になるとどんどん戦局は広がっていき、最後には敗戦する。政党政治であったら違った道を歩んでいたはずである。
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