なぜ英国はEU離脱を決めたか。そして迷走しているか



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なぜ英国はEU離脱を決めたか。そして迷走しているか
2016年6月23日に英国はEU離脱の賛否を問う国民投票を実施した結果、EU離脱票が過半数となった。国民投票の結果に従ってメイ首相はEU離脱案を作成して議会に提出した。ところがメイ首相のEU離脱案は議会で三度も採決されなかった。EU離脱が英国議会で迷走しているのだ。国民投票でEU離脱が決まったのだから離脱は順調に進むと予想していたが、メイ首相の離脱案が三度も否決されるという異常な事態になっているのが英国である。メイ首相は下院の手続きは限界に近づいている」と述べ、英国が袋小路に陥ったことを認めた。

国民が決めたEU離脱なのになぜ離脱案が議決されないで袋小路に陥って迷走しているのか。迷走するのは国民投票の結果からも予想できる。EU離脱賛成が過半数を超えたが、賛成は52%で反対が48%というわずか4%の差であった。国民のEU離脱に対する賛成反対は五分五分に近いのだ。EU離脱にはプラスとマイナスが拮抗していて難しいのだ。そうであっても国民投票でEU離脱が決まったのだから、議会でもEU離脱案を議決するはずであるが三度も議決しなかった。
EU離脱に迷走する原因はEUがローカル性の強い政治とグローバルな経済が複雑に絡んでいるからである。
 EUの前身は欧州経済共同体(EEC)である。名前から経済発展を目指した共同体のように思うが実はそうではない。欧州経済共同体の首脳が目指していたのは本当はヨーロッパの資本主義経済国を統一国家にしたヨーロッパ合衆国を設立することであった。ヨーロッパ合衆国設立を目指した国民投票をフランスは実施したが、反対票が上回り、ヨーロッパ合衆国計画はとん挫した。とん挫しても首脳にとってはどうしてもヨーロッパの資本主義経済国家を社会主義ソ連の侵略から守るために共同体制を築く必要があった。

戦前戦後はソ連を中心にした社会主義国家が急激に拡大していった。
黒い部分はソ連邦が崩壊する前の1980年代の社会主義国圏である。アジア大陸はほとんどが社会主義国であった。


社会主義圏が急激に拡大したのは武力による制圧が原因である。
1917年にロシア革命が起き、史上初の社会主義国家が誕生した。1924年のレーニンの死後に独裁的権力を握ったスターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国とした。スターリンはソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともにポーランドに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した。またバルト3国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにバルト三国を併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。 さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。

第二次世界大戦によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影はなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。
このようにスターリンによって社会主義国圏は急拡大していってヨーロッパの資本主義国家を脅かす存在になった。

ヨーロッパ合衆国をつくろうとした背景にはソ連を中心とした社会主義圏の拡大を防御する目的があったのである。戦後のユーラシア大陸は社会主義圏がどんどん拡大していった。地図では今にもヨーロッパがソ連に飲み込まれそうである。

圧倒的に拡大するソ連圏に対して資本主義国は防御しなければならなかった。そのためにヨーロッパ諸国の首脳はヨーロッパ合衆国を設立しようとしたのである。しかし、言語、文化、習慣などが違う独立国がひとつの国になるのは困難であり、国民が嫌った。合衆国設立を諦めた首脳たちは経済を中心とした共同体である欧州経済共同体を設立したのである。
1951年、欧州石炭鉄鋼共同体設立条約が調印され、欧州石炭鉄鋼共同体(英略称:ECSC)が設立された。共同体の目的は、
Ⅰ、域外に対する共通の関税制度を有する関税同盟の設立
2、農業、運輸、通商における共通の政策
と経済の共同であるが、経済で共通の政策を決めることは経済の発展を目的にしたものではない。政治的な結束を目指したものである。欧州経済共同体の設立条約の前文は、
「平和と自由を維持し、ヨーロッパ諸国民のより密接な統合の基礎を構築すること」
となっている。強調しているのは経済発展ではなく、ヨーロッパ諸国の統合を強調している。
 欧州経済共同体は経済を政治的に統合することによって加盟国の団結を強化するためであったのだ。欧州経済共同体は社会主義国とは相いれない資本主義国家の団結であり、設立の目的は経済の発展よりも資本主義国家の欧州をより強固な共同体にすることであった。同じヨーロッパの国であっても社会主義国家が欧州経済共同体に加盟することはなかったことからも分かる。
 
同じ経済共同体であるがEUのように政治色の強くないTPPには社会主義国家であるベトナムが加入している。経済共同隊を装っていながら反社会主義政治色の強いのが欧州経済共同体であったのだ。

欧州経済共同体が恐れていたソ連が崩壊する。東欧民主化革命によってソ連の支配下にあった東欧諸国が1989年に次々とと民主主義国家になった。
ポーランド民主化運動
ハンガリー人民共和国は1980年代初頭には既に経済の自由化や議会の複数候補制などの改革を進めていたが、1988年5月に社会主義労働者党(共産党)のカーダール・ヤーノシュ書記長が引退すると、社会主義労働者党内ではより急進的な改革を主張する勢力が実権を掌握するようになった。1989年2月に急進改革派は事実上の複数政党制を導入し、5月にはネーメト内閣がハンガリーとオーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。
1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。
ベルリンの壁崩壊
クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界的に広まった。
ブルガリアの民主化
ジフコフ長期政権が崩壊し、後任となったムラデノフらはあくまでも一党独裁制の枠内での自由化を進めようとしたがこれをきっかけに市民側のデモが活発化し、12月には党の指導性を放棄することや自由選挙の実施などを決定せざるを得なくなった。1990年の自由選挙ではブルガリア社会党(共産党が改名)が過半数を制して政権を維持し、ムラデノフが大統領となった。しかし、1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。
ビロード民主化革命
ベルリンの壁崩壊を受けて、東欧の共産党国家の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキア社会主義共和国では、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキアでは、1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指してビロード革命と言う
ルーマニア民主化革命
ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニア社会主義共和国では、1989年12月16日に民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが射殺されて終結した。チャウシェスクの死体はテレビを通じて世界中に晒され、チャウシェスクの死によってルーマニア社会主義共和国は崩壊し、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。
コマネチの亡命
チャウセスク独裁政権下のルーマニアでは個人の自由は認められず、警察も含め、誰もチャウセスク一家に逆らう事は出来なかった。
ナディア・エレーナ・コマネチは1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得し、オリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得した選手であった。1984年から1989年まで彼女はルーマニア体操協会のコーチとしてジュニア選手の育成にあたったが、ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男ニクが毎晩のように夜の街へ付き合うように求められ、愛人関係となることを強いられた。身も心もボロボロになったコマネチは、1989年11月28日、命がけでルーマニア脱出を敢行、6時間歩いて地雷が埋められた国境を越えハンガリーに逃れた。しかし、ハンガリー国境警察に逮捕されてしまう。ここでも彼女は決死の脱走を計り、オーストリアに脱出しアメリカ大使館に駆け込む。12月1日彼女はアメリカに渡り、自由を得た。
コマネチの亡命はルーマニア国民を奮い立たせた。12月22日、チャウシェスクの演説中群集はチャウシャスク打倒デモ隊と化した。大統領夫妻はブカレストを脱出したものの近郊のトゥルゴビシュティで逮捕、25日に特別軍事法廷で死刑判決を受け即刻処刑された。
1991年にソ連崩壊
1991年にソ連は崩壊し議会制民主主義国家になった。ヨーロッパの資本主義国家がもっとも恐れていたソ連が崩壊したのである。
ソ連が崩壊してもヨーロッパの資本主義国家は米国のような合衆国を目指した。
ソ連が崩壊した翌年の1992年にEECはEUに変わった。EUになると政治色がますます強くなっていった。
2004年10月、将来の拡大における受け入れ態勢の整備と肥大化した機構の効率化、さらには政策決定手続きの簡素化を盛り込んだ欧州憲法条約が調印されたが、同条約では「欧州連合の旗」や「欧州連合の歌」といったものを盛り込み、さながら欧州連合をひとつの国家とするような性格を持っていた。これに対して加盟国の国民からは自国が欧州連合にとって替えられるという不安から欧州憲法条約を危険視する風潮が起こり、2005年5月にフランスで、翌6月にオランダで行われた同条約の批准の是非を問う国民投票で反対票が賛成票を上回るという結果が出された。この事態にヨーロッパ統合を進めていた欧州連合の首脳は動揺し、また一部の首脳からは欧州連合のあり方について疑問や批判が出されるようになった。
 
EUは人、物、資本、サービスの「4つの移動の自由」を原則に掲げている。物、資本、サービスは経済であり、グローバルの性質がある。日本で生産した物が米国などの外国に移動して消費される。中国には多くの海外企業が資本を投資して中国経済は目覚ましく発展した。物、資本は自由に移動することによって経済を発展させる。祖家ぞ家の国の経済発展に寄与する。サービスも同じである。EUで物、資本の移動の自由は英国も歓迎である。
しかし、人の移動は物の移動とは性質が異なる。物は売れなければ倉庫に保管したり処分する。それに売れなくて損失を出した場合は企業が責任を取る。政府が責任を取る必要はない。しかし、人の場合は違う。労働力が不足しているなら補充できるから移民は歓迎するが、不景気になり労働力が余っている時には国内の労働者が移民に職を奪われてしまう。移民が無職になった時は国が失業手当を出さなければならない。移民のために国の税金を使わなければならなくなる。移民の中には英国で働いて高い給料をもらい。その金を英国で消費しないで母国に送金する者も多い。このような移民の行為は英国経済にはマイナスである。
人の移動は英国にとって必ずしもいいことではない。人の移動が必ずしも英国にとっていいことではないことが2008年に問題になった。

英国政府は、東欧諸国などからの移民急増に伴う国内の関心の高まりへの配慮などから2008年10月に報告書を発表した。報告書では外国人労働者の増加はイギリス経済の人手不足を緩和し、また税金や国民保険料などの増収を通じて財政改善に貢献すると移民の増加は歓迎するべきという内容であった。
これに対して、貴族院の経済問題特別委員会が公表した報告書は、政府が主張する外国人受け入れの「利益」は限定的であると指摘した。社会保障制度や住宅関連のサービスの利用にかかるコストを差し引けば、外国人の流入による既存の国内居住者一人当たりの利益はごくわずかで、また長期的には国内の人材不足への効果も薄いとしている。むしろ今後の継続的な流入は、公共サービスへの圧迫や労働条件の引き下げなどを招きかねないとして、外国人の流入をコントロールすべきだ、との見解を示した。
英国ではEUで決めた人の移動の自由には疑問を持ち、国がコントロールするべきであると考える政治家と国民は多かった。

「EUを離脱すれば英国の2020年のGDPは3.3%減少する」
「離脱すれば各家庭は毎年4300ポンドの損失を被り、2年で50万人が職を失う」
「離脱は欧州と世界の経済に深刻なダメージを与える」
と残留派は主にEUの共通市場を失うことによる「経済的な損失」の深刻さを訴えた。
残留派を支援するIMFや経済協力開発機構(OECD)などはマクロ経済的試算に基づく「巨大な損失」を次々に公表した。
しかし、エスタブリシュメント(支配層)側から出されるこうした警告は一部で「脅し戦略」と受け止められ、逆効果となった。
保守系デーリー・テレグラフ紙に載った有権者の次の声がその国民感情を代弁している。
「有権者はバカではない。離脱に伴うリスクは理解している。しかし、我々は脅されて残留に投票したりはしない」
EU離脱すれば経済的な損失は大きいことを知っていながらも離脱を決心するのは自由移動による英国民の深刻な現実があった。

EU域内自由移動の原則に基づき、より良い労働、生活環境を求めるポーランドやルーマニアなどEU域内からの英国への移民は、2004年~2015年までの11年間で100万人から300万人へと3倍に増えた。
社会保障や教育面などで自国民と同等に扱わなければならい人口が11年間でこれだけ増えることのインパクトは想像に難くないだろう。そして、欧州移民と雇用や公共住宅の確保などで競合する労働者、低所得者層を中心に、保守系デーリー・テレグラフ紙で主張しているような反EU感情が急速に高まっていったのである。
物=商品、資本の移入は国の負担にならない。むしろ経済発展に寄与する。しかし、人の移入=移民は国が決めた人権を保障しなければならないから国の負担となる。税金が使われる。そのために国にとって利益になる移民と不利益になる移民を調整する必要がある。しかし、EUは移民が自由であり、英国に調整する権限がない。経済・生活保障が発展している英国に貧しい国からの移民が増加し続け、それが英国民の負担になっていった。
英国民の移民に対する不満を増加させたのがシリア戦争によってシリアなどからの難民やイスラム系移民の2、3世の若者によるパリやブリュッセルでの大規模テロである。

英国がEU離脱する原因は「欧州移民」である。一方EU離脱に迷走している原因が物・資本の移動である。英国としては人の移動の自由は歓迎しないが物・資本の移動の自由は歓迎なのだ。EU加盟国間で貿易する際は「域内関税ゼロ」であるがEUから離脱すれば関税かかる。EUの国々に輸出する商品には関税がかかり値上がりするから輸出量が減る。イギリスの企業にとって大きな痛手である。
英国に進出している日本企業に英国での事業を見直す動きが拡大している。日産自動車が現地での一部生産計画を白紙に戻すことを発表した。そしてホンダも英国南部の工場での四輪車生産を2021年中に終了することを明らかにした。
ホンダの工場閉鎖にメイ首相は「失意」を伝え、クラーク民間企業相も「壊滅的な決定だ。深く失望している」と落胆をあらわにしたが、英国がEUから離脱すればEUへの輸出は税関の手続きなどが煩雑になり、事業を従来通り運営できなくなるばかりか、英国とEU間で関税が復活し、英国からEUへの輸出が減少するだろう。日本企業がリスク回避へ動くのは当然である。
日本企業だけでなく他の国の企業も英国離れするに違いない。英国のEU離脱は英国経済危機を招く可能性が高い。
貿易に関する経済だけではない。金融に関する経済でも英国は危機に陥る。
ロンドンの「シティ」は、世界の金融の中心街である。しかしイギリスがEUを離脱すると、海外の金融機関は今後シティに支店を置いても、EU諸国と規制なく金融取引をすることができなくなるため、シティの価値は大幅に低下する。海外の金融機関離れが起こってしまえば、イギリスにとって大ダメージだ。英国は金融マーケットの中心国ではなくなるだろう。
経済危機を恐れるから英国のEU離脱は迷走しているのである。

EU離脱による経済危機を防ぐために英政府はEU域外の国との間で暫定的な通商協定の締結交渉を急ピッチで進めている。イングランド銀行(BOE)もお金の供給を万全にする対策を講じるなど臨戦態勢に入った。英国際貿易省によると、米国やスイス、オーストラリア、チリなど10近い国・地域とこれまでの通商関係を継続できるようにする暫定的な協定を締結した。日本とも交渉を進めている。
 英政府は暫定的な関税計画も策定し、「合意なき離脱」の場合は輸入品の87%(金額ベース)を無関税とする方針だ(現在は80%)。アイルランドから英領北アイルランドへの輸入品についても当面は新たな検査を導入しない。現在無関税のEUからの輸入品は82%が無関税となるが、自動車や牛肉、酪農製品など、生産者を保護する目的で一部の輸入品は関税を設ける。
 金融監督当局も市場の動揺を防ぐ対策に追われている。BOEは欧州中央銀行(ECB)との間で、通貨危機の際に通貨を融通し合うスワップ協定を活用する方針で合意。英国内の銀行は英中銀からユーロを調達でき、ユーロ圏の銀行はECBを通じて英ポンドを調達できるようにした。米商品先物取引委員会とも緊急対策をまとめ、デリバティブ(金融派生商品)取引を従来通り実施できるようにすることで合意した。
ただ、他国との通商ルールが存在しない前例のない事態だけに混乱を防げるかは見通せず、不安の声が拡大している。
EU離脱に不安を持つ国民は国民投票のやり直しを求める大規模なデモを行った。主催者によると、デモにはおよそ100万人が参加し、「もう一度、国民の声を聞くべきだ」と唱え、再び国民投票を行うよう呼びかけた。イギリス議会への離脱の撤回を求める署名も、470万人分以上が集まっていて、離脱交渉の先行きが見えない中、残留派が勢いづいている。しかし、大手世論調査会社によると、「2度目の国民投票を行いEUにとどまること」を「悪い結果」と答えた人が「良い結果」を上回っている。わずかではあるが英国民の過半数はEU離脱をのぞんでいる。

ソ連が崩壊したから社会主義圏から資本主義国家を守るための団結は必要がなくなった。EUは経済発展を目指す政策に転換するべきであるし、それぞれの国に合わせた政治をやれるようにEUの縛りを緩和するべきである。

イタリアは中国の巨大経済圏構想「一帯一路」に参加することを決めた。イタリアは「一帯一路」参加の見返りとして期待しているのは、輸出と投資の加速により、この10年間で3回目となる景気後退から経済を引っ張りあげることだ。イタリアはEU参加国でありながら社会主義国家中国の一帯一路に参加を決めたのはEUの政治優先団結よりも自国の経済発展を優先したのである。欧州ではギリシャやポルトガルが既に中国と一帯一路参加の覚書を交わしている。

英国のEU離脱、イタリア、ギリシャポルトガルの一帯一路参加はEUの在り方も問われるだろう。
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